織田信長の帰郷
「本来ならば懐かしさに身をゆだねる所なのだろうがな……」
「数日はよろしゅうございましょう」
岐阜城を含む各地で正月の宴を終えてからしばらくの歳月が流れ、一月十日。
清洲城下に、織田の兵たちが集っていた。
「佐久間よ、よくしかとこの地を守ってくれた。礼を言うぞ」
と言っても織田の将兵はそれこそあちこちに分裂しており、ここにいたのは一万三千ほどでしかない。
柴田勝家は金ヶ崎周辺に強引に入り、来年本格的に越前平定を図らんとしている。
羽柴秀吉もまた今浜改め長浜を仮住まいとし、もう一年かけて本格的に発展させていく予定だ。
明智光秀は京で本願寺に備え、池田恒興は南近江に逗留している。
昨年末は共に岐阜城にいた丹羽長秀は防備のために岐阜城に置いて来た。
暇なのは尾張の守備を任せていた佐久間信盛ぐらいであり、伊勢平定にめどがついてそっち方面が手空きになったとは言え、元々閑地になっていた尾張にそんなたくさんの兵はいない。
一万三千の内信長勢七千、佐久間勢三千、その他三千だった。
「しかし驚かれましたぞ」
「何がだ」
「まさか備前守を許すとは」
信長の古くからの宿老である信盛をして、長政を許すとは思っていなかった。自分だったらそれこそ恥も外聞もないとののしり、子どもはともかく本人は許さなかった。それを助命どころか三万石もやると聞いた時には、いい年して耳を疑った。
「単に嫌いなだけだ、先祖と本人の罪の区別の付けられぬ粗暴な裁きが」
信長にそういう所があるのは、信盛も知っていた。世の中には親兄弟その他の栄光を自分のそれと錯覚してのさばる人間があまりにも多い。
信長はそれを排除するのと同じように、過去の罪科を背負わせ続けるのも排除する気だった。例えば楽市楽座だってその一例であり、これまでの栄光も罪科も関係なく、ただ商人としての器量ひとつで成功も失敗も決まるのだと言わんばかりの政策である。
「では今年はやはり」
「ああ、徳川殿のため……」
朝倉は滅び、浅井も服属した。伊勢長島一揆も先が見えている。滝川一益はその残り火の警戒と伊賀に備えるために動かしにくいが、それでも西がある程度目途が立った以上、次は東である。
「武田はおそらく遠江を手放せぬ。遠江を失えば多大な犠牲を無為にするも同じだからな」
「それに二万で戦えましょうか」
「悔しき事ながら世には本音と建前があってな。余は武田から一寸でも遠江を奪い返せばそれでよしと思っておる」
だが信長自身、武田を一瞬でつぶせるとは微塵も思っていない。あくまでも一撃を加えて敗北の二文字を刻み込めばそれでよしと見ている。
「だが一敗は二敗につながり、二敗は十敗につながる。もちろん一敗を食わせた上で二敗目を食わせるためにより賢明でなければならぬのだがな」
そして、滅亡と言う名の壊滅的敗北に向けて進む。
「かつてお館様が馬を乗り回していた頃を思い出します」
「そうか」
「あれは己が馬を鍛えさせ、またこの尾張を知るためであったと」
信長は、派手に見えてその下地はしっかりしている人間だと言う事を、信盛は分かったていたつもりだった。
「ふん、ただあれは乗っておきたかっただけよ。前者については否定せぬが。
先んずれば人を制す、先に知る者は勝つ……真理とは存外単純よ」
「なればこそ織田は強いのです」
「だがそれが余による強さでは困るのだがな。武田のように」
その上で武田家の強さが何なのか、信長はわかっていた。
「確かに武田は強い。だがそれは武田信玄と言う一人の存在で無理矢理回転させているにすぎない。信玄がいなくなれば武田は持たぬ」
「いなくなれば…………………ですか」
信玄の死こそ武田衰退と等しいとの考えを読み取った信盛が言葉を溜めると、信長の扇子の風が信盛の髪を乱した。
「佐久間。まさか暗殺でもしようと思っていないか」
「いけませぬか」
「無論その方向でも手は打つ。だが敵は武田忍びだ。下手を打てば逆にどこから来たか突き止められる。と言うかその件に関しては酒井殿と打ち合わせをしておるのだろうな」
