織田信忠と武田信勝の桶狭間供養祭
両軍の総大将を含む数多の犠牲者を生んだ、天正三年五月二十七日の翌日。
天正三年五月二十八日。
駿河にいた少年・武田信勝は、桶狭間の手前の沓掛城にいた。
「御祖父様……」
棺桶に入った信玄の遺骸に向けて、その少年はひざまずいた。
「ご隠居様は戦われたのです。全てを賭して」
「わかっている……」
棺桶の中の信玄は不思議なほどきれいに笑っている。
昨日泣きつかれていたはずの山県昌景・内藤昌豊・馬場信房や武藤親子でさえも泣き、昌幸などは遺品である軍配を抱えていた。
「それで織田軍は」
「ほとんどが撤退していますが、鳴海城にかなりの数がおりまだ油断はならぬかと」
「柴田や羽柴もか」
「いえ、鳴海城には羽柴がおります」
武田信勝の言葉に、武藤昌幸はまた泣いた。
この人間は、祖父の死を目の当たりにしてなお御家の事を考えている。
「撤退するのか」
「他に道もございますまい」
織田の打撃はもちろん小さくないが、武田の打撃だって小さくない。
こんな敵地でこれ以上ぐずぐずしている理由などないのだ。
「それで御祖父様は最期に何と」
「織田とは争うな、と……しかしそれは……」
「昌幸」
「いえ、ただでさえ此度の結果はぎりぎりと言うべきそれでございます。本気でかかられれば依然として我が武田は」
「昌幸、信長まで失ったのだぞ、武田に絡んだせいで。織田はもうこれ以上盗人に払う追い銭など持っていなかろう。
それによく無事だったな」
あの一騎打ちの後、勝家は信長の遺体を回収すると鳴海城へと撤退。
昌幸たちも同様に桶狭間山にいったん下がり、そしてぐっすり眠った朝一番の内に沓掛城まで退いた。
その間織田信忠や羽柴秀吉を含む織田の襲撃はなく、未だにその気配もない。
「戦は終わったと思うか」
「思えませぬ。信長がいかに理想を述べようともそれは信長と、柴田勝家ぐらいの理想です。羽柴秀吉などは正直……」
「昌幸。これ以上背負い込むな。まだ我々がいるのだ」
「しかし……」
その現実をわかっている上でなお警戒の色を隠さない昌幸であったが、その昌幸の下に一本の白旗が目に入る。
「誰だ!」
「織田の使者のようです」
織田の使者と言う言葉に昌幸は信玄の軍配を振りかざそうとするが、信勝はゆっくりと立ち上がるだけだった。
「信繫、ちょっと聞いて来い」
暗殺者だったらとか言う言葉を昌幸が口にする前に信勝は信繫を呼び、織田の使者に誰何するように命じた。
「貴公の名は」
「蒲生氏郷でございます」
「すぐ来い」
蒲生氏郷と言う、かつて兼山城東で信勝と昌幸、信玄と共に出会った男。
その男が持って来た書状を開いた信勝は、昌幸がいぶかしむのも構う事なく、宿老たちの了解を得て、承諾の旨を伝えた。
この戦を終えるために。
翌五月二十九日、桶狭間山にて会談が行われた。
出席者は八名。
織田信忠、森長可、蒲生氏郷、堀秀政。
武田信勝、武藤昌幸、武藤信幸、武藤信繫。
羽柴秀吉も柴田勝家も、山県昌景も馬場信房もいない。
お互いの御家の次代を担う存在。
「武藤殿、何か」
「何でもございませぬ」
昌幸だけは仏頂面を隠そうともせず、胃が痛そうな顔をして織田勢を睥睨する。
「父上は既に、このような書状を残しておりました」
そんな昌幸にも構うことなく、信忠が秀政の手から書状を取る。
一度も開いていない事が丸わかりな印を武田に見せ、大きく開く。
「織田と武田の争いの二度となき事を」
そう大きく書かれた文の下には、細かい条件が三つほど記されている。
ひとつ 三河は武田の切り取り次第とせよ
ひとつ 御坊丸は武田の子と思うべし
ひとつ 全ての仇はこの時をもって廃せよ
「これをいつから」
「お館様に家督を譲る時には既に」
信長は既に、この戦で死ぬつもりだったと言うのか。
「安土城をお建てになると決めてから、もはやいつ逝くべきかを探していた節すらあります。それで今しかないとお考えになり」
「まさか我が祖父と心中する気だと言うのも」
「断言はできませぬが、そうなればもう戦う理由などないと」
