秋山信友の苦労
十二月二十五日。
西では耶蘇教徒たちが生誕祭とか言ってはしゃいでいる中、岩村城では寒さの中で新年の祝賀と雪備えのために人が動き回っていた。
「このまま年を越せればいいのですがね」
「どうやって攻めてくる気だ!」
「城主」の秋山信友が冗談めかした調子で家臣たちに言うと、城内に笑いが起きた。
その程度には安堵した空気が漂い、兵士たちも安堵していた。
「しかしながらなかなかに強き女人であります。彼女を心底から心服させるまでは真にこの城を手にしたとは申せませぬ」
「ああ、そうだな」
だがその秋山信友は、新年間近だと言うのにまた別の仕事に追われていた。
あの上洛とか言う名の徳川征伐、遠江攻略戦においてその場にいなかった重臣は高坂昌信と、秋山信友だけだった。高坂が甲信の守りを任される中、秋山は美濃の岩村城を攻めていた。
あまりにも急速な進軍に信長をして対応しきれず、家康を殺すだけでなく岩村城まで乗っ取ってしまっているのは信玄からしてみれば鼻の高い話だった。岐阜城からは遠いとは言え岩村城は紛れもなく美濃の城であり、尾張と並ぶ本拠地である美濃にくさびを打ち込まれているのはいい気分ではないだろう。しかも岩村城の南は三河であり、その気になれば二方向から三河を攻められるのだ。
もちろんそれゆえに警戒を怠る訳には行かないが、それでもその前にせねばならぬ事が信友にはあった。
「ご機嫌はいかがか」
「よろしゅうございませぬ」
城主とほぼ同格の扱いを受けていながらも仏頂面を崩さず、じっと口少なに信友を見つめる女性。
この岩村城の前々城主の妻にして、前城主の大叔母。そんな肩書を持つ割にはどずいぶんと若々しく、未亡人だと言うのに髪も下ろさず堂々としている。
「別にあなたの事を憎んでいる訳ではございませぬ。しかしあの子の息子の事を粗略にしないと誓えますか」
「それは無論、武田の名にかけて」
「あの子はおそらく徳川家を大事にしております。武田が徳川の当主を殺したことを深く恨んでおります」
信友はもう幾度もそう言われている。その気になればいつでも躑躅ヶ崎館に送るなり斬り殺すなり岐阜城に返すなりできるのだが、そうなると岩村城下の人間がうるさい。遠山と言う四百年の歴史を持つ岩村の人間たちはこの秋山信友が狙って攻めたのを織田軍によって追い払ってくれたので岩村の人間は織田になついており、岐阜城に返すのはともかく後の二つをやるとかなり面倒くさい事になる。
「私が婚姻せねばこの城の将兵の命はない……」
「そのような意地の悪いことを言った覚えはない!」
「とにかくなぜ武田の当主は躍起になって彼を殺したのですか。その場にいなかったのでわかりかねるとか言う屁理屈は聞きませんので」
冷たさこそ少ないが、素直に言う事を聞くもない。
十月に信友は岩村城を攻撃し陥落させた事になっているが、その際にこの女性が信友との婚姻を条件に開城したと言うのが真相であり、一刻も早くそうする事により武田の支配の土壌を固めたかった。
だが当初は割り切っていた彼女も、家康の死の方を聞くや急に頑なになった。決して心底から嫌がっている訳ではないが、どこか他人行儀でこっちを試そうとしている感が急激に膨らんでいた。急に嫁に取りたければ私を負かしてみろと言う挑戦的な女になり、織田の兵士たちもより強く彼女に従うようになった。
「今あなた様は私とあの子を重ねているのではございませぬか?」
「そんな事は断じてない!」
「私とてあの子を理解している訳ではございませぬ、しかし大叔母としてあの子の息子を守る義務と言うのがございます。それにあなたがそうであれば、私もあなたをあの武田信玄の重臣として重ねる権利もございます」
あの子と呼ぶほどの存在を、この国で知らない人間は少ない。そしてその存在は断じてそのようにかわいがられる様な人間ではなく、万人から恐れられてしかるべき人間である。
信友は既に、その男の実母がいかに息子との折り合いが悪いかを知っている。どこまで膨れ上がろうが結局認めないまま、今も尾張でぶつぶつ言っているその女を利用できないかとか考えたこともある。
「徳川家康と言うのはいずれ十万の兵を率いる事となる男。それがどうしても立ち向かうのであればその前に潰した、すべて我が身のため」
で、その全てを理解した上で、信友としてはそう真っ正直に言うしかなかった。
実際、他の理由など何にもないからだ。
「そうですか、そうですよね」
で、その他に何にもない理由を言われて彼女が聞き流すのもまたいつもの事だった。
結果一歩も下がらないにせよ一歩も進まず、ただ時ばかりが流れて行く。
(源蔵のようにもう少し若い衆を呼ぶべきか……)
自分が彼女と話していると、どうしても彼女の甥の顔がちらつく。
正確にはそのおつやの方の兄の子こと、織田信長の顔が。
今のおつやの方の嫁ぎ先である遠山家の当主は名目的には信長の子の織田御坊丸であり、その時点で信長のこの城に対する思い入れはすぐわかる。だからこそ岩村城だけ取っておつやの方と御坊丸を返そうかと思ったが、あの調子では織田信長がはいそうですかと城を渡すとは思えない。
だからこそ信長の影が入っていない養子で二十二歳の昌詮辺りを交渉に立ててみようとは思っているが、それでどうにかなる物でもなさそうに思えた。
「何の用だ」
