武田勝頼の煩悶
第四章、ついに武田vs織田です!
二月四日。
天竜川を渡河した武田・北条連合軍二万五千は、馬込川周辺に陣を張った。
「信長は」
「三方ヶ原におります」
信玄は六千の兵と共に先頭に立ち、次鋒として高坂昌信の五千の兵を率いている。三番手を北条氏照の援軍七千が勤め、最後方に勝頼の四千が控えている。
そしてこれらの援軍として北条氏照に宛がわれた松田直秀が氏照から分けられた三千の兵を率いていた。
「しかし木瓜紋かと思いきや変なものを掲げるな」
「信長はあれこそが時代を動かすと信じているのでしょう」
信玄は三方ヶ原に並ぶ旗を見て目を剥いた。
黄色地なのはともかく、なんと永楽銭が掲げてあるのだ。
そして間違いなく、あれが織田信長だと言う。数はおよそ一万。
他には織田信忠と佐久間信盛が追分から欠下————姫街道と秋葉街道の交差点周辺に一万で構え、さらにその少し後ろの追分にいる七千が葵紋の旗を掲げている。
「それで織田の作戦をどう見る?」
「欠下へと突っ込みそこに我らの兵を集中させ、強引に渡河して横っ腹を突くか、あるいは一度引いたふりをしておびき出すか」
「となると最初の相手は高坂か」
信玄は小姓頭の武藤喜兵衛と共に雑談を交わしながら、自分が焼いた旧浜松城へと入る。
当然本城としての機能はないが、陣を張るには悪い地ではない。
と言うか、もう先行部隊の手により本陣は張られていた。
人の悪い笑みをしながら、旧浜松城へと入り、風林火山の旗を高く掲げる。
この上なく、いやこの下なく趣味の悪いお話だが、挑発としては十二分だった。
「織田信長が手綱を引いて居れば話は別だがな」
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「大胆を通り越している……」
信玄のやり方についてそんな感想を抱いたのは、高坂昌信ではない。
「徳川勢を暴走させ、織田の作戦を乱す気なのでしょうが……」
「そんな事なら他にいくらでもいるだろうに、風林火山の旗一本と兵一人でも勤まる話だぞ、何を考えているのだ父上は……」
最後方に陣を張った武田勝頼は、父親の作戦に呆れていた。
どう考えても囮だというのに、なぜそんな危険な立場を総大将がやらねばならないのか、死んだらおしまいの総大将が。
「わしは確かに言ったぞ、そうだろう」
「はい、お館様に若殿様はしっかりと申し上げました」
その役目を最初やると言ったのは、勝頼だった。確かに勝頼も次代のお館様だが、まだあくまでも次代のそれでしかない。
「なあ勝資」
「なんでございましょうか」
「父上は二年前から少しおかしくなっている。元より独断専行気味だったが、最近はそれがつとに進行している。
と言うか、命を惜しまなくなっている」
自分の命だけでなく、他人の命も惜しまない。勝つためならば平気で損害を出し、国内が傷ついてもなんとも思わない。
死なんと戦えば生き、生きんと戦えば死する物なりとか言う上杉謙信に当てられた訳でもないが、最近の信玄は勝頼たちが知るそれではなくなっていた。
「高坂殿にも進言なさったのでしょう」
「話にならなかった。それがお館様の方針だからと。まったく、父上はいつから北条早雲になられた?それとも御祖父様のように、長生きの血筋なのか?」
勝頼の祖父の信虎は確か八十二歳、いまだ健在だと言う。現在は幕臣になっているらしい。
だが病知らずらしい信虎と違い、信玄は数年前まで労咳を患っていた。それこそいつ死んでもおかしくないほどに弱っていたはずだ。
「だいたい父上はここ最近おかしい。事あるごとに我が息子を呼び出してはあの武藤喜兵衛とか言う小姓頭の子と遊ばせ、わしの事は置き去り。
確かにわしはもう二十六だが、跡目であるというのに何もかも自分でやらねば気が済まぬのか」
もういい加減後進に道を譲ってもいいはずなのになぜそれをせず家督を抱え込んでいるのか。それでうまく回っているから何ともやりきれないのだが、いずれにせよ勝頼にとっては面白くない。
「そう言えば北条殿とお会いした際にも武王丸様を側に侍らせていたとか」
ふざけるのも大概にしろと言う言葉を飲み込み、空を仰ぐ。
人の息子を一体何だと思っているのか。
まだ七歳の息子から親を奪い、いい祖父気取りなのか。
「北条殿も呆れていたそうだな」
「ええ、まるで話を真剣に聞く気がなく、何を言ってもはぐらかすばかり。真面目にやれと迫った所でなんとかなるだろうとか言う楽観論の連続。それでいて渋ろうとするととんでもない眼光で脅して従わせるなど、それこそ同盟相手ではなく部下にするような行い……」
勝資は氏照から聞いた事を臆面もなく勝頼に言いふらした。
氏照自身信玄の振る舞いに辟易していた事もあり、勝資と言う次代の君主の側近に遠慮なく愚痴をこぼしまくった。
(まったく、どうしてそんな滅茶苦茶な行いをして許されると思うのか……武田の中でさえもこんな調子なのに北条殿にさえも恥を掻かせるとは……確かに数年前までは敵対関係だったが今は同盟相手だろうに!)
