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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第二章 浅井長政の答え
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浅井長政の不眠

2022年11月11日誤字訂正、投手→当主。

 信州に比べれば、越前は緑色だった。




 元亀三年の十一月二日。

 小雪どころか無雪とも言えるほどに青い街道を抜け、小谷城へと朝倉義景はたどりついた。

 一万五千を率いての遠征であり、その上にかなりの大金や食糧も持ち込んでいた。


「これはこれは左衛門督様、どうもどうも!」

「浅井下野(久政)か、よく来てくれた」

「いえいえ、左衛門督様自らのご到来とあれば、この浅井久政、犬馬の労を厭いませぬ」

 この最大級の賓客を前にして浅井久政と言う五十路間近の男は手揉みを繰り返し、最大級に媚を売ろうとしている。


「それにしてもこの数は」

「何、年を越すまで南近江、いや京にでもいようと思ってな。それにあの織田が相手だ、半端な真似をするなと言われているからな」

「いえいえ、あれは乱暴ですが乱暴ゆえに恐ろしいですからな、アッハッハ」

 

 久政の顔は義景のそれより数段晴れやかだった。当初は軽視だったのが軽蔑に変わり、さらに現在では憎悪になっていた。

 あの妹だけは献身的だから許してやっているが、それでも側室の一人も取らない長政にも不信感を抱いている。

「それで兵の方は」

「西側を攻められているためか必死にかき集めた物の、五千程度しか……」

「まあ問題ない。四千か最悪三千もないと思っていたからな」

「まことにありがたきお言葉、必ずや織田と裏切り者たちの首をば取って見せます」

 久政の側には赤尾清綱と、阿閉貞征がいた。

 その両名に千の兵をあてがい、久政自身は三千の兵を率いる。


「戦場は無論姉川でございます。あの時の無念を晴らしましょうぞ」

「姉川か?」

「無論そこより先でやれればよろしいのですが、織田とてそこまで悠長ではないかと、いや織田はせっかちですから」


「まったくだ、あれに付き合っていては世の中が壊れてしまう……」

 義景自身、さほど他者に激しい敵意を抱ける性質でもなかった。

 一向一揆と言う民衆の軍勢が相手であった時からさほどやる気もなく、織田についてもさほど敵意もなかった。成り上がりのくせにうんたらかんたらと言う名の嫌悪感はあったが、嫌悪感があった所でそれ以上の感情は湧かなかった。前回の出兵だって、織田にとどめを刺す気などなく信長さえ除けばいいと思っていたのだ。


 そして皮肉なことに、それは久政の希望と一致していた。

 織田信長と言う名の「第六天魔王」さえ殺せば織田も目を覚ますかもしれないと言うのはさておき、あの嫁がいかにしっかりしていようと所詮は女に過ぎない。あるいは万福丸や二人の娘は織田の血筋ですからとか言い張るかもしれないが、所詮は母系であり父系には劣る。さらに織田の跡目もまだ十六に過ぎないらしい。


「そうです、我が愚息はあれに付き合おうとして」

「わかっておる。だがわしもこの前に愛する妻を失いどれほど嘆いた事か……下野、あの娘を粗略にするな」

「心得ておりますとも。されど我が愚息もまだ三十路にもなりませぬ、出来うる事ならばもう一人だけでも側室を当てがいたいのですが」

「無論だ、都に上り朝廷より一人見繕おうぞ。では行くとするか」


 小谷城から出て来た一万五千と四千の兵が、南進を開始する。

 二人の中年男性には、何の憂いもなかった。




※※※※※※※※※




「…………」


 中年たちが浮かれ上がる中、二十九歳の青年は頭を抱えていた。

 残された兵はわずか三百。迂回して狙われればひとたまりもないとか言うのはさておき、一家の当主としてはあまりにも情けない数だ。

 本来ならば出てしかるべきなのに、雌雄及び命運を決する戦だと言うのに。


 まったく抵抗する気力もないまま、隠居人の父親に押し切られてしまった。

「水を持って来い」

 とも言わず、城の隅の井戸へと、重病人のような足取りで歩み寄る。

 二杯ほど水をくみ、桶に流し込む。


 そして。


「……ああ、やっぱり」


 長政は他に何も言いようなどないと言わんばかりに水を井戸へと戻した。

 長政と言う人間は、うぬぼれ屋ではない。それでも家臣からも領民からも、お市からもそう言われるたびに自分がそうなのかと言う自覚は持つようになった。


 なのに。


(覚悟はしていたが、改めてひどい……)


 目の下に隈ができ、髪の毛には三、四本だが白髪が混じっていた。美青年の姿など、どこにもない。むしろ久政の方が元気なぐらいだ。

「父上は織田を決して憎んでいない。そう、憎んではいないのだ……」

 浅井久政が織田を憎み、それを殲滅できると思っているから陽気になっているとか言う指摘は、当たっていないと思っている。久政にとって織田家は尾張の大うつけがまぐれ当たりによって膨らませたにわか作りの御家であり、自分たちよりはるかに格下の雑魚に過ぎないのだ。元々自分たちが小谷城周辺の二万石あるかすらも怪しい国人上がりで織田家が尾張の守護代と言う平均以上の武家である事など無視し、ただ軽く見ている。

