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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第二章 浅井長政の答え
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武藤喜兵衛の迷い

「何だその顔は」

「いえ……温かき物でもお持ちしようと」


 躑躅ヶ崎館にて男はずいぶんと疲れた顔をしていた。

 時はいよいよ十一月、山地の甲州ではいよいよ積雪の二文字がちらつき始め、実際に雪が降り出していた。信州などはいよいよ本格的になっており、それこそ雪解けの日まで何もできないとか言う停滞期の到来である。

「勝頼は駿府か?」

「いえ、未だ遠江です。おそらく年内いっぱい、早くとも今月いっぱいはかかるかと」

「駿河の人間にも宣伝してもらいたいがまあ無理だろうな」

 勝頼はその日も雪のない遠江を駆けずり回り、信玄の罪を悔い自分なりの徳政を必死に見せつけようとしている。信玄と言う悪党のまいた種を必死に刈り取る孝行息子の姿が、遠江の住民にどう映っているのか、喜兵衛にはわからない。


「お館様、正直あの遠征は効果があったのですか」

「あっただろう。遠江一国を手に入れたことにより武田の領国は四か国となった。これは単純に強くなったと言う事だ」

「はあ……」

「それにこれで信長は家康と言う同盟相手を失った。信康とか言う家康の小僧では信長とは話せまい。徳川はもはや織田の一部よ」

 同盟と従属では訳が違う。信康は信長の娘婿であり、岳父の信長には逆らいづらい。それこそ武田への攻撃ひとつ取ってさえも、信長の指示を仰がなくてはならなくなるだろう。

「確かに軍事の方はそれでよろしゅうございましょう。ですが問題は金銭です」

「少なかろうが何だろうが銭は取れる、それに岩村からもかなり行けそうだしな」

 遠江全土を確保できれば少なくとも三十万石程度の収入がある。単純計算で七千五百人分になるし、岩村城一帯を加えれば八千人まで行けそうだ。

 それなら、とほだされそうになった所でそうじゃないんですがとばかりに喜兵衛は迫る。


「あのですね、金山の有様をご存じですか!」

「知っておる。今後は人を減らし、工夫たちを兵にする。屈強な軍勢となるだろう」

 信玄はもちろん、この数年金山の品位が落ちている事も知っている。質も量も低下し、最近では倍以上の量を請求される事も増えていた。その穴埋めのために遠江に遠征したとは言え、状況が決定的に改善されたわけではない。

「最近のお館様はどこか悠長に感じます」

「そうか」

「一応上様に上洛の約束をなさったのですから」

「千里の道も一歩からと言うぞ」

 もちろん、あれが口約束である事は喜兵衛も百も承知だったが、それ以上に信玄はひどくのんびりしているように思えた。


「虎穴に入らずんば虎子を得ず」

「は?」

「喜兵衛、わしは別に今死んでも構わん。だがその前にできることはやっておかねばならぬ。そしてそれをやって、成功した、そう言う事なのだよ」

「おっしゃる意味が分かりかねますが」

「武田信玄と言う馬鹿な男があやうく命を落とすか否かの賭けに臨み、こうして勝ったと言うだけの事だ」

「……失礼いたします」



 本当の事を言おうとしない信玄に、喜兵衛もいい加減うんざりだった。喜兵衛がわざとらしく足音を立ててやってもこれとも言わず、じっと背中を見送るだけ。

(何があったと言うのだ……!)

 小姓頭となってからそれほど長くもないが、それでもその立場なりには武田信玄と言う名の主の事をわかっていたつもりだった。だがその主は最近、よく言えば積極的、悪く言えば暴走気味である。暴走の先にあるのは破滅であり、緩やかな「敗北」ではない。


「六分の価値は上、八分の勝ちは中、十分の勝ちは無下……それがあなただったのではありませぬか?」

 まだわずかに緑の残る庭を見ながら、喜兵衛は廊下に腰を下ろす。


 六分の勝ちはまだまだ精進せねばとこちらを戒められ、八分の勝ちはこれでよしと言う慢心を生み、十分の勝ちは絶対無敵だというおごりを生んでしまう。それが信玄の哲学のはずだったのに、あの秋葉街道の戦いは異常だった。

 徳川家康の首と言うたった一つの目標のためだけに犠牲をいとわず、結果的に成功したとは言え、二千以上の死者とそれに倍する負傷者を生んだ。それで結果的に六分の勝ちだから良いとか言うなど、文字通りの屁理屈ではないか。



「喜兵衛殿、書状をお持ちしました」

「お館様にか」


 そんな中にやって来た使者。


 見た覚えのない存在に思わず刃物でも突き付けてやりたくなってやると、その男は三歩ほど後ずさった。


「いえその、本当に使者ですから、それがしは遠江から参ったのです……」

「そうか。で、お館様にか」

「いいえ、跡部殿から、武藤様にです」

「私自らにか?」

「そ、そうなのです、ハイ……」


 そして柄にもない態度を見せただけでこけそうになりながら立ち去って行くのを見た喜兵衛が間者でない事を確認した上で、書状を開いた。




「遠州の民は皆若君様を歓迎するものなり。されどそれは同時に猛虎が惰眠を貪る事を期待した笑みであり、猛虎の命ある限り心底よりの心服なし。虎が目覚めし暁に当地の草さえも食みつくし、仁徳ある未来の当主を食い尽くすを恐れる。また遠州の民は西の六つの空に住む王をば頼りに思いその王の存在ある限りまたたやすく屈しはせぬ。苛政は虎よりも猛なりと申せど、旧主の政を上回らねば民は旧主を捨てぬ。三河侍がいかに忠義心が厚く、またいかに勇猛かは既に万人の知るところなり。その忠義を崩すにはこの世から放逐するか、主の一族を我がもとに心底から引き込むかの二つよりなしと心得る。