「ええ、伊賀忍びは武田の情報を集めておりこの織田にも渡しております。おい頼むぞ」
信盛が手を振ると共に、数枚の書面を握った男が現れた。およそ当主と重臣に対面するにふさわしくない姿をした男は書面を信盛に渡すとそのまま消えて行く。言うまでもないが織田にも間者はおり、その質は武田や徳川にも負けないつもりでいる。だがどうしても対武田となると徳川に一日の長があり、そのため立場を生かして徳川の情報を得たと言う訳だ。
「ふむ……来月には来る気らしいな」
その書状を改めながら、信長は来月と言う言葉を口にする。
「来月とは」
「武田は元より長引かせたくないのだろう。昨年の出兵が予定通りだとすれば話は通る、そうこの半年のな」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした信盛に対し、信長はあくまでも予定通りだと強調する。
「信玄坊主は我らが西に目が向いていたのをいいことにこの計画を立て、時間を与えないように一気に浜松と岩村を攻めた。浜松のみならず岩村さえも援軍を間に合わせないように強引に攻め、御坊丸と叔母上をその手に収めた」
「しかしそれこそ」
「危険だと思うか?実際に危険だ、だがそれによりこっちも見逃せない打撃を受けてしまっている。それにだ、余もまさか十二月に出兵するとは信じられなかった……」
農兵と言うのは農民の兵である。だから秋の稲刈りの後農作業をしなければならない。ましてや武田の本国である甲信は山地であり、雪により往来は阻まれ農作業どころではなくなる。
今年は割と雪が浅かったが、それでも生中な話ではない。雪が降り、雪が解け、農作業を行ってからとなるとそれだけでも春が終わりそうになる。十月から晩春となると半年以上かかるはずなのに、わずか四カ月で出撃するなど明らかにおかしい。もちろん雪のない駿河の兵を動員すれば攻撃はできるが、まだ治めて数年の駿河の兵を当てにするなど別の意味で狂気の沙汰だ。
「見誤っておったのだ、信玄が将の命に執着するなど。
徳川殿を岡崎に追いやるまではともかく遠江の大地に執着し、その実りを得る事に執心すると思っておった」
「遠江を得る事により国力を高めると」
「そうだ。浜松城がそれこそ無理心中のような形で燃えてしまったせいか、武田はそれほど領土を拡張できていない。馬込川と言う川を抑えたのがせいぜいで大半ではあるが全土ではない。浜名湖はまだ徳川の手にあるはずだな」
「そうです」
浜松城は遠江の西の端に近いが、決して西端ではない。浜名湖以西のわずかな空間はまだ徳川領となっており、さらに言えば家康を強引に殺したせいか遠江の民はあまり武田になついていない。駿河ほどではないが今川に向いていた民も多く、彼らは家康が氏真を保護してから家康に傾いていた。もちろん信玄の事は好いていない。
「しかしだな信盛、この信長は長期戦を望み、信玄は短期戦を望む。着地が見えていてもこの差だけは埋めようがない。信玄の暴走に付き合う必要などない」
「しかし向こうは本気です、おそらく狙いは岡崎かと」
「たわけ」
先ほど信盛の頭を乱した扇子が今度は頭に振って来た。
「確かに徳川殿の死は実に悲しく辛い。だが徳川家にとってはともかく織田にとってはまだ決定的なそれでもない」
「そんな」
「信玄だって上洛とか言って浜松を攻め徳川殿を殺した。大義名分などそんな物だ」
「しかし我々も同盟相手である徳川家の当主を討たれたと言う大義を破れと」
「確かにその非難は受けるだろう。織田は速い速いと言われているからな。だがそれこそ甘んじて受けねばならぬ」
悪名も功名も、受けたその日から重石に変わる。朝倉にとどめを刺した犬上川の戦いのようにこれまで成功するにあたってさんざん速い速いと言われ続けて来た織田軍にとって、遅いと言われる行動はそれこそ打撃である。
「ましてや徳川こそ唯一無二の同盟相手、信用にも関わる。おそらく信玄は遠江領内に織田は当てにならぬと言う噂を撒いているだろう。もちろん三河にも」
「では一刻も早く」
「わかっておる。共に、岡崎へ行くのだ」