北条は武田を見捨てれば西からの盾を失い織田に呑まれる—————そう言い聞かされて来たから北条からの同盟破棄は考えにくいとか言われていたが、上杉景虎のいる上杉と手を結び信玄を裏切らない可能性がどこにあると言うのか。
(かつて父は祖父を放逐して家督を握った男、それから祖父もまた叔父殺しの内紛を勝ち抜いて武田を治めた男……)
勝頼はかろうじて心を押さえながら、南の旧浜松城をにらみつけた。
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「お互い構えはできたようだな」
「しかしこのまま長引けばどうなります」
勝頼がかつて信玄がやったクーデターを思い返している中、信玄は悠長に敵陣を眺めていた。
葵紋の旗からは旧浜松城からでもわかるほどに殺気が漏れ、命令が出れば今すぐにでも信玄を食い殺しそうなほどになっている。
「信長はおそらくわしが長引くのを嫌っていると思っている。最悪何もせんで釘付けにできればそれでよしと思っている」
「なればこそ徳川を煽るために」
「だが徳川は動かん。信長が動かせん」
「できるのですか」
「家康のせがれが親父になったという話を知っているか」
信長があまり隠す気がなかった事もあり、酒井忠次の息子を信康の養子に押し込めたことは武藤喜兵衛も知っている。
「信康まで万一の事があった場合その次を用意したと言う事でしょうか」
「甘いぞ」
この程度の判断しかできなかった喜兵衛を、信玄は笑いながら諫めた。
「酒井忠次は家康の叔父だからその息子は家康の従兄弟、だから徳川を継ぐ資格はあるとか言わぬだろうな」
「え、いや、その……」
「お主も若いな。忠次の息子が徳川の次代の後継者となれば忠次の権威は膨らむ。忠次は年齢からしても貫禄があるし、元より地位も高かった。わしが石川とやらを殺した結果酒井の権威は一強になってしまったからな、信長も味な真似をする」
徳川をまとめられるのは酒井忠次しかいない事をすぐさま見抜き、その権勢を高めるために家次を次期当主の座に押し込ませた信長に、信玄は素直に感心していた。
「話によれば家康の妻はかなりの猛妻らしい。今川の坊やは今川の権威を振りかざす女だとか言っていたが、それを差し引いても夫を尻に敷く妻だった」
「武田は大嫌いでしょうからな」
三国同盟をぶち壊して駿河侵攻を行った信玄を築山殿が好いているはずもない。ましてやそんな事をしておいて三国同盟の一角であった北条と武田が仲良くしているなど、それだけでも怒りで頭がどうにかなってしまいそうなほどだろう。
その挙句、見下していた向きがあったとは言え亭主を殺されたとあれば……。
「今頃はあの女に引きずられているかと思ったが、信康の母と家次の実父の権威などどっちが上でどっちが下かわからんしな」
「彼女は自分が主導権を握れると思っていたのでしょうか」
「思っていたのだろうな。徳川は今でも今川の配下であり、自分がほしいままにできると。信康を生んだ事により今川の血族を引き継がせ、それにより間接的に徳川を支配できるとな、ハハハハハハ」
信玄の正妻の三条の方は信虎から押し付けられた政略結婚と言う事もあり折り合いは良くなく、義信との不仲もそれが一因であった事は信玄も認めていた。どうあがいても妻の子は妻の子であり、どうしてもその血と因果は子に含まれてしまう。
「おい今信康を殺してしまえばあの女が徳川をすべて焼き尽くすとか思わなかったか」
「それは……」
「顔に出るようではまだまだだな。あんな小者女にこれ以上かかずる必要もない」
酒井忠次が実質徳川を支配しているという状況は、信長にとって好ましいと共に信玄にとっても好ましかった。
確かに信玄はいずれ徳川を完全に潰す気だったが、それこそ無人の焦土を渡されては困る。あんな恐ろしい女が主導権を握れば、それこそ元からの癇癪と仇討ちと言う絶好の大義名分と共にすべてを食らい尽くしにかかっても一向に笑えない。土地を欲しがるのはそこから得られる作物ありきであり、ただの土ではない。
「しかし酒井が主導権を握っているとなると、おそらく」
「この場にいる徳川の人間は酒井の意思で動く。信康の義兄とも言うべき酒井のな。おそらくは」
築山殿に関する話がひと段落し、酒井忠次に移った所で、戦場が一気に戦場になった。
「武田信玄め!大殿様の無念を思い知れ!」
ついに、徳川軍が動き出したのだ。
後の世で馬込川の戦い、あるいは第二次秋葉街道の戦いと呼ばれる戦いが始まったのである。




