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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第二章 浅井長政の答え
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浅井長政の欲望

 浅井長政の不眠は、三日近く続いていた。


 進めば進むだけ気が荒くなり、据え物切りで必死に気持ちをごまかしていた。

「長政よ、ずいぶんとやる気なようだな。素晴らしい事だ」

 父親の久政は能天気に評価し、すでに自分の息子が限界に近かった事にはまったく気づいていなかった。



「ハァ……ハァ……」

 当主らしく落ち着く事もせず一日中小谷城を歩き回り、半刻に一度は据え物切りと称して真剣を振っていた。二日間で三十体以上の人形を切り刻み、夜には乱暴にお市を求めた。


「どうなさったのです」

「そなたの力を借りねば眠れそうにないのだ、どうか頼む……」

 一晩中行ってなお目の輝きはなくならず、天井でさえもお市が目をこするのがはっきりと見えていた。

「私はあなた様の味方です」

「そうか、だが……」

「そこまでやっておいて何なのです、何をためらっているのです」

「すまぬ、せっかく強引にこのような事をしておいて……」

 妻の胸に手をやりながら自らを照らす男を、天井は無機質に見つめていた。

 色欲に逃げても睡眠欲も起きず、掻き立てられるのは無用な闘志ばかり。


 何かを壊したい。壊すまでは収まりそうにない。自分が一体何を壊したいのか。壊したらどうなるのか。誰にも言えないまま、一分もしない内に話が一周する。

 もうとっくに崖から落ちているのに今更崖の上に戻れるものか。いや戻らねば死んでしまう。戻ったとしても自分は、いや自分はいいとしても妻子はどうなるのか、家臣はどうなるのか。

 もしこんな時雑兵だったらどんなに気楽か。すでに多くの雑兵は実際にそうしている。

 兵士がそうしているのだから大将がそうして何が悪いのか。いや、それこそもっとも最悪な行いではないのか—————。


 結局妻を返し、結局一人きりで横になった。だが目はちっとも輝きを失わないまま、忍びたちを怯ませて行く。


 翌日。普段の三倍の速度で食事を平らげ、無言で膳を片付けさせる。

 やはり、座っている事も出来ない。




「川越えて 地蔵に向かう 友垣を 小指で返し ただ駆け抜ける」




 こんな辞世の句まで浮かんでしまう。


 三途の川を越えて、地蔵菩薩こと閻魔大王に会いに行く。仲間たちを小指の力でもいいから何とか押し、自分一人で責任を取る—————。


 すぐさま腹を切って閻魔大王の下へ行けばどんなに楽だろうか。でもあまりにも無責任だ。家族は、他の兵はどうなるのか。




 死にたい。殺したい。死にたい。殺したい。誰をだ。




 頭中がぐらぐらする。

 力尽きたように横になるが、目はまったく言う事を聞かない。


「酒をくれ……」


 良くないとわかりながらも酒を求める。

 茶碗など使わずとっくりから直飲みするが、ちっとも酔いが回らない。紛れもない酒だと言うに、水を飲んでいる気分にしかなって来ない。

「お寒いですからお燗を」

「いらん、いらん……それより量だ」

 量を求めた所で結果は変わらず、顔より先に目ばかり赤くなる。長政が酒に溺れる前に、酒の方が溺れてしまっていた。ちっとも酒臭くない息を吐き出しながら、怒鳴るでもなくでも笑うでもなくずっと死んだ魚のような眼をしていた。

「ああ、あああ……!」

 必死に声を出したいのをこらえ、なんとか口から息を吐き出す。自分が何をすればいいのか、その答えを求める。

 仏像の前に座って必死に念仏を唱えようとするが、舌が回っているのに二十文字も読めない。兵法書を手に取ってみたが、同じ個所を十回以上読み返す有様で何の進歩もない。

 しまいにはそれこそ教文のように平板に音読し、そうだと思いきや急激に上下して読んでしまう。その声で自己嫌悪に陥り、気力が削がれる。それでもなお必死に立ち上がるが、それで何ができるわけでもない。

