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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第二章 浅井長政の答え
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朝倉義景の逃亡

「全部読まれていたと申すのか!」

「わかりませぬ!」

「信長は伊勢にいたはずだろう!」


 滝川一益と共に、伊勢長島一揆を焼き尽くした事は義景も知っている。滝川一益だけではなく、信長も間違いなく向かったはずだ。信長の手勢もいて、その信長の手勢も焼き討ちに参加し、伊勢平定に当たっているのではないか。伊勢と近江の国境を突破するにしても、伊賀はまだ織田に付くか定かならぬ状態のはずであり決して安泰ではないはずなのに。

 伊勢長島を攻めていたのは滝川だけで信長は旗だけ向かったのか。いやわずか数日の間に信長はそれなりに勢力を持っていた一揆勢を叩き潰したと言うのか。


「そう言えば信玄公が徳川家康を討ち取った時も前後の損害を顧みぬやり方であったと聞く!と言う事は!」

「今更引き返すなど!」

「と言う事は逃げ切れると言う事だ!皆、どうか頼むぞ!」

 くどいが、義景は決して阿呆ではない。

 武田信玄が徳川家康を討ち取った戦いについても情報を集めており、家康の死と言う結果を得るに当たって多大な犠牲を払った事も知っていた。

「なるほど!織田軍にももう余力はないと言う事ですね!」

 だから信長もそのための犠牲と強行軍によって多大な損害を払い、大した数の軍勢を連れていないだろう。それが義景の推理であり、必死に勇気を奮い立たせる薬だった。



 だが義景は阿呆でないが、おぼっちゃまであり頭でっかちであった。


 信長が六千どころかもう六千の兵を引き連れてこの姉川までやって来たなど、全く思いもしていなかった。伊勢長島を強引に片づけ、おっとり刀で駆け付けて来ただけだと思っていた。

 信長があらかじめそのつもりで動き、近江の兵たちに準備と整えていたことなど全く気付かなかった。

 実はこの時、美濃に織田軍は六千人もいなかった。そしてその半数近くが岐阜城におり、浅井との兼ね合いの事を思えばもう余計な兵は一兵もいなかった。もちろん尾張の兵も遠江が武田のものになったので動かせない。


 では京にいた信長の大軍はどこに行ったのか。


 一部は明智光秀により京に残って本願寺の相手をし、別の一部は滝川一益と共に伊勢長島を攻め、残りを柴田と羽柴に振り分けた上で南近江に残留させていた。

 義景が信玄の勝ち方をわかっていたように、信長も信玄の勝ち方を理解していたのだ。



 その上で、武田に余力などない事も。



 だからこそ柴田・羽柴軍合計一万二千に加えさらに直属軍一万二千を突っ込み、戦場を蹂躙できたわけである。


 言うまでもなくこの一万二千は、両軍の将兵の心を一挙に揺るがした。


 義景が必死に逃げている間に、両翼を担っていた前波吉継と魚住恵固は共に降伏。朝倉親子の内景紀は自決し、景恒は討ち死に。残存兵力は投降か討ち死にか逃亡かの三択となり、次々と「朝倉の兵」ではなくなっていった。

 ついでに言えば阿閉貞征も、小一郎こと羽柴秀長と蜂須賀小六により降伏。すでに織田の敵軍ではなくなっていた。




「佐和山の景健がいる!何とかそこまで逃げ込み、そしてそこから小谷へと向かう!」

 そのような現状を知らないなりに歯を食いしばっていた義景の判断は、不正確でも何でもない。最善手かもしれないし、少なくとも悪手ではない。

「佐和山の軍勢と共に何とかしのぎ、小谷城へと入る!どうせ長政にまともな兵は乗っていない!入れてくれぬかもしれぬがそれまでだ!」

「それほどまでですか!」

「およそ三百と聞いている、まだ我々には数があるのだ!」

 この時の朝倉義景軍の数は三千。一万九千で南征を開始し一万三千で犬上川に布陣した事を思えばあまりにも情けない数字だが、三百から見れば十分に大軍である。


「良いか、とにかく逃げるのだ!景紀と景恒たちも来る、きっと来る!」

 逃亡兵たちの先頭に立ちながら、必死に叫ぶ。

 すでに三途の川を渡っている事を知らない二人の親子の名前を呼びながら、必死に前へと進んだ。



「朝倉様!」



 そんな義景を、一騎の騎馬武者が追いかけて来た。


「久政か!」


 奇妙な傷のついた浅井久政の存在に、義景の心が癒されることはなかった。

「一人か!」

「はい、惰弱な兵たちにより……!」


 なんと久政は怒りに身を任せ、自分を縛っていた綱を粉砕してしまったのだ。

 元から縛った兵の力が弱っていて固く縛っていなかったとは言え、この火事場の馬鹿力とでもいうべき久政の行いに、最後まで残っていた三人の兵はもう付き合い切れないとばかりに完全に離反。敗残兵になる事もなく、織田軍に投降しに向かってしまった。


