ある男の答え
雪深い寒村の中の小さな廃寺。
その廃寺の側の野草を狩り、口に運ぶ。
その男はもう一年近くそんな生活を繰り返していた。
最近顔見知りになった農夫から手伝いの例としてわずかに米を受け取っているが、それ以上に深入りする気もない。
他にする事もないとばかりに、じっと座禅を組む。
ちっとも信仰していないさび付いた仏像の前で頭を下げ、大仏の真似事をする。
まるで、故郷に存在するそれに近似した行いを。
「お前さんはどこから来たんだい?」
「下野です」
聞かれるたびに微妙に嘘とも本当とも言えない言葉で言い返す自分が、農民になりきれていなくて嫌になる。
農村と言うのがよそ者に対しひどく冷淡である事をよく知っているからこそこんな事も言えてしまうのだろうが、相模などとはとても言えない。かなり乱暴ながら一応下野は隣国だし、下野「の方」からと言う事で言えば間違いではない。
とにかくそうしてなんとなく村に溶け込めたが、それでも決して深入りはせず、廃寺に泊まって腹が減ると手伝いをして日銭を稼ぐだけの生活になった。その気になればいつでも出て行く程度の覚悟と責任感はあったゆえだったが、その分余計に情報は入らなくなった。
あれほどまでに情報を追い求めていた自分がこんな世界にとか思わない訳ではないが、あの時はたくさんの部下がいた。それを求める主人もいた。今はどっちもいない。
何も変わらない道を、毎日毎日行き来する。そんな平凡な暮らし。あるいはいつか戦場に駆り出されるかもしれないが、もうその時はその時だと割り切るつもりだった。
「聞いたかお前さん、北条家が滅んじまったらしいよ」
最初に顔見知りになった農夫が、いきなりそんな言葉をこぼした。
彼が今聞いたように話すその情報も、おそらくは相当に古いのだろう。
だが無関心を装おうにも、どうしても体がうずく。
だからその日は珍しく熱心に、いつもの倍以上働いた。
「どうしたんだ一体」
「いえ、特に訳もありませんが……」
自分なりの動揺を必死に覆い隠し、地に鍬を叩き付ける。相模より米が取れると聞いた事があるが、実際田は大きく広い。豪農にしては小作人もいない田に異国情緒を感じ、遠い世界に来た気分にもなれた。
「まあこんな所に住んでると新しい話もないからな。たっぷり話してやるからさ。田もかなりきれいになったし」
「ありがとうございます」
珍しく甘えたい気分になった男は辞を低くして門をくぐり、なぜか鍋まで囲んだ。
「普段からあまり食べてないんでしょう」
「動いていないので……」
農夫の妻はやけに嬉しそうに男に中身を盛り、食えと言わんばかりに目の前に置く。言われるままに縋りつき、かき込む。
「お前さん、そんなにうまかったのかい」
「はい。ありがとうございます」
「そうかそうか、でもどうしてだい。そんなにあわてちまって」
あわてていると言う単語に、男は土器を取り落としそうになる。見る者が見ればわざとだとわかるようなこぼしぶりであったが、農民夫婦はしまったと言わんばかりに口を押さえた。
「ああすまんすまん、うちらとした事が……」
「いえ、どうしても慣れなくて」
「ごめんなさいね、それで何だい、北条の話だっけ」
「ええはいその、まあそういう所で……」
ぎこちない空気を取り払うように、男は笑う。
これもまた、決して上手ではないにわか仕込みの芸だったが、それでも二人は笑っていた。
「まあ、聞いた話だけどな……」
そんな売れない芸人に対し、農夫は視線を落としながら口を開いた。
ちょうど今からふた月前とか言うがおそらく実際はもっと前、目の前の夫婦が田植えが終わりようやくひと息入れていた頃。
小田原に、風林火山の旗が迫ったのだと言う。
「なんでもあっという間に取り囲んで、それで強いはずの兵隊さんがひとり、またひとりと木の皮をはぐように討たれて……」
武田軍はいくらでも籠城できるはずの小田原城を包囲し、どうやったのか兵たちを誘導して確実に北条軍の兵を殺したらしい。そんな事を何度も繰り返し、抵抗力を奪って行ったと言うのだ。
「それで小さな坊やが一言叫ぶと北条の兵隊は次々と小田原にやって来て、そして武田の兵隊に斬られる。そしてそれを指揮していたのもまた小さな坊やで、そんな事の繰り返しで次々と兵隊は減って行き、気が付くと小田原城はひとりぼっちになっていたそうな……おお怖い怖い……」