 便所へと向かい、先ほどの酒をすべて絞り出す間にも、迫ってくる壁を殴りたくなる。殴っても何の意味もないのに殴りたくなる。

 事が終わると千鳥足と言うようやく酒飲みらしい姿になるが、それでもその目はまったく酔っ払いのそれにならない。


 無理矢理にでも寝所に入り横になった。そして強引に目を閉じるとようやく眠りに付けた気がした。




 だがほどなくして目が覚める。


 真っ赤な旗の、真っ赤な軍勢が、自分に迫って来る。長政も腰の刀を抜き、必死に斬ろうとする。

 だが、敵の動きがあまりにも早すぎる。こっちが構えている間に、向こうは一気に差を詰めてくる。いつの間にか目の前まで来ている。

 十騎や二十騎ではない。百か、二百か、あるいは千か。

「来るなら来い!」

 死などとっくに覚悟している。だからこそ、一人だけでも斬ってやろうと、先鋒の将に合わせて刀を振る。そのつもりだった。


 そして、自分なりに力強く振った。


 だが、当たらない。斬ったという手ごたえもないまま、真っ赤な軍勢は通り過ぎた。


 傷つける事も、こっちが傷つけられる事もなく。



「……」


 夢か、と言う言葉とすら出て来ない。結局呼吸はまた荒くなり、体は勝手に動き出す。

 そして二十分も寝ていなかった事を知らされて絶望し、気力を失って寝込んだ。


 —————正確に言えば、ただ横になっていただけだった。




「長政、お前はここを守っておればいい。三百人もいれば良かろう」

「はい…………」

「最近ひどく寝不足なようだが気にするな。あの嫁はいい嫁だ、わしが守ってやるから安心しろ、アッハッハッハ……!」


 そしてついに、久政は小谷城の兵を根こそぎ持って出陣した。文字通りひとりぼっち同然になった長政は突きかけた気力振り絞って、愛する妻と子の下へと向かった。


「なあ……」

「うっ」

 自分がいかにひどい顔をしているかは知っていたが、それでも万福丸にいきなりひるまれたのは応え、その一撃でほぼ勝負はついていた。

「今の父上は怖いです、妖みたいです」

 その上に初から妖怪と言われて反論する気力もなくなっていた長政は深々とため息を吐きながら、音ばかり立てて力弱く腰を下ろすしかなくなった。

「眠れないのですか」

「ああ、ちっとも駄目だ」

 自分の事を真摯に思う茶々を引きはがしてようやく天に向かって呼吸をするが、まったく我ながら溺死しかけの猿のようだった。




「あなた様。あなた様の望みは何なのです?」




 その猿に向かって、お市は力強くそう言った。


「え……?」

「この場には私とあなたと子どもたちしかおりませぬ、おりませぬ!」


 しかしその夫お市に反応するだけの気力すら、長政にはなかった。


「ああ、眠い……」


 その代わりのように眠気が立ち込め、瞼がようやく重くなる。


「そう言えばここ数日、二刻も眠れていないではありませんか。それでは体力を消耗して当然です!私に囲まれていても駄目なのですか!」

「ああ、駄目だ……」

 だがその眠気は数秒で消し飛び、また目が血走ってしまう。

 万福丸はまだともかく二人の女児は部屋の隅まで後ずさってしまい、その際に背中を壁にぶつけた音が長政の目を否応なく覚ます。


「ですから、何をしたいのです。妻として命令します、答えなさい」

「それは、それは、そなただけに……」

「わかりました。万福丸、茶々と初を」

「はい母上」

 父親のそれが伝染したかのような顔色になった二人が万福丸共々下がって行き、いよいよ二人きりになった。

「武士でもなければ、男でもない言葉だ……」

「構いませぬ。私はあなたの妻なのですから」




 長政はついに観念し、戦場に立つ顔になった。




「私は兄上を裏切ってしまった、間違えた……」

「兄をですか」

「ああ、とても耐えられない……あの時はそれが正しいと思った、でも結果はこれだ、もうどうにもならない…………」

「どうにもならないと」

「ああ、比叡山の件がある以上、敵対すればどうなるかは明白だ。ましてや私は裏切り者だ。私が死ぬのは別にいいがお前たちの事を思うとな…………正直に言おう。あの金ヶ崎、いや姉川で潰れると思った。だがまったく織田は潰れない、むしろ膨らむばかりだった…………」

 長政自身、急速に膨らむ織田に対しての疑心があった。あまりにも革新的、あまりにも常識はずれな存在を前にして信じられなくなり、いずれ破綻を迎えるのではないかと言う予感が生まれ、時が経つにつれ膨らみ、そして目先の安寧を選んでしまった。


「決定打は何です」

「徳川殿だ……確かに徳川殿は死んだ。だがそれでもなお、徳川家はこの浅井よりも強い、武田が全力をもってしても決定的に潰せないほどに強い……」

「浅井はそうなれないと」

「そうだ。徳川を捨てて武田に走った者はほぼおらず、一方で浅井は多くの人間を織田に渡してしまった。私の中では浅井と徳川は同格だった、それが、このざまだ!」


 もし自分が誰かに討ち取られた時、万福丸を支えてくれる人間はいるだろうか。その仇を討つために団結してくれる家臣はいるだろうか。







「わかりました。では兄上におすがり下さい」


「そのような!」

「兄上は徳川様と幼なじみ。ゆえに徳川様は弟のような間柄であり盟友でした。その盟友を失った兄上は、あなたを粗略にはできません」

「徳川殿の……」

「兄上はあなたを求めております。もし叶わぬ場合はこの市をあの世から恨んでくださいましても一向に構いませぬ」


 すべてを聞き届けた上でのお市の言葉に、長政の目だけに行っていた血は全身に行き渡った。

 生ける屍に魂が籠り、壮大な決意が体を突き動かし出した。


「市よ、そなたにすべてを託す」

「出来うるなら、生きて再びの出会いを…………」




 長政は小谷城に残っていた兵をかき集め、城を飛び出した。

 文字通りの空城となった小谷から、三百人の男たちを引き連れ、誰よりもすがるべき存在の下へ。


「城内の女子衆に命じます、かつて義姉上がしたように薙刀を持てと」


 そして妻は、桶狭間の際に清州城内に残っていた濃姫がそうしたように、自らを含む女衆に薙刀を持たせた。


 その際に拒否する者に幾回かの叱責と打擲未遂があった事が、小谷城の女子衆にとって彼女が信長の妹である事をこれまでで一番意識させた出来事であったことをここに記しておく。

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