ねねとお市とまつと
たまにはこんなほのぼの回があってもいいかと。
「お久しゅうございますと申し上げるべきでしょうか」
「ええ、そうですね」
十二月初日。まだギリギリ雪のない小谷城下に、三人の女性が立っていた。
一人はこの小谷城に住んでいた女性、お市の方。
もう一人は目の前の女性の夫こと、かつてのこの城の城主の領国を与えられた男の妻、おね。
「この城ともお別れです」
身分的にはずっと上だったはずのお市が名残惜しそうに元足軽の妻に向かって頭を下げる姿は、心弱き人間は見るに堪えなかったかもしれない。
一方でおねにしてみれば、あまりにも非現実的だった。
北近江、二十万石。
正確に言えば十五、六万石程度だがいずれにしてもものすごい数字、それこそ一粒単位の米を気にしていた自分から思えば信じられないほどの大出世だった。
「おね様」
「ああ申し訳ございません、しかし夫だったらどうやって落とすかいろいろ考えるのでしょうね」
だから、こんな的外れな言葉も出て来る。兵士としては全く使い物にならない夫はそういうことをして現在の地位を得た。
この難攻不落そうな城を目の当たりにし、落とす知恵を振るわんとして来た人間といっしょにいた自分の人生を少しだけ振り返り、年のほとんど変わらない女性が近くて遠い事をおねは改めて知った。
「我が夫は常日頃より私に申しておりました。お市様のお美しさを。まあ柴田様も含め家中にそんな方は珍しくなかったようですが」
「妻を前にしてずいぶんものすごい事を言うのですね」
「私とてあばら家の住人でしたので、文字通り遠い世界のお話でございました。まあ、こうして直に顔を拝見して合点がいきましたが」
焼きもちを焼く気にもなれない程度の大差。
夫の家臣たちはそれなりに聞こえのいい事も言ってくれているが、それでもおね自身目の前の女性に抗う気もなかった。
文字通り、遠い世界の存在だ—————。
「そんな存在を押しのけて国を得ようなど、我が夫も偉くなったものです」
「私も驚きです。まああの兄上の事ですから驚きませんが」
「お市様は織田様の事をどの程度ご存じなのですか」
「それはこちらで……」
お市はおねともう一人の女性と共に小谷城の門をくぐり、客間へと導いた。
幾段もの石段の側の葉っぱは縮こまり、間もなく来る厳冬の季節に備えている。尾張生まれ尾張育ちの人間にはおよそ縁遠い寒さに、二人の女性は震えた。
「私もここで八年間暮らしておりましたが、さすがにもう慣れました」
「しかしこの後はより……」
「心得ております。是非もなき事ですから」
おねには雪のつらさはよくわからない。それでも美濃でさえもそれなりに雪が多かったのに、越前はもっとすごいと言うのは知っている。
そんな地に送られる彼女の事を思うと、不憫な気持ちになった。
「あっと!」
もっとも、そんな余分な事ばかり考えていた結果足許の注意がおろそかになり、危うく転倒しかかって兵士に救われたのは個人的には相当な不覚だったのだが。
「申し訳ございませぬ……」
「これが難攻不落の秘訣かもしれませぬがね」
その姿を見て笑える程度には、お市の心は枯れていなかったし、小谷城と言う要害の価値も死んではいなかった。
「さて……」
客間に通された二人の女性と茶坊主。そして亭主もどきであるお市による茶会もどき。
平たく言えばただ茶の味を楽しみ体を温めるだけのその場で二人の客はのどを潤し寒さを追い払いながら、いささか不慣れな作法を見せつけた。
「我々はどうあがいても農民上がり。にわか仕込みにしかなりませぬ」
「客と言うのは亭主よりはずっと気楽である、そううかがった事がございます。お気になさらないでください」