二人の坊や。間違いなく、あの兄弟だった。
「それで」
「そんな事が何べんも続くもんだからすっかり弱っちまってね、その坊やたちだけでも討とうとしてムキになってさ、強引に攻撃をかけたんだけどそれで失敗してお殿様の弟さんたちが死んじまって、それで完全にもうこれまでってなっちまったみたいでね。
お殿様も死んじまって、幼子だけが武田の手によって保護されておしまいって訳だよ」
もう元服しているはずの国王丸が幼子なのかと言う事はどうでもいい。
とにかく武田の手により小田原城が包囲され、次々とやって来た援軍や籠城軍が散り、氏政が自害し、北条家が実質終わった事だけは間違いなかった。
「なあ……あんた……」
「何ですか」
「この国の果てには、南部様ってお方がいらっしゃるってお殿様は申しておった……」
「南部……?」
「ここからはるか遠い、ずっと北の果ての……そこにいるのも、うちらの主人と同じお武家様なんかなあ……」
南部氏は鎌倉幕府以来からの家柄で文字通りの土着勢力であり、乱世にもよく耐えて戦国大名となっているらしい。
男は、その事を既に知っていた。
「でもお殿様は申しておった……その南部様の北の海の先には、また別の島があると……そんで今んとこその先っぽには人が住んでるらしい。おそらくはそれも、お武家様なのかもしれねえ……」
だが、その南部氏のさらに先に海があり、その先に島がある事は知らなかった。
島の先っぽと言う小さな言葉とは思えないような、あまりにも大きな感触。
「感謝申し上げます」
「そんなにかしこまらなくてもいいのに……」
「ありがたき幸せ、幸甚でございます。では……」
男は深々と頭を下げ、農夫たちの家を出た。
(やはり本当だったか……小田原も北条も、もうないと言う事など分かっていた……何を往生際の悪い事をやっているのだ……)
あの戦場から逃げ出してからもう四年以上経つ。
自分がどれほどの存在か、考えて来なかったわけではない。
北条と言う家の諜報部門を担い、陰日向に尽くして来たはずだった自分。
あるいは、あの場所にて討ち死にした事になっているのかもしれない。
本当はあの後、そのまま下野へと逃げ、さらに半年かけて下野から陸奥に入り、さらに北上してようやく落ち着いた、と言うかのうのうと生きているだけなのに。
————————————————————もしあの時、自分が首を横に振っていれば。
そんなこの世で最も仕様もない疑問。
この四年間、浮かぶたびに消して行く問題。
(拙者はあの時、それがいいと思ったからそうした。ただそれだけの事……!)
あの秘薬がもし、存在しなければ。
氏康に、知られていなければ。
信玄を、生かそうとしなければ。
何もかもが、どうにもならない過去だった。
だがそんなどうにもならない過去が襲って来ては、孤独に付け込んで来る。
今更孤独など慣れっこだったが、それでも振り払う事は出来ない。
武田と織田が争うことは、もうない。
証拠はないが確信はあった。
そして武田が関東の次に狙うのは、この東北。
あるいは、この村にも武田と戦ったり、あるいは武田に懐柔されたりした大名が兵として自分を駆り出すかもしれない。
あるいは、自分の存在を知って殺しに来るかもしれない。
だがこれ以上、じたばたする気もない。
「この程度の存在を追うのか、まあその時はその時、だ……」
男は、石を池に投げ込んだ。
石は小さな波紋を起こして沈み、そのまま見えなくなった。
人知れず住む魚や虫以外の誰の目にも、映らない存在になって行く。
(いずれは武田がここにも来る……その時は、この身、くれてやろう。敵として斬られれば拙者の留飲も下がる。
もし万が一があるのであれば、武田の犬になってやるのも良い……)
そんな決意を彼が抱いた事など誰も知らぬまま、またあの小僧たちと旗は彼の下に近寄っていた。
単なる、乱世の日常風景として————————————————————。
ご愛読、ありがとうございました!また次回作もよろしく!
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なおジャンルは全く違います。




