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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第三章 武田の信用
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織田信長、岡崎に着く

「お越しいただき誠にありがとうございます」


 一月二十日、年末に尾張に戻っていた信忠その他の軍勢を集め、二万になった軍勢が岡崎に着陣した。


 国境の警護に当たっている大久保兄弟以外信康以下徳川の家臣がほぼ勢ぞろいする姿は信忠から見ても壮観であり、皆一様に勇ましかった。


「兵の数は」

「本来は八千ですが大久保達が街道の守護に当たっており五千です」

「そうか。我らは二万を持って来た。合わせれば二万五千から二万八千か」

「武田は強引に兵をかき集めてそれぐらいでしたのに……」

 筆頭家老である酒井忠次の言葉と共に、場は静まり返る。確かにこれまでも織田軍と幾度か共闘して来た事もあったが、それでも二万五千と言うのはなかなかにけた外れだった。

 しかも、柴田勝家・羽柴秀吉・明智光秀・池田恒興・滝川一益が不在の中である。総兵力となると五万以上ではないだろうか。


「それならば武田の坊主も鎧袖一触ですな!」

「いや、まことに心苦しき話だが、すぐに信玄を討つ事は叶わぬ」

 そして当然のように浮かれ上がった榊原康政に対し、信長は厳しい現実を叩き付ける。

「信玄は出て来ぬ。来たとしても後方でふんぞり返っている。そしておそらく信玄に二万もの兵力をぶつけてくる余力はない」

「それなら!」

「信玄は馬鹿ではない、自分が死んだら武田が傾くのがわかっているから、こんな本気でかかる必要もない戦で出て来ないと言うだけよ」


 まごう事なき事実だった。信玄にとって命を懸けるべき相手は信長であり、上杉謙信であり、家康だった。今の徳川家は織田の同盟相手ではあるが服属勢力に近く、わざわざ本腰を入れる必要も少ない。


「この戦は、あくまでも浜松城を取り返すのがせいぜいであろう。二俣城まで取り戻せれば重畳だろう」

「そうですか、しかし」

「心得ておる。浜松城はもうないのだろう」


 忠次と、浜松城が失われたいきさつを聞かされていた信忠は深くうなだれた。同じようにいきさつを知っていた信盛はまだ平気な顔をしていたが、いずれにしても悲劇であることは変わりない。



「信玄めが、徳川殿の残り香をすべて焼き尽くしたのだろう……」



 武田軍が乱暴に突入して家康を死に追い込み、抵抗した兵を皆殺しにした。そして血天井をたくさん作り、解体した後に放火して城を焼いてしまった。

 家康の肢体などは三河ではなく東遠江の寺に運ばれ埋葬され、浜松城はただの土台と化してしまった。


「自分たちも使う気がないのでしょうか」

「浜松城よりも徳川殿が恐ろしかったのだろう。その方らの意志をくじくためにな」

「名前とは諸刃の刃ですね……」

「奇妙よ、だが決して逃れられる物でもない。いやたとえ吉法師だろうが何だろうが余は余であり、生まれてからずっとその業を背負っている。

 太郎だか晴信だか、虎千代だか景虎だか政虎だか輝虎だか知らんが、信玄も謙信も随分と執心する物よな」

 この時代、本名を知られるのは都合のいい事ではない。諱が「忌み名」に通じるように、本名を呼ばれるのはそれこそ呪詛の対象にもなる。信長自身はもう割り切っているが、それでも息子の事はまだ奇妙丸と言う幼名で呼び、徳川の家臣たちも○○殿としか呼ばない。信長がそれらを知っているのは間者の成果であり、信長も彼らにきちんと報酬を与えている。



「まあ名前の事はさておき、武田は既にこちらの動きを関知している」

「でしょうな」

「そして間違いなく北条は首を突っ込んで来る。北条は武田を切れないからな」



 そして武田攻略に当たって最大の障壁となるのが北条だ。北条は二年前に武田と同盟を結んでからかなり強く結びつき、上野もすでに上杉の手から零れ落ちているとも言われていた。今のところ織田は西ばかりに向いているからともかく、東に向いたら第一の標的は武田であり、次は上杉か北条である。武田の破滅は、北条の破滅に近い。

「北条は少なくとも五千、下手すれば一万を突っ込んでくる可能性がある。信玄に大恩を売りたいからな」

「一万!?」

「織田徳川の侵攻を阻めるのならばするだろう。駿河に葵紋の旗が立てばそれは小田原城をにらまれているのと大差ないからな」

 信長の冷静な分析に、徳川軍の将兵の頭は冷えて行く。徳川軍の次の目標は言うまでもなく遠江だがその次は駿河であり、仮に駿河を抑えれば北条とて喉元に刃を突き付けられたのと同じ事になる。


「……わかり申した」

「うむ、よって今回の目標は先に述べた通り旧浜松城の奪還、及び二俣城のある天竜川周辺までの確保とする。最悪の場合、武田からわずかでも勝利を奪えればよしとする」

「では策を共に……」


 流れをつかんだ事を察した信長が一挙に決めの一撃を放つと、忠次たちはおとなしくひざまずいた。



「そのような……」

 そんな中で、一人だけ闘志を覆い隠さない男がいた。

 徳川信康の側に立つ大男だけは。先ほどまでの仲間たちと同じように、生肉を投げ付けたら食い尽くしそうな顔をしていた。


「その方が大久保彦左衛門か」

「いかにも!大久保彦左衛門にございます!我が名を存じておられるとはまことにありがたき事にございます!」


 大久保彦左衛門はあの後、信康の小姓になっていた。

 主君より一つ下の、大久保家の部屋住みとも言えるような末弟としては異例の出世だったが異議を唱える存在はいなかった。


「大変申し訳ないが、武田信玄を討つまでは果てしなく困難だ。その方は徳川家の領国を寸土でも増やすことを考えるが良い」

「そのような……!」

 そしてすでに、その頑固さでも時の人となっていた。

 稽古しろと言われれば手が上がらなくなるまで振り、掃除をやらせればチリひとつなくなるまでやる。暇つぶしに仲間同士で囲碁をやると、勝つまで何度でもやる。巧拙で言えば下手としか言いようがないのだが、その威圧感につられて相手が悪手を放ってしまう事も数知れずだった。