 いずれにせよ彼らはもう一度やって来る事は必死。どうかその事をお考えくださいませ」




 ずいぶんとご大層、と言う長ったらしい論文だ。行区切りもまったくなく、文字通りの勢いだけの文章。


「要するにその後甘い汁を吸いたいだけだな!」


 喜兵衛は乱暴に吐き捨てる。


 猛虎とはどう考えても「甲斐の虎」であり、主君に向かってずいぶんな物言いである。そして仁徳ある当主とは勝頼の事であり、当地の住民の感情がこの通りだとしてもあまりにも味が良くない。

 後はもう既に誰でも知っていることを言葉をこねくり回しているだけであり、正直釈迦に説法だった。喜兵衛でさえそう感じるのに信玄がどう思うかなど知れていると言うのに、いやわざわざ自分宛で名前なんか出して来たのだからそういう事なのかもしれないが、こんな書状で心をどうにかできると思うのであれば相当になめられている。


 腹を立てた喜兵衛が書状を引き裂いた上で投げ捨て、素振りでもするために庭へと向かった。



「父上、どうなさったのです?」


 庭で無邪気にはしゃぐ我が子の言葉に、喜兵衛の胸が痛くなる。


 源三郎と弁丸。二人の我が子。

 元より三男坊とは言え跡目である源三郎までここに来る程度には軽い我が子の事を見やりながら、喜兵衛は空を仰いだ。


「いやな、父が食事をじらしたらどう思う?あと五分待てと言い、五分経ったらさらに三分待てといい、そしてさらに二分待てと」

「当初から十分待てと申し上げとうなります」

 弁丸ははっきりそう言った。

 実際、最初から十分待てと言われるのと後から後から追加されて行くのではどう考えても後者の方が気分は悪い。例えが不適切なのはわかっているが、それでもこのいら立ちを誰かと共有しなければ喜兵衛は気が済まなかった。


「汁が炊けなかったのやもしれませぬ」

「源三郎……」

「料理はまた戦のような物であると母が言っておりました。戦も何があるかわからぬもの、同じように奇襲があったのやも知れませぬ。その場で取り乱していては敵に隙を突かれます」


 —————それに対し、源三郎の何と大人な事か。八歳だというのに六歳の弁丸は無論自分よりもずっと成熟した発想であり、実に冷静沈着だ。


「……父上?」

「いや何、父としたことがひどく焦ってしまっておってな。あまりにも決断を急ぎすぎるとろくな事がない物だな」

 八歳の息子にここまで言われてしまう自分のふがいなさに嘆息する程度にまで思い悩んでいた自分が情けなくなり、まだ三十なのにひどく老けた気分になって来る。気分は肉体に伝染し、視線は斜め上に飛び、背中は大きく曲がっていた。



「喜兵衛、なぜそのような顔をしておる?」

「え……?」


 その不甲斐ない男に向かって上がって来た声に、喜兵衛は反応しきれなかった。

 ひどく緩慢な動きで視線を下にやり、そのまま声の主を見止めてなお動けなかった。


「喜兵衛はどうしたのだ源三郎」

「おそらく何かを求めて得られずにいるのでしょう。しかもおそらくは敵意も害意もなく素直に」

「まさかお祖父様か?」

「断定はできませぬが父が相手するのはたぶんそういう事です、そうですね兄上」

「そういう事です武王丸様」


 武王丸と言う名前を言われてようやく反応した喜兵衛はハッとして庭先に出て、幾たびも叩頭した。

「これは武王丸様!そのお姿にも気づかずとんだご無礼を!」

「落ち着け、落ち着けぇ!」

 信玄の孫にして次々代の幼き主に気づけないほどに呆けていた自分を恥じるかのように土下座する男を、武王丸は甲高い声で諫める。


「祖父様が何か喜兵衛の気に食わぬ事をなさったのであろう。私が私なりに言ってやるから申せ」

「ですが」

「申せ!」


 幼いのに信玄の血をしかと引いた主を前にして、心構えの崩れていた喜兵衛は為す術がなかった。

「えっと、その……実はですね、信州の金山の出が悪く……正直武田家の懐具合はあまりよろしゅうございませぬ」

「そうか。それが不安なのか」

「いやその、お館様がその事をご存じの上で、急こうとしているのか悠長に構えているのか、どうにも分からなくなってしまいまして、それで……」


 結局、全部しゃべってしまった。

 主のすべてを分かれなど傲慢だとわかっているが、それでもなおその先の事を考えずにいられないのもまた事実なのだ。


「案ずるな」

「ですが……!」

「源三郎、弁丸。そなたらの父は少し疲れているようだ。今日だけは私の命令だ、父の子どもを存分にやれ」

「はい」


 小さな主から言われてもなおその気になれない自分に対し、人差し指を突き付けながらはっきりと宣言された喜兵衛の横に、二人の我が子が寄って来る。

「あの……」

「何かあれば私の名前を出せ、お祖父様に叱られる覚悟はできておる」

「はい…………」


 さらに悩もうとする喜兵衛の心を顕現で抑え込み、そして小さな四本の手で和らげさせる。

(お館様……なんとなくわかった気がいたします)

 それからしばらく父親らしいことを源三郎と弁丸にしてやった喜兵衛の顔からは、焦りと怒りの色が消えていた。




 その後、武王丸が軽く信玄から説教されていた事はまた別の話である。

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