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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第三章 武田の信用
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北条氏照の失望

「兄者」

「氏照、よく来てくれた」


 北条氏政はまだ寒い小田原城の隅で茶をたてながら氏照を呼んだ。

 ずいぶんと悠長な顔をしてその茶を勧めようとしている兄を、氏照は嘆くでも怒るでもなくじっと眺めている。

「それは」

「無論お前に飲ませるためだ」


 氏政は茶室でゆっくりと茶碗を受け渡し、氏照はゆっくりと受け取る。


 そしてじっと口を付け、氏照はずいぶんと悦に入った顔をする。



「ふむふむ、結構なお点前で」


 —————北条はいつもこうなってしまう。織田のような活発さや徳川のような規律ではなく、良くも悪くもなれ合いだった。

 小田原評定とか蔑まれているが、氏政も氏照も一向に気にしていない。


「それで、わざわざこのために」

「とんでもない。心を落ち着けるためだ」

「そうですか」


 氏照は茶碗を置き、ようやく顔を引き締めて当主である男をにらんだ。



「遠江に行ってもらいたいのだ」

「遠江と言うと、武田から要請でもあったのですか」

 だが目つきに反して言葉はどこか甘ぬるく、茶碗の中身とは大きな違いだった。

「まあ、そういう事だ。徳川家を地上から消したいのだろう」

「……本気ですか?」

「徳川家康を消せば空中分解すると思ったのだろう、それが案外と持つから困ってしまったのかもしれぬ。まったく、わしもこんなにしぶといとは予想外だったがな」

「それがむしろ好都合だと思いますが、正直信玄公にしては中途半端なやり方だと思うておりました」


 氏照の中途半端と言う言葉に、氏政は深くうなずく。

 徳川には元から武田を脅かす力はなかったはずだ。織田が来ればまだしも、徳川一家では遠江を守るのがせいぜいであり、駿河や甲斐を脅かす事などできないはずだった。

 それが今や徳川家康を失い、最後の一人になっても武田を食い尽くさんとするとんでもない関係になってしまった。西ばかり向いていた信長が本気になれば、武田とて無傷でいられるはずもない。


「だがこうなってしまった以上武田は毒を食らわば皿までの精神で行くしかない。こっちもそれに付き合うしかないって事か」

「確かに……」


 信長が言っていた通り、北条は武田を無為にはできない。だが北条にしてみれば武田はほどほどに活躍してくれればいいだけであり、何もあそこまで活発にやらなくてもいいと思っていた。それが家康を強引に殺すなど全くの予想外であり、初めてその報告を聞いた時には驚くより先に腰を抜かした。ましてやよくやったとかは欠片も思わなかった。


「一万で行くか」

「行けますけどね」

「まあ適当にやって来い、後であの正義の味方を黙らせてやるためにな」

「了解です」



 北条の目線は、小田原城より西には向かない。せいぜいが上野であり、後は下野、下総、上総、安房。越後の上杉だって、関東圏を制覇できるのであれば寝ててくれればそれでいいでしかない。何なら上杉景虎と言う名の氏政の実弟がいる以上、いざとなればいくらでも仲直りできるぐらいのつもりでいた。

(たっぷり貸しを作っておくか……)

 氏政自身、武田が援軍を求めていることはもちろん予想していた。だがそれでも適当に四、五千程度送っておけば十分程度に考え、その程度の気分でいた。だが家康の死を聞いた事によりのっぴきならない物を感じ、あわて気味に兵力を増やしていた。貧乏くじを引かさせられたという思いが氏政の中で膨らみ、茶を立てさせた。

氏政は本気でそう思っていた。




※※※※※※※※※




 氏政が半ば八つ当たりの思いで茶を立ててから数日後の一月末日、駿府城に三つ鱗の旗が翻った。


「信玄公自らとは」

「何、将が足らぬゆえにな」


 駿府城にまで信玄が出てきていることに驚きながら、援軍の総大将である氏照は深く頭を下げた。

「信長は徳川と共にやって来ておる。それならこっちもわし自ら出るしかなかろう」

「織田配下には名将たちが多いと聞き申す」

「何、気にする事はない。どうせここにいるのは二流ばかりよ」


 柴田勝家と羽柴秀吉は越前と近江に釘付け、明智光秀は京の守りに追われ、滝川一益は伊勢平定に回っており、丹羽長秀と共に伊賀を一気に叩き潰す計画まであるらしい。残るは池田恒興だが、これも南近江の守備に回っている。その気になれば岐阜まであっと言う間にたどり着ける距離だが、遠江までは当分無理だろう。

「だがその中に佐久間信盛とか言う男がいる。それさえ気を付ければ良かろう」

「その信盛とは」

「真面目で忠実だが信長の突拍子もないやり方について行ける男ではない。防衛戦に強いとか聞くが今回は攻撃だからな、信長の操り人形であれば役に立つだろう。ただそれをできそうな男なのが問題なのだが」

