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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第二章 浅井長政の答え
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羽柴秀吉の作戦

 ここで話は少しさかのぼる。







 浅井久政は別に、予備隊でも何でもなかった。ただ二つに分かれた軍の一方の総大将と言うだけであり、いくら兵を注ぎ込んでも許されるはずだった。


 そんなのはこの際どうでも良いとして、久政にとってどうでもよくないのは敵だった。

「あれは何だ、見た所瓢のようだな」

「ええ、どうやら木下とか、ああ羽柴とか言う男だそうで。数は五千かと」


 千成瓢箪の旗を掲げた軍勢は、いかにも貧相だった。


「羽柴とか言う男を知っているのか」

「ええ、元々水呑百姓で信長の草履取りをしていたとか、その信長からは猿とか鼠とか呼ばれているとか。それで羽柴と言うのはついこの前織田の家老二名から頂戴した苗字だとか」

「聞けば聞くほど情けない男よな」


 実は久政は秀吉を見た事がある。

 もっともお市が長政に輿入れしてきた際に正使だとか言う池田とか言う男にくっついて来た小男など文字通り見ただけでであって、覚えてはないが。


「それでその男は一体何人の敵を斬った?」

「真偽はともかく両手の指にも足らずとか」

「阿呆らしい。それに五千もの兵をよこすなど信長は何を考えておるのか」

「お館様を侮辱するとはちょっと許せんなあ!」

「何を言うか信長などと言うまぐれ当たり魔王をかばう必要があるのか」

「悪いが、わしはお殿様の敵を黙って見過ごすことはできないんでなあ」

「殿の敵だと、それこそ織田ではないか……」




 そして、声も覚えていなかった。




「いやーこれはこれはお市様の岳父殿!この羽柴筑前を置き去りにするとはいささかばかり薄情でございますなあ!」


 兵たちの先頭に構える、貧相な馬に乗った貧相な子男。その男が自分たちの話に割り込んでいる事に気づくのに、数秒の時を要した。


「筑前だと?」

「いかにも、我が主君、いや主上様より筑前守の二つ名を賜りし身として、こうしてお目にかかった次第でございます!」

「馬鹿も休み休み言え!」

「それが正真正銘の真実なのでございます、真偽を確かめたくば、さあ我が主君の下へ!」


 こちらをもてあそぶ口上で心をあおり、殺せるもんなら殺してみろと言いたげに笑っている。


「お前を殺し、主上様にじかに聞きに行ってやる!」

 —————望む所だとばかりに赤尾清綱は得物を地に叩き付け、突撃を開始した。

「来たかぁ!」

 それに対する秀吉の声は甲高く、正直迫力はない。秘蔵兵器とでも言わんばかりに火縄銃の音が鳴り響くが、百挺はおろか五十挺もないような攻撃に戦況を変える力はない。

 狙いだけはそれなりに正確だったから数十名の犠牲者は出たが、それで赤尾軍の勢いがどうにかなるわけでもない。


 ————————その上。




「ひゃーこりゃたまらん!後退じゃ!」




 得物がぶつかりもしない内に「総大将」だった秀吉は尻を向けてしまい、あっという間に後方に下がった。

「アハハハハハ!なんだあれほどまで威勢のいい事ばかり言っておいて!」

「腰抜けにもほどがあるわ!」

 久政軍からは嘲笑の嵐が起こり、清綱も年がいなく笑った。兵たちも同じように尻を向けて走り出し、旗を捨てる者までいた。

「しかし正直、あまりにもうますぎませぬか?」

「策だと言うならば乗ってやればいい!見ろ、あの猿だけでなく他の兵も逃げているではないか!誘計だと言うのならばお前は控えておれ」

 貞征だけは冷静だったが、それでも久政と清綱の自信は揺るがなかった。


 誘っているというのならば遠慮なく乗っかってやる。


「さあ行くぞ!」


 清綱の選択は決まっていた。

 秀吉とやらの脆弱な軍を叩き壊し、この戦場第一の手柄を物にしてやる。

 その欲望が、清綱の老骨に鞭打っていた。

「我々はゆっくりと近づく。待ち伏せを潰すのだ」

「はっ」

 そして久政たちもまた前進した。


「うるさい小猿め!この得物の錆にしてくれる!」

 清綱率いる千五百の兵が、一気に突っ込む。十一月の水を浴びてなお火照った頭を冷やすことなく、羽柴秀吉とか言う名の猿を狩りに行く。みっともなく背中を見せる猿の手先どもに向けて必死に馬を飛ばす。


