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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第四章 馬込川の戦い
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本多忠勝の攻撃

「撃て、撃て、撃て!」


 武田軍の矢が、馬込川上空を覆う。天竜川から見れば小川のような馬込川だが、それでもその川幅いっぱいに広がる矢の雨は壮観だった。

「進め!」


 その矢の雨も二月の水も気にすることなく突っ込む徳川軍の先鋒こそ、銀色の鎧に身を固めた若武者、本多平八郎忠勝。

 上様の仇を取らんと全身から炎をたぎらせているこの若武者を狙うべく、風林火山の旗を掲げた兵士たちが立ち向かわんとする。


「あれは本多忠勝だ!構うな!」


 だが冷静な指揮官はその兵たちを押しとどめ、あくまでも集中砲火を狙うように命ずる。

 弓兵たちはいっせいに忠勝を狙い、騎馬隊は他の兵の相手をする。その指示に従い次々と、二十六歳の青年を閻魔大王に会わせに行かせるための攻撃が始まる。

「構うのはこっちの方だ!」

 それでも忠勝は槍を振り回し、自分に飛んで来た幾十本もの矢をはじき落とす。そして忠勝に構っている間に手空きになった兵たちが次々と武田騎馬隊に向けて攻撃する。

「落ち着け!決して無理をするな!」


 若き英傑に対抗するようにたいしてひげも生えていない若き指揮官が采配代わりの槍を振り、徳川軍を受け止めにかかる。数を減らすことを最優先に騎馬隊を走らせず、守りに入る。ここぞとばかりにぶつかる徳川軍にしっかと立ち向かい、がっぷり四つの体勢に持ち込む。

「この戦いは押しつぶされなければ勝ちだ!」

 戦争には落としどころが要る。

 もちろん最高の決着と言うのはどうしても存在するが、その上で現実とすり合わせて考えうる所にまで持って行けばよしとするのもまた将の仕事だった。


「邪魔をするな!」

「邪魔をするのが我らの役目!」


 徳川軍が激しくぶつかり、武田軍が受け止める。

 右で徳川軍が死ねば、左で武田軍の兵が瀕死の重傷を負う。

 本格的な刃傷沙汰の始まりだった。



「欠下は」

「高坂様の軍は未だに不動、おそらくは織田勢をうかがっているようで」

「そうか」

 若い将は満足したようにうなずく。

「どうした徳川!織田勢は未だに動きがないようだぞ!」

 そしてそんな事を言える程度には狡猾な本性をむき出しにし、それらしくほくそ笑んでやる。並の将兵ならば煽ることはできるほどの笑顔だったが、本多忠勝たちは見えているのかいないのかわからないほどに冷静なまま押しに来るだけだった。


「今のあれには全部がお館様に見えているのだろう。しばらくは暴れさせておけ。その間に周辺の取り巻きたちを叩く」


 あくまでも冷静を気取り、決して無理はしない。本多忠勝を置き去りにして数を減らしに行き、後続の軍勢を受け止めにかからせる。

 その間も本多忠勝と言う一個の的に向かって矢は放たれ続け、落とされていく。たまに流れ弾が他の兵に当たるが、忠勝は一向に顧みることはない。



「さあ行くぞ!」



 そしてついに矢の雨をかいくぐった忠勝がここぞとばかりに槍を振り回し、一人、また一人と犠牲者を増やす。

 徳川家康を殺した存在を殺すまでは絶対に退いてやらないという強い意志を持った殺人兵器が、次々に風林火山の旗を赤く染めて行く。その兵器を叩き壊すべく次々と騎馬隊がぶつかり、押し返す。

「まだまだぁ!」

 忠勝は一喝と共に槍を振るが、三本がかりの前にはかなわず弾き返される。その間にも同士討ちを避けるように見事なほどに矢が飛び、殺人兵器を砕こうとする。

 本多忠勝の前だけでなく左右からも攻撃が迫り、肉体ごと押し返しにかかる。


「黙れ!味方まで殺して我が主君を殺そうとした武田信玄になぜ従う!」

「それはお前の主があんな魔王にひざを折るからだ!」

「魔王だと!」

「魔王でなければなぜ比叡山延暦寺や伊勢長島にて人間を焼いた!」

「魔王であれば浅井備前守殿の降伏を許すわけがあるか!」

 実際問題、武田軍は浅井長政を助命した理由がわからなかった。

 犬上川の戦いのいきさつはある程度把握していたが、それこそ最後の最後にやけくそのように突撃して来ただけであって信長を勝たせたわけではない。万福丸を岡崎預かり、越前三万石へ降格、養子として信長の乳兄弟の子を押し込むなど厳しい待遇を受けていたが、それなりの待遇を与えられたことに変わりはない。

「魔王が仮に魔王だとしても拙者は戦う!徳川のお家のために!」


 振り回される刃は数本の槍と二つの首を弾き飛ばし、さらに彼自身を押し込めようとする人間をも追い払わんとする。それでも武田軍は必死に信玄と忠勝を引き離そうとして体をぶつけ、執拗に腕を狙う。




「やりおるわ信豊も。さすがは信繫の息子か」

 