 操り人形とか簡単に言うが、操り人形になること自体あまり簡単でもない。太鼓持ちとか言うと言葉が非常に悪いが、それこそ相手の言う事をきちんと聞いたうえで理解し、その上で忠実に行動せねばならない。だいたい、一人の英雄によって戦いが決まる戦争なんてめったに存在しない。氏照も信玄も、信長もそう思っていた。

 ただ信玄と氏照は上杉謙信と言うそれができる存在を肌身で感じ、同時に信長はその経験がないとも思っている。ゆえに股肱の臣である信盛はそれができそうであり、それが信玄にとって懸念点だった。


「作戦のほどは」

「とりあえず風林火山の旗を見せ付けてやる。それでむきになればそれでよし、ならねばいつもの通りにするだけだ。

 にしても駿府と言うのは不思議な所だ。生まれてこの方見なかった海と言う物が広がり、そこからさまざまな代物が来る。塩も魚も貝も。相州ではたやすく手に入るのであろう」

「小田原は結局山です。南の海岸や伊豆、東の端の海岸から来る産物などは結局遠い存在です。ましてや武蔵となると海は一部で、そして何より里見が……」

「山道には慣れたが、海もまた道なのだな。この南の海はどこまで言っても何もないらしいからその点では気楽だな」


 だと言うのに急にすっとぼけた物言いをする信玄に対し氏照は天井を思いっきりにらみつけてやったが、信玄は全く動揺しない。懸念を述べるだけ述べておいて六男の葛山信貞に氏照の接待をさせ、世間話を楽しみ出している。最近ではアワビとやらの煮物に凝り出したとか言い出し、それなら戦の縁起物である打ちアワビ以外にもなるとか言い出して来た時はめまいを覚えそうになった。


「徳川に続き織田の首魁まで討ってしまえば後顧に憂いなしと、ずいぶんと大胆ですな」

「そこまでは望んでおらん、理想は理想でしかない。出来上がってしまった器を壊すのは未完成のそれを壊すより数段難しい」

 だからそのせいでまずいことになったんですからねと嫌味を言ってやったが、相変わらず要領を得ない言葉しか帰って来ない。

「いいえ、なぜあんな小僧を懸命になって殺しにかかったのです」

「それならついさっき言っただろう、あれは放置していたら武田を、いや北条をも食い殺す。食われたくないだろう」

「それはそうですが」

「わしの見立てではあと十年もあれば武田が食われていた。その前に何とかするのが親父の責任と言う物だろう」

「しかしそれにより徳川はいよいよ本気になり、織田もまた本腰を入れてくるは必至だと言うのが兄とそれがしの懸念です。もはや後に引けなくなると」

「先刻承知だが、違うのか?」



 だから直接責めてやったのに、相変わらずな調子でしか返って来なかった。



「徳川や織田との対決は承知。向こうが頭を下げてくれば話は別だがこっちが和平を持ち出す道理は何もない。ましてや徳川など踏み潰して何が悪い」

「なんと…………」

「今の徳川はもはや同盟勢力ではない、ただの織田の配下、要するに織田の一部だ。小袖の袖が擦り切れただけで絶望するのか?」


 姉川の戦いの存在。その経過。

 それが北条が徳川について知っている情報の大半だった。浅井軍に圧倒的に押されながら徳川軍の攻撃で勝利と言う、どう考えても強兵としか思えないそれ。そんな軍勢を本気にさせるなど正直武田の事があっても面倒だった。


「あくまでも援軍は援軍です。一万と言う数に依存するような事をなさらないでください」

「…………わしでなければ武田を捨てるのかね?」


 この餓虎を前にして胃を押さえようとした氏照だったが、その餓虎の一撃が胃ではなく肝臓と心臓に鳴り響いた。


「そのような事は断じて!」

「まあ良い、北条に捨てられたら武田も危ないからな。せいぜい捨てられんように丁重に、確実に戦わせてもらおうとするわ」



 言いたいことは言い終わったとばかりに高笑いする信玄を前にして、氏照はぐったりとする事としかできなかった。




(兄上……風魔……確かに言いたいことはよくわかりました。でも、これは……!)




 魔王に立ち向かうにはここまでの境地にたどり着かねばならぬのかと思わせるほどの力の差。

 しかもまだ何かを隠していそうに思えてくる。


「葛山様」

「おいちょっと、落ち着け、落ち着けってば!」


 信玄の息子と戯れている童子を見ても一向に氏照の気分は鎮まらない。一刻も早く小田原に帰って信玄の恐ろしさを伝えねばなるまいという気持ちばかりが、氏照の中で膨れ上がって行く。



 そして気持ちとは裏腹に、氏照はこれより信玄の援軍として遠江へと駆り出されて行く——————————。

北条氏照「えっもう第三章は終わりなのか!?」

武田信玄「この後は翌日の登場人物紹介を経て、一日休ませてもらおうかの。ああ28日は三の酉ゆえに火事には気を付ける事じゃな」


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