 その事に長政が気付いたのは、お市が嫁いで来た時でも金ヶ崎で織田連合軍の後ろを付けた時でもなく、姉川で敗れた後だった。


「織田なんかに負けおって、そう四回も言っていた。皆の制止も聞かず、織田なんか、織田なんかと……」



 姉川の戦いにおける朝倉・浅井連合軍の敗因は、長政ではない。

 五千にも満たない兵で十三段構えの内十一段まで打ち破った長政に対し、朝倉軍は一万近くを要しながら半数にもならない徳川軍を抑え切れず、それどころか横っ腹を突かれて真っ先に敗走した始末だった。


 もちろん徳川が強いとも言えるが、朝倉がだらしなかったのもまたしかりだった。朝倉軍の総大将=最大の責任者であり、戦犯と言って差し支えない朝倉景健が何らかの処分を受けたという話を長政は一つも聞いていない。

 ちなみに久政は義景と同じように徳川を恐れるそぶりはあったが、朝倉を責める事はしなかった。



「…………」


 さっきと同じような足取りで小谷城を歩く。

 残っている兵の数相応に人のいない、廃城にさえも思えて来そうな城を歩く当主を心配する声もほとんどない。

「市よ……」

 結局わずかに二人ほどの女中とすれ違いながら、長政はお市と妻子に会った。


「あなた!すぐさま酒を!」

「いや要らぬ、それでも駄目だったのだ」

 真っ昼間からやけ酒などではない事を、お市のみならず万福丸も茶々もわかっていた。

 初だけはまだどういう事かと目を丸くしていたが、父親がいつものそれでない事はわかり母の陰に隠れてしまった。

「おい初、なぜ母上ではなく父上の側に行かぬのだ」

「今の父上は怖いです、妖みたいです」

「そうか……」

 妖怪と言われて反論する気力もない長政は深々とため息を吐きながら、音ばかり立てて力弱く腰を下ろした。


「眠れないのですか」

「茶々、ああ、ちっとも駄目だ。どんなに宵闇が来ようとも父の眼は動きたがる」

 懐に飛び込んできた茶々はたどたどしく子守唄を歌おうとする。

 こんな娘にそんな事をされる程度には弱っていたという自覚こそあったが、それでも瞼はちっとも重くならない。そして瞼が重くならないから気が重くなり、気が重くなるからため息が出そうになるが、娘にため息を吹きかけまいとして胸が痛くなる。

「頼む、ちょっと離れてくれ、苦しい……」

「はい……」


 自分の事を真摯に思う娘を引きはがしてようやく天に向かって呼吸をするが、まったく我ながら溺死しかけの猿のようだった。


「あなた様。あなた様の望みは何なのです?」


「え……?」

「この場には私とあなたと子どもたちしかおりませぬ、おりませぬ!」


 貞淑な夫人の顔をいきなり脱ぎ捨て叫んだお市に反応するだけの気力すら、長政にはなかった。

「ああ、眠い……」

 その代わりのように眠気が立ち込め、瞼がようやく重くなる。

「眠りたいのですか」

「ああ、だが正直まだ……」

「ここ数日、二刻も眠れていないではありませんか。それでは体力を消耗して当然です」

「そうか。だがこんな時より」

「とりあえずお休みください!それとも私に囲まれていても駄目なのですか!」

「ああ、駄目だ……」

 だがその眠気は数秒で消し飛び、また目が血走ってしまう。万福丸はまだともかく二人の女児は部屋の隅まで後ずさってしまい、その際に背中を壁にぶつけた音が長政の目を否応なく覚ます。



「ですから、何をしたいのです。妻として命令します、答えなさい」

「それは、それは、そなただけに……」

「わかりました。万福丸、茶々と初を」

「はい母上」


 父親のそれが伝染したかのような顔色になった二人が万福丸共々下がって行き、いよいよ二人きりになった。


「武士でもなければ、男でもない言葉だ……」

「構いませぬ。私はあなたの妻なのですから」

「そうか、では……」


 崖っぷちまで追い詰められ、完全に観念した表情になった長政から、ついに本音が吐き出される。




「……で、だ。そういう訳で、不覚にも……」

「それでそうなのですか」

「ああ、それゆえに、………………なのだ……」


 そんな男の本音をお市は黙って聞き、ただ時に合いの手を入れながらうなずく。

 この数日、いやそれ以上前から抱え込んできた女々しいとも言われそうな本音を、怒るでも嘆くでもなく、じっと聞いた。



「なるほど、で、眠いのですか」


 そしてようやく終わったのを確信するや、彼女はそれだけ言った。


「眠れぬ、不思議なほどに眠れぬ……」

「なればなすべきは一つです」


 お市は夫を残し、広間へと向かった。




 もしこの時眠いと言うのであれば遠慮なく膝を貸し、その上で改めて夫の望みをかなえてやる気でいた。

 そしてもし、眠れない場合には—————。




 お市の方と言うのは、結局織田信長の妹だった。




 だがその事を世間が知るのには、まだもう少しの時間が必要だった。

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