もてなす側としては最大限の努力が要るが、もてなされる客としてはよほどの不作法がない限り問題はない。それは長政を通じてお市が聞いた茶の作法だった。
二人の女性は極力ゆっくりと茶碗の底を持ち、口へと運んで行く。これまでの生涯で幾度飲んできたわからぬ味を惜しむかのようにゆっくりと口に含め、喉へと流し込んでいく。
「美味でございます」
「それは幸甚でございます」
言葉こそ慇懃だが冷たさはなく、茶のように温かいそれだった。
「しかしうかがいたい儀があるのですが」
「何でございますか」
「旦那様、いや羽柴殿はいずこに?」
その流れのまま、お市はようやく当然とも言える疑問を口にする。
おねはいるのに、羽柴秀吉はいない。旧浅井領をもらい受けるにあたり、当主夫婦である浅井長政とお市の二人と顔を合わせないのはあまりにも不自然だ。
「大変ぶしつけながら我が夫はこの地がお気に召さぬようで、今浜の地を巡っております」
「ああ、そうですか」
おねが恥ずかしそうに頭を下げると、お市は内心で口を大きく開けた。
よそ者である自分にはよくわからないが、北近江の騒乱の中で真っ先に頭角を現したのが今浜城主だったらしい。それは今浜が北近江で一番いい場所だったからであり、そこに目を付けるのは言われてみれば全く自然だった。小谷城が北近江の本拠地みたいになったのは要害だからではなく、ただ結果的に主導権を握った浅井家の居城だったからにすぎないのだ。
「いずれはこの小谷にも邪魔させるつもりですが、全く当初から今浜を狙っていたようで、落ち着きの、いや節操のなさにはとんと手を焼いております」
「それで兄上は」
「もちろん可なりとの事です、あのお方でなければ出世などできないでしょうねうちの人も」
気を見るに敏なれと言うにしてもあまりにも敏すぎる、文字通りましらのような秀吉を御せるのもまた、信長ぐらいしかいない—————
「そう言えばご存知でしょうか」
「何をでございますか」
「羽柴殿が犬上川にて幻術を使ったという話を」
「ああ、また幻術の真似事でも始めたのですね」
「ええっ」
と言う思い込みを一瞬で粉砕されたお市は、今度こそ口を大きく開けた。
「夫はご存知の通りの小柄な男、後ろに紛れれば存在を見つけることは難しゅうございましょう。もちろん、顔を覚えられていなければの話でございますが。大方小いたずら程度のつもりだったのでしょう。まあ結果は良かったようですが」
浅井久政軍を崩壊させ、赤尾清綱を討ち取り、阿閉貞征を降伏させたそれを小いたずら。
その上にその場にもいないのに策の中身をほぼ言い当てている。
「……羽柴殿もずいぶんとよき奥方を持ったのですね」
恐ろしいと言う言葉を必死に飲み込み、何とかして言葉を飾ろうとする。
自分がここまで長政の事をわかっていたのか。長政が何を望んでいるか、あそこまで行かねばわからなかったのか。犬上川からはるか遠くにいたはずなのに何もかも知っているこの女性を前にして、おねがお市と言う人間に抱いたそれの数百倍の敗北感がお市を覆っていた。
「まあ、既に夫は三十六。されど男児はおろか女児もおらず、これよりは織田様の勧めもあって側室をめとる事にもなりましょうが、その事を思うと、ああこれは失敬!」
「良いのです。殿方も女人も、皆どこか違うのですから。兄も、一揆衆を数千人焼き殺しながら我が夫を今更許すほどには寛容ですから」
おねの配慮の意味がたっぷり含まれた言葉に、お市はかろうじて切り返すことしかできなかった。
長政が側室を持たなかった理由については、お市自身もわからない。浅井家の跡目は万福丸ではなく池田恒興とかの息子の浅井古新丸になりそうだし、長政のこれ以上の出世栄達もおそらくはない。側室など論外だろう。
「しかし全てを捨ててお館様に嘆願せよと言えるなど、私めにはとても思い付きませぬ」