 本多忠勝の殺意を受けていた信玄は甥の活躍に目を細めていた。

 二十五歳の青年は決して無理をすることなく相手の力量を踏まえ、そして勝利を理解している。

「信長めは短期決戦こそこっちの勝ち筋だと思っている。だが防衛戦と言うのは引き分けであれば勝ちだ。なんなら相手が負けと思えば勝ちだ」


 武田が求める勝ちと信長が求める勝ちが違うように、信長が求める勝ちと徳川が求める勝ちは違う。徳川はそれこそ家康様の仇であるにっくき武田信玄の首を取らねば勝ちとは思わないだろうし、織田としても去年武田が徳川からかすめ取った領国を奪い返さねば責任を果たしたとは言えない。


「織田家は確かに連戦連勝して来た。だがこの武田とはほぼ初対決だ。そこで勝てばなおさらその名を上げられるが負ければ話は別だ」

「それはこっちも同じでは」

「だから防衛戦と言うのは引き分けなら勝ちだ。やりやすいのはこちらなのだよ」


 侵略を行うには、相手の土地の事を知っておかねばならない。もちろん相手の兵力も、その他の情報も。防衛戦と言うのは前者の手間が省けるし、最悪逃げないだけで勝つこともできる。無論地形その他の要素は絡んでくるし今回の場合相手にとって勝手知ったる土地ではあるが、それでも互角ぐらいには戦えると信玄は思っていた。

「信長は予想外に慎重だな、高坂はともかく北条や勝頼が援護に行くのを待っているのか」

「気になるのは若君様です。功を焦って勝手に動いたりせぬかと」

「勝頼はわしを信じておらん、わしが蒔いた種とは言えな。

 あれはあまりにも武者すぎる。将と言うのは右手で相手の手を握りながら左手の刀で刺すような人種だ。あいつは両手で刃を握るか両手で握手するしかできない」


 その上でその笑顔のまま、息子の事をあっさりとぶった切る。


「確かに勝頼は武将としては実直だ。だがそれ以上でもそれ以下でもない。信長のような本物の天才には勝てん。それを何とかするにはずるくなければ駄目だ」

「なれるのですか」

「難しいだろうな、それはもう素質と言う物だ。出来合いの狡猾さはただの兵法でしかない。もちろん兵法も大事だが、兵法書を読むだけでは二流にしかなれない。誰か狡猾な兵法を授けられる人間がいればいいのだが……」


 跡部勝資、長坂長閑斎。どっちも勝頼の側近足りえる器には思えない。

 確かに狡猾かもしれないがその狡猾さは保身とおべっかにのみ使われており、武田に栄光をもたらす方向には使われていない。いや使ったとしてもとても活躍できるほどの力はない。いっその事適当な罪でも作って片方でも殺してしまえればいいのにとか考えなかったわけでもないが、そうするほどの理由がまずなかった。


 狡猾と実直は相反しない、それが信豊であり、ああして徳川の攻撃をいなし続ける有様は甥ながらなかなかにあっぱれである。だが信豊ではあまりにも血が濃すぎ、他の有力武将のひがみを買いやすい。武田家とか言った所で、他の有力武将の力なしではまとまりようがない。

 信玄の小姓頭の武藤喜兵衛だって、信州の真田家の三男坊で武田に服したのは比較的最近にあたる一族だ。かつての鎌倉幕府が滅んだのだって北条氏、取り分け得宗が全国の半分を治めるほどに利権を独占したからである。


「だがこのまま織田が動かねば」

「動かないなら動かないでいい。信長がこの本多忠勝の攻撃をどう思っているかと言う事だ」


 計算の上か、それとも予想外か。後者だとしても適応できる力があるだろう。なれば適当な所で救援と称して向かって来るはずだ。



「後典厩(信豊)様の軍勢が本多軍を押しているようです」

「決して渡河はしない、か…………それでよかろう」


 やがて、形勢が武田方に傾いた。よく見れば二千程度しかいない本多軍は信玄の配下から三千近く回されていた信豊軍を突破できず、馬込川に追い落とされている。後ろを向かないのはさすがとは言え、いずれにしてもこの場面では武田が優勢だと言える。


(信長め……まだ動く気もないのか……兵たちの忍耐は認めるが、いい加減にせんとこちらの勝ちで終わるぞ……)


 そんな風に有利になってなお、動こうとしない織田軍。

 このまま徳川を、本多忠勝を潰す気なのか。


 血しぶきが目に入った気がした信玄はこっちがあせってどうするとばかりに首を振り、再び視線を前にやる。



「敵援軍が来ました!」

「ようやくか!」


 それだけについ口を突いてしまったその言葉にハッとして信玄は慌てて右手で口を押さえ、左手で左頬を叩いた。

 何をやっている!仕掛けて来る事を望んでいた、ではなく仕掛けてくればこっちの勝ちだとか呆けたことを考えていたのか!あわてて心を落ち着け再び本多軍に目をやると、確かに後退する本多軍を守るように兵が出て来ている。




「お館様……」

「まったく、信長の短気は演技だとはっきりわかるな……」




 ————————————————————葵紋の旗の、兵が。

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