 が、追いつけない。小柄な秀吉はあっという間に消え去り、後続の兵たちも次々と下がっている。


 そしてその代わりのように正面を向いた軍勢が並んでいる。

「ここは通さんぞ!」

 秀吉に比べれば少し大柄な優男ながら、それなりに勇敢そうだった。


「あんな小男のためにずいぶんと苦労しているな!」

「兄上のためならばやってみせるまでよ!羽柴小一郎、いざ参る!」


 秀吉の弟を名乗るその男の一斉射撃にもひるまず、赤尾軍は攻撃する。前面の敵を食い破り、真っ二つにしてやる気でいる。

 この時、小一郎こと羽柴秀長の軍勢は千人。千五百の赤尾軍を受け止められる物かと清綱に思わせるには十分な数だった。


「行け行け!」

「行かせるなぁ!」

 秀吉よりはずっと武将らしい声を出した農民上がりの男は自分と同じ存在を苦虫を嚙み潰したような顔で斬り殺し、その血が付いた得物で清綱の得物を受け止める。兵士たちも同じように激しく叫びながら、赤尾軍へと攻めかかる。

「あの猿の弟にしてはずいぶんとやるではないか!」

「我が兄の才智は天下の宝よ!かような所で浪費されてたまるか!」

「ずいぶんな言い草よな!まるで陳伯ではないか!」


 陳伯と言うのは漢の宰相であった陳平の兄であり、貧民もいい所だった陳平に耕作をさせずに学問をさせていた男である。その陳平が兄嫁に手を出したとか言う際には、逆に自分の嫁を放り出したとも言われている。ご存知の通り陳平と言うのは千八百年先のこの国でも通じる名前となった訳だが、陳伯のこの時の行動は正気の沙汰ではないのは間違いなかった。


「そのうぬぼれを叩き壊してやるわ!」

「うぬぼれはそなただ!」

 清綱と小一郎の戦いが始まった。三十三歳の小一郎の刃は粗野ながら素早く、五十九歳の清綱の刃は巧みだが速さを欠いた。数合打ち合う間に手の内が見えた二人の火花が、冬の犬上川の温度を少し上げていた。

 だがこの二人には、もう一つ差があった。



 —————そしてそれが、致命傷になった。


「なんだその惰弱な刃は!負けないだけでいいのか!」

「一向に構わぬ!それがしは侍ではない!兄上と同じ農民だ!」

 小一郎の攻撃は、決して相手を殺すそれではない。あくまでも自分が死なないように相手のそれをいなす物だ。秀吉よりは数段ましとは言え農民であって人殺しの訓練などまともに受けていない小一郎からしてみれば、そっちの方が大事だった。一方で純粋な武士の清綱にしてみれば、生まれてからずっと人殺しのための訓練を受けて来た。そのための武器の使い方を覚え、そのやり方を子孫に伝えるまでになっていた。

 ましてや今は、一気呵成に敵将を斬れる所だったのだ。その気になっていたとしても全くおかしくない。



 だから、気づけなかったのだ。


「羽柴秀吉、見参!って訳でして!」

「ええい引き返して来たか!それにしても速…………い!?」

 羽柴秀吉の声が耳に入った時。清綱は後方に逃げていた所から引き返して来たと思った。引き付けて弟に時間稼ぎをさせ、そして弱った所を自分が付く。なかなか味な真似をする。そう、感心しようとしていた。


 だが、あの甲高い声は、左斜め後ろから聞こえて来た。二度と忘れられないはずの、あの声が。まさか、逃げたふりをしていつのまにか移動していたのか、あるいは影武者なのか。

「うわっと!」

 その一瞬の戸惑いを、小一郎は見逃しても他の兵が見逃さなかった。小一郎の攻撃はかろうじて受け止めたがその間に四本の槍が清綱に襲い掛かり、体中から血を噴き出させる。

「ぬぐぐ……!」

 清綱が何とか力を振り絞って槍の持ち手たちを殺さんとしたが、その間にまた別の四本の槍が清綱の体を貫き、わずか一人の雑兵と共に清綱の人生は終わった。その兵が近江出身の新兵であった事など、清綱は知らなかった。