そこで第三の女性が口を開くと、横と前にいた二人の女性の視線が一気に集まった。
「おまつ殿、でもあなたなら」
「おね殿、私をあなたと一緒にしないでください。それより先に十年前に貸した味噌を返してくださいまし」
「味噌は手元にありませぬので銭で」
「それで期日は」
「期日と言われましてもそれは夫と…………」
まつと言われた女性の攻勢により、今度はおねがひるんでしまった。今更十年前の味噌の貸し借りを話題に出す二人に、お市は再び笑いそうになった。
「おやおやいろいろ仲がよろしい事で」
「これは失敬、それにしてもなぜ急に」
「うちの夫も破天荒を気取っていますがかなりの吝嗇家で、一銭たりとも逃すまいと言う姿勢で、家臣の村井共々苦労しております」
おねほどではないにせよ、なかなかに型にはまらない女だった。そしてその夫もまたなかなかに破天荒であり、割れ鍋に綴じ蓋と言うべき夫婦かもしれない。
「あなたたちならばあの時、一も二もなく夫を兄上に付かせていたでしょう。ですが私はせせこましく危険を兄たちに伝える事により諸共に守ろうとか言う甘ったるい真似しかできませんでした」
小豆袋を信長に送り、長政の背信を指摘したお市のおかげで信長と秀吉と家康は金ヶ崎の危機を乗り切れた。だがそれは浅井家にとっては千載一遇の危機を逃したという意味であり、不誠であり偽善でしかなかった。
その不誠と偽善のせいで、夫の家を滅ぼしかかってしまった。
「夫いわく備前様は織田様の前でずいぶんとよく眠っていたようです。もしそのままであれば死ぬまでできなかったであろう安らかな寝顔をして」
「それは……」
「その事は十二分にお市様の功績と呼べましょう、死を思うほどに疲れていたと浅井家の皆様からうかがいましたし」
「そうですか、深く礼を申し上げます」
二人の女性に深く励まされたお市は、深々と頭を下げた。
ほぼ同い年の女性二人を見るにつけ、まだへこたれている場合ではない。そう力をもらった気になって来る。
「しかし羽柴殿がこの小谷ではなく今浜を選ぶとなりますと」
「はい、春までは我が夫の前田又左衛門が預かると言う事になりまして、お市様には旦那様共々春まではと」
「もう少しいられるのですね」
「……山城の のぞめる先に 白き壁 定めをひとよ とくと開けよと」
そして信長からの決定をまつの手で伝えられたお市は、とっさに一首の歌を詠んで見せた。成り上がりの妻たちは無言で頭を下げ、これにより少しは秀吉や前田利家の妻とやらにやり返すことができたと留飲を下げていた。
なお余談だが二つほど追記しておく。
まず一つ目にまつを通じてお市の歌を知った信長は、歌意を読み解き素直に笑っていた。
(市よ、ずいぶんと素直よな……長政も悪い男ではない。夫婦としては最高であろう。だが所詮、いかなる財も相手次第よな……)
山城=小谷城であり、そこから臨む先にある白い雪の壁。小谷城を離れそこに行かねばならない、その運命をかの人よ、早く開けろ。
そんな名残惜しさをむき出しにしただけの歌でないのを、かの人こと信長はすぐに見抜いた。
山城こそ、京の都のある国である。その山城を事実上支配している信長の行く先には白く大きな壁があり、そこへ向かうのが信長の運命だ。だからこそ世人に疾く開けてもらいたい—————。
そんな傲慢とも取れかねぬ歌意を読み取ったのは、既に長政とお市からその旨を聞き届けていたこと、さらに言えばその歌自体がとっさのそれではなくあらかじめ詠まれていたそれであった事をここにひそかに記しておく。
そして二つ目に、まつがおねに申し出た味噌の代金は、当年中にきっちり返金された。それが正確な対価かどうかは、この際どうでも良い事としておく。