信友は次に、ずいぶんと居丈高な幼子の前にやって来た。来月ようやく四つだと言うのに母親と別れてじっと座っているその姿は、哀れさや悲愴さと言うより毅然さと言う言葉の方が似合っていた。
その幼児を前にして、信友はじっと着座する。
「母上はどう申し述べたのだ」
「昨日と同じ事を」
「義伯父様を殺めたことを許せぬ、か?」
「討たねば討たれます、それが世の習い故」
そしてなぜか、敬語になってしまう。年も立場もけた外れに上だと言うのに、なぜだか逆らい切れない。おつやの方があくまでも理性的だとすれば、こっちは少しでも使い方を誤れば一刀両断にされそうなほどの迫力がある。
「そうか。それは義伯父様を恐れているというか認めていたと言う事で良いのだな」
「いかにも、その通り……」
「私はまだ六つながら、それなりには物を心得ておる。とりあえず、義伯父様が大変に優秀であったと……その事だけは間違いなかろうな」
「それは、無論……」
だがそれでも、信友はほんのわずかながら手ごたえを感じてはいた。
この生まれながらの戦国武将にして生まれながらの大大名の息子はとても頭が良い。その上に弱肉強食と言う乱世の道理を理解しており、徳川家康と言う未来の脅威を武田信玄が強引に刈り取った行いに故がある事を理解しようとしている。
「そなたは私を殺さぬのか?」
「それは無論、正直な事を申し上げれば太郎様の下に来てもらいたいと」
「太郎?」
「我が主の嫡孫様でございます」
勝頼の嫡子武田太郎信勝は時に六歳。もちろん次代当主とか言う話ではないが、本来の武田次期当主だった義信が死んだ年に生まれたこともあり、次々代の当主として当初から育てられていた。
だがそれは世間が狭いという意味でもあり、織田と言う最先端国家生まれの存在は正直小さくないと信玄は見ていた。
「では私が甲州とやらに行けば母上と兵士たちの安全は確保されるのだな」
「無論!」
「わかった、私が母を説こう。少しおぶれ」
信友は御坊丸を担ぎながら、おつやの方の下へと連れて行く。
六歳の幼児の体は実に軽く、それでいて重い。
どうしても信長の影がちらつくのを必死にこらえながら、この年にして城内別居とでも言うべき母親の下へと連れ込む、
「しかしなぜまた母上と共に」
「母上はそなたを見定めんとしておるのだ、私にあなたを父と呼ばせるに値するかと」
「一緒に話さぬのか」
「私は織田の子。母上も織田の一族。もちろん遠山の子であるが、それでも織田の子として織田の長者たる母上と共にあらねばならぬ。そして父上はかつてよりどんなに苦あろうとも決して織田のそれである事を忘れなかった」
どこまで自分の言葉かわからないにせよ、背負われながらもその言葉は力強い。
信長が吹き込んだとも思えない自分の言葉。もしこれを言わせるために動いていたとすれば、それこそあのおつやの方とやらは恐ろしい女である。
「御坊丸、秋山様と共に何の用です。厠ならばこの先ですぞ」
そのせいか、やって来た息子を迎えた彼女の声がやけに冷たく感じる。
「母上、母上は何を恐れておいでなのです」
「恐れてなどおりませぬ。私はただその方の実父がどれほどまで彼を大事にしていたのかを思うとやり切れぬのです」
「私も義伯父様の事はわからぬなりには悲しゅうございます。しかし幾たび涙を流した所で義伯父様は戻って参りませぬ。そう母上様も申していたではありませぬか」
息子から言葉を投げつけられても母親は面相を変えることなく、じっと二人の客から緯線を放さない。
(織田の女が全部信長同様な訳でもないだろうが……)
浅井長政が助命されたのはひとえに彼の妻である信長の妹の嘆願、ではなく後押しだったと言う。それこそ生死の境まで追い詰められていた良識ある夫に再度の裏切りと言うとても生存の可能性のない手を打たせ見事生き残らせた辺り、強運とか言う安っぽい言葉では片づけられない凄みがある。
その上信長の正妻の濃姫とやらも蝮と言われた斎藤道三の血を一番色濃く継いでおり、当初は信長暗殺を企んでいたとされるらしいとまで言われている。またこれはあまり詳しくは入っていないが、今売り出し中の部下二人の妻もなかなかに強烈らしい。
「秋山様は私を無用に恐れております。御坊丸、わかりませぬか」
「無用に?」
「私はただ御家を守りたいだけに過ぎないのです。そのために目一杯振る舞っているだけなのにいつまでもあなたの実父から逃げられず……そういうのを私は認めませぬ」
「不可能だと思います。人は生まれた時にはすでに誰かの子です。その生まれから逃げようなど無理です」
信友は目をつぶる事しかできなかった。
おつやの方の甥と御坊丸の父が自分に迫ってくる。信玄でさえも勝てないかもしれない二人の男女の刃。
「御坊丸。あなたは私が秋山様と夫婦になり、秋山様を父と呼んでも良いと」
「一向に構いませぬ」
その上で出された結論に、信友はようやく体の力が抜けた。
「そうですか、なれば年明けにでもいたしましょう」
「ああ……」
幼児の力を借りて女を口説き落としたことに無力感を覚えながらも、なるべく背を伸ばしておらねばならぬと信友は気力を振り絞った。
「でもその前に」
「何だ」
「御坊丸、やはりしたいのでしょう」
「……はい」
「私が連れて行きますのであなたはここで控えていてください」
その結果、急に幼児に戻った御坊丸に対して親らしい事をし損ねたのは何とも情けなく、信友はいい年して孤独に笑う事しかできなかった。