「赤尾が死んだ!?」

 その目ではっきりと見ていたはずの久政でさえも、信じられないほどの死に様だった。あまりにしょうもない計略により隙を作り、ここまであっけなく討たれる。何かの間違いではないのか。

「だいたいあんな猿一匹の声だけでなんでそんなに惑わされるのだ!おかしいではないか!」

「まあまあ、百聞は一見に如かずと申しましてねえ、ほらこちらを!」

「何を」

 そしてその猿はいつの間にか左翼軍の先頭に立ち、阿閉軍を攻撃している。空耳でも聞き違いでもなく、本物の声を出しながら。

 あれだけ派手に逃げたくせに。

「ふざけるな何のつもりだ、誰かあの猿を狩れ!」

「いやそれはご容赦願いたいもんで、失礼いたしますわ!」


 そしてまた秀吉は、赤くない尻を向けて下がってしまう。

「何をしている、追いかけろ!」

「いやその」

「何がいやそのだ!」

「赤尾様の事を思うと……」

 久政は当然のように追跡命令を下したが、将兵が動かない。元より久政軍二千、阿閉軍千五百、赤尾軍千五百と言う分け方をしていた以上二千を削って阿閉軍に与える意味もないし、それ以上に浅井軍の将兵はおびえていた。



(秀吉は瞬間移動でもするのか……!)



 農民上がりとか聞いていたが、それがこんなに早く出世できるのには何か人智を超えた力があるのではないか。ほんの少しの間に中央の後方から左翼の先頭に立つなど、考えられないほどの速さ、いや機敏さ。猿とか言うがそれこそ孫悟空かなんかのようにすさまじい存在かもしれない。

 あの赤尾清綱があんなにもあっけなくやられたのは、秀吉の術にかかったのだ。阿閉勢は比較的まともに戦っているが、それでもいつ何時壊れるかわからない。単純に清綱の死と共に赤尾勢が崩れたのもあり、浅井勢は恐慌に陥りかかっていた。


「さあ浅井久政殿!この猿を捕まえてご覧あれ!」


 そして秀吉は声が大きい。その事もまた味方に勇気を与え、浅井勢の心をなぶっていた。

「落ち着け!後ろからみっともなく負け犬の遠吠えしてるだけだ!」


 そんな久政の声も届かない。

 元から十五歳だった長政に強引に家督を譲らされる程度には信望のなかった、朝倉義景とか言う情けなさに定評のあった存在にべったりになっていた、そんな中年男性に心服している兵士など少数だった。

 皆が左右ばかりうかがいながら、誰かやれよとばかりに無言で責任の押し付け合いを始めていた。

 その間にも羽柴勢は迫り、赤尾勢は飲まれ、阿閉勢も押され出した。強くないはずの羽柴勢が、怪物に見えた。



「もう駄目だぁ!」



 そして、一人の兵士が叫び声をあげて逃げると同時に、三千以上の浅井久政軍は一斉に崩れた。

「おいこら!」

「一刻も早く逃げろ!逃げないとあの男に追いつかれるぞ!」

「こら待て追いてくな!助けてくれ!」

 あっという間に四散した兵たちを前にして、久政は悔し涙を流しながら逃げる事しかできなかった。

 行き場はもちろん、義景の下である。


 なお最初に逃げた兵も含め、久政軍はまだ一度も秀吉軍とまともに斬り合いなどしていなかった。二年半前に、織田十三段の構えを十一段まで行った浅井勢が、である。







 ちなみに秀吉は単に最初から逃げる気満々で腰を浮かせていたために逃げ足が速く、さらに兵士たちにも三十六計逃げるに如かずを徹底させているので逃げ足は速かった。

 左翼の蜂須賀勢に混ざって先頭に立っていたのはあらかじめ疲れていない馬を用意して速攻で乗り換えただけであり、別に大した手を使っていたわけでもない。


 もっとも、種も仕掛けもわかってしまえば、だが。


「こんな手でよく騙されましたね」

「何、駄目ならば駄目で普通にやっただけじゃ、ほれ早く朝倉を叩きに行くぞ」


 まあ、少し混乱してくれればいいやとしか思っていなかった策で崩壊を起こせたのは秀吉にとっても予想外だったのだが。

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