「それがしは最後まで左衛門督様と共にありますぞ!」

「最後などと言うな、早くついて来い」

「ありがたきお言葉……!」

 久政が一方的に感動する中、義景はわずかな時間を惜しむことなく馬を飛ばす。







 半刻ほど馬を飛ばし、義景と久政は佐和山城にたどりついた。

 兵士は脱落に脱落を重ね、すでに千五百を切っている。


「また、追って来たら……」

「左衛門督様の身だけはこの久政が守り申す」

「佐和山の景健は大丈夫なのかどうか……」

 すでに馬を潰し、替え馬で歩く二人の中年男。もはや目の前に見える朝倉の軍旗だけを頼りに、自分なりの目一杯を為そうとしている男と、それに乗っかるのがやっとの男。

「織田は恐ろしい軍勢だ……かくなる上は一乗谷に籠った上で信玄公に下り、風林火山の旗の下で立ち上がるしかない……」

「なるほど、そうですか。しかし信玄公は天台座主とも呼ばれるお方。一向宗と対峙している左衛門督様は」

「構わぬ、元からこの朝倉は武田の同盟勢力に近い存在。いざとなればこの身一つで甲信にまで出向いても良いと思っている…………」

 前者が歯を食い縛り、後者が歯が浮くようなことを言いながら進む。兵たちは完全な置き去りだった。


「ああ……!」

「おい、どうした!」

「佐和山城で戦いが起きております!」


 その二人の耳に、歓声が割り込む。弓矢を放つ音と撃ち返しの音、さらに戦の音まで。


「落ち着け!景健が攻撃をかけ佐和山の軍勢を塞いでいるのだ!」

 義景の理屈は通っているが現実と噛み合わない言葉。幾度目かの机上の空論が説得力を持つことはもうない。実はこの時はその通りだったのだが、これまでの幾度の失敗が義景の信用を根こそぎ奪っていた。

 義景が救われたとばかりに景健軍に飛び込もうとした際には、千五百人が千三百人になっていた。



「お館様!」

「景健か……残念だが負け戦だ、それも最低の……」

「将兵の安否は」

「わからぬ、この浅井下野殿も身一つで逃げている状態で」

「ではこの身が盾となりますゆえ早くお逃げ下さい」

 景健は傷つき切った主を必死に出迎えるが、どこかつっけんどんで適当だった。

 景健自身、適当に佐和山の連中の足を止めておけばこの戦における自分の義理は果たしたと思っていた。

(どうしてあの親子が犬上川で、わしがこんな後方なのだ……!)

 義景が今更処分を下した事について年甲斐もなくむくれているのだ。何なら御家保全とか言う名目で、織田に降っていいとさえ考えていた。

 そのせいか戦いもなれ合い気味で、どっちもどこかふざけ半分だった。



 景健がそんな気分でやっているとは知らないまま、義景たちは小谷城を目指していた。

「姉川だ……」

 二つの川を越えるまでの間にまた兵は減り、気が付くと五百になっていた事など知らぬまま、姉川へとたどり着いた。


 思えばこの地で浅井長政は織田と戦い、勝つ一歩手前まで行った。

 それに対し自分たちは何をやっているのか。


 姉川から小谷城まで、直線距離で二里半(10キロ)、街道をたどっても四里(16キロ)ほど。


「あと一歩でございます」

「そうか……とにかく皆、本日は小谷城へと入る。一晩休み、明日中には近江を出て越前へ参ろう……」

 義景は己が不甲斐なさと情けなさを噛み殺しながら、三度目となる渡河を始めた。

 姉川の水が体に染み入り、敗戦の悔しさを増幅する。


「お前たち、よく付いて来てくれ…」

 そして事ここに至ってようやく、義景は自分の軍勢の有様を理解した。疲労困憊なのはともかく三千だと思っていた兵がほとんどおらず、残っていた兵もほとんど無気力かギリギリの状態で付いて行っているだけだった。

「……ああ……」

「誰か元気な者はおらぬか、おらぬのならばわしが行くぞ」


 義景の絶望を拒むように、ただ一人元気だった久政が小谷城へと向かおうとする。数は三百、出迎えぐらいならば十分な数だ。

「そのような事、私が……」

 だがその久政の申し出を一人の兵士が拒み、重たい体を引きずって姉川を越え出した。


「わしの馬をやろう…………」


 その忠臣に、義景は自分が乗っていた馬を渡した。

 ゆっくりと下馬し、馬をその兵にやった上で、ゆっくりと歩き出す。

「少しでも小谷城へと近づくのだ、少しでも……」

 義景のこの言葉と行いは、残った兵たちを魅了した。決してふんぞり返っているだけではなく、自ら少しでも多くの人間を逃がそうとしている。


「左衛門督様……この浅井久政、生涯忘れませぬ!」


 浅井久政と言う格も年齢も上の人間が感涙を流した事により、朝倉勢はその力を振り絞る事を決意した。


 何度も何度も、裏切られた事など忘れてしまった人間たちの、あまりにも愚直な前進が始まった。



 さしずめ雪山で温かいと言い出して服を脱ぐような、猛烈な眠気に襲われた登山者のような状態。実際越前の東の飛騨ではもうそうなりかかっているような兵士たちがやけに明るい声を出しながら姉川を歩いた。

 もしまともな人間がいたら、この場で逃げ出すか道を開けるかしていただろう。そんな存在など物理的に目に入らないまま、五百人の武士もどきは歩いていた。




 そして、ちょうど半分の手勢が姉川を渡った時。




 ものすごい馬蹄の轟きが、姉川の水を揺らした。


「追っ手か!」

「いえ前です!備前守です!」


 およそ三百の兵が、こっちに向けて突っ込んで来る。

 全部騎馬武者だ。しかも全員浅井の旗を掲げている。


「やった、助かった、逃げ切った……」

 義景の心に火が灯った。一万九千から見れば全く取るに足らない三百と言う少数ながら、紛れもない味方軍の到来だった。


「とにかく、勇者を一刻も早く迎えねばならぬ!」


 義景は再び走り出した。



 安息を求め、平穏を求め。




 そして、足が止まった。




 何かを蹴飛ばしたから。




「は…………」




 その正体に気づく間もなく、「浅井勢」は前進を再開した。


 全速力で。

 義景や久政の命を顧みる事なく。







 ……いや、奪うために。




「うあああああああああ…………!!」




 先鋒、浅井長政率いる狂気の三百が、動き出した。

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