「おそらく三河殿は最期にその方と話したのであろう?その時三河殿は殿(信康)と徳川家を頼むと言ったはずだ、信玄を斬れとは言わなかったはずだ」

「はい……!」

「案ずるな、今は無理なだけだ、いずれはそのつもりでいる。心得てもらいたい」

「はい…………」


 その彦左衛門をあっさり説き伏せた信長は、徳川の中でますます大きくなった。







「奇妙よ、どうだったかこの岡崎は」

「非常に己を律する向きの強い城です。もちろん織田の闊達さも良いのですが、ここもまた理想の武士を作るに良き環境かもしれませぬ」

「織田は武士であって武士にあらず……徳川家は武士の家……上下なし、あるのは差異のみ……」


 廊下で信長は久しぶりに信忠と親子らしい会話をした。

 久しぶりに出会った息子は少しだけ侍の顔になり、男らしくなっていた。

(信雄はあまりにも覇気がない。平常時ならともかくこの時代では……信孝も信孝で猪突猛進の気が強すぎる。将としては使えるかもしれんが総大将にはなれぬ)

 良しと言うまで決して動きそうにない徳川は、口角泡を飛ばして意見を飛ばし合う織田とは違う。前者の方が結束は固そうだが、後者の方が発展性は高そうである。

 信雄はいわゆる神輿としては使えそうだが実際に動くと悪い結果しかもたらしそうになく、信孝は一軍の将としては使えそうだがあまりにも武を重んじすぎる。どっちにせよ、徳川との相性は良くない。


 偶然とは言え信忠を岡崎にやった事がここまでよく作用した事を信長は自分で自分を褒めたくなった。

「なれば徳川とはうまくやれそうだな」

「いえその、女性と言うのは……」

「五徳か」

「違うのです」


 妹と仲の悪かった話を聞いていないぞとか信忠が思っていると、廊下の真正面から走りこんでくる女の姿が目に入った。



「織田様!」


 いきなり甲高い声を上げて突っかかって来る女を前にして信忠は目をそらしそうになり、信長もわずかに眉を上げた。

 そして先ほどの大久保彦左衛門以上に鋭い目をする物だから、信長と信忠の小姓たちが思わず立ちはだかった。中には腰からないはずの刀を抜こうとしている者までいる。


「そなたは」

「まったく、ちょっと声を上げただけでこれとは、ずいぶんと教育が行き届いておりますね!」

「築山殿、落ち着いて下さいませ」

「落ち着いていられるとお思いですか!」


 信長にも信忠にも容赦なく噛み付く築山殿を前にして、信忠はため息を吐く事しかできなかった。


「毎日毎日攻めぬのか攻めぬのかと迫られて…………」

「そうです、二万もの兵を連れてきた以上、一挙にあの憎々しき武田信玄の首をば取ってくださるのですよね!」

「それは甚だ困難である」

「甚だ困難とはどういうことですか!二万とか聞きましたがそれはすべて飾りですか!」

「文句ならば信玄坊主と北条家に言え」


 慣れる前に萎えてしまった信忠に対し信長は彦左衛門に言った事をそっけなく言うが、築山殿の顔は全く変わらない。

「だいたい、あの子を単独で出すなど何事です!まだ信康は十五。初陣もまだ済ませておらぬ以上まだ親である私に十分な権限があってしかるべきはず!それなのに!」

「信康殿は十分に当主としての役目をはたしている、そう奇妙から聞いているが」

「それは家臣団のおかげ様です!」


「戦は男の物。信康殿には義父、いや義兄がいるではないか」


 必死に自分の思い通りにしようとする築山殿にぶつけられた信長の言葉は、ますます彼女の顔を赤くした。

「ええい娘婿だからと言う事ですか!」

「何を言うか御祖母殿」

「誰が誰の祖母だと!」

「家次殿は息災か」



 その燃え上がった頭に水をぶっかけたのは、家次と言う言葉だった。


「それは、無論……」

「酒井殿は三河殿の叔父、家次殿は三河殿の従兄弟にして今は三河殿の孫。かつて藤原道長が天皇の祖父として政を為した事もある。酒井殿が同じ事をして何が悪い」


 忠次は信康の大叔父であり、家次を信康にやった今では実父にも等しい。何となれば傍系ながら松平の血を引く忠次は当主の資格すらある家であり主導権を握るのは全くおかしくない。


「しかし!」

「急いては事を仕損じる……急いてことを為すにはよほどの下準備がなければならぬ。さもなくば天運よ。信玄相手にそんな物で勝てはせぬ」


 打撃を受けてなお食い下がる築山殿を冷たく見つめる信長を見たひとりの小姓が思わず目をそらすと同時に、築山殿も目をそらした。



「では城内で吉報をお待ちしております……」



 感情を抑え込みながら歩く築山殿の姿は、向かって来た時より小さくなっていた。


「酒井殿にはもう少し威張っても良いと申し上げねばな……」


 信長はそうこぼしながら、徳川の摂政と言うべき酒井忠次との軍議場へと向かった。

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