織田にはもう、武田とやり合う理由はない。攻めた所で利得は薄く、それでいて兵は強く家はまとまっている。
「徳川を我々に斬り捨てさせたのも」
「それはご自由に考えてくださって構いませぬ」
そしてもし徳川が生き残っていたとしても、今の武田にはもはや敵わない。それ以上に、武田との無用な争いに自分たちを引きずり込む厄介なだけの存在。上杉に至っては論外だとしても、徳川にはまだ抵抗できる力が残っていた。
「この条件を守れば二度と手は出さぬと」
「いかにも。この織田奇妙丸、得心いたしております」
「なるほど。ではこちらも条件がひとつございます」
いかにも得意満面な信忠に対し、信勝も床几に手を乗せ身を乗り出す。
「美濃の領国についてはお返しいたします」
「そのような!」
「その条件のままではこの戦、武田の勝利です。この結果では織田に不満が生まれます」
「この戦いをどう終えたいのですか」
「なんでこんな事をしたんだろうと思う事です」
なんでこんな事—————つまり戦などしたのか。
「この戦で織田も武田も激しく傷つき、疲れ果てました。二度もお互いに全力をぶつけあい、人を失うばかり。どちらにも何の得もありませんでした」
「不可侵と言う事ですか」
「そういう事です。どっちが仕掛けようともただ無意味、いや無駄と言う事がわかってしまったのですから」
戦と言う名の無駄。
少なくとも、織田と武田の間の戦は完全に無駄だったと言う現実。
「これからは織田は織田、武田は武田で良いではありませんか」
急にさわやかな笑顔になり、あまりにも調子の良い事を言う信勝。
注意しようとした昌幸だったが、織田軍の若手たちの顔を見て口を閉じた。
あまりにも屈託がなさすぎる。まだ三十路のくせに自分が老人になったように思え、あわてて口を閉じた。
「織田家の皆様はそれでよろしいのかと」
「悔しいですけどね。まさか美濃を渡すだなんて言われるとは」
長可が必死に憎まれ口を叩くが、とげとげしさはない。単純な負け惜しみと言うか、褒め言葉だった。
「美濃全土を手にできるのはありがたい事です。これで織田の不安もなくなりましょう」
「武田太郎様が当主である限り、織田は武田に手を出しませぬ」
「無論、尾張に再び兵を入れるのであれば話は別ですが」
「こちらも信濃に兵を入れるのであれば話は別ですけどね」
最後に適当にけん制を入れ合いながら、若き当主達は同時に頭を下げた。
二人の肩にはとてもこの日の下の半分以上の国が乗っかっているようには見えない。
ただの、友人同士。
「できれば、安土城を見ていただきたいのですが」
「いつできるのです」
「予定としては三年後です」
「予定は未定でございますゆえ。いずれはその時が来るかもしれませぬし来ないかもしれませぬ」
「これはこれは……私はあなたが見に来るまでは安土城を守って行かなくてはならなくなりましたな」
「こちらこそ、安土城を見に行くまでは身罷れぬ事がわかりましたよ」
二人とも、笑っている。
本当に満足そうに、笑っている。
氏郷も、長可も、秀政も、信幸も、信繫も笑った。
昌幸も、最後には笑った。
織田も武田もお互いに笑い合い、手を取り合った瞬間だった。
その友誼の最初の証として、和議が決まってから五日後の六月四日。
桶狭間山にて、僧たちが集められた。
西には信忠、柴田勝家、羽柴秀吉、前田利家。
東には信勝、内藤昌豊、山県昌景、武藤昌幸。
東西に分かれた両家の英雄たちを前にして、経文が上げられる。
信玄と信長の遺体はそれぞれ故郷へと運ばれ、そこで改めて葬儀を行う事になっている。
彼ら両名を含む数多の御霊を、いやこれまでに死んだすべての魂を供養するように経文が響く。
織田信雄、織田信孝、徳川信康……数多の将の諱が僧たちの口から飛び出す。
そして、明智光秀や足利義昭、跡部勝資の名前も。
「跡部!?」
「静かに!」
「ですが…」
「全ては我々の無駄な戦いのせいで死んだのだ。それだけの事だ」
「全ての因縁を絶ち、お互いに道を歩めと言う事なのだろう」
本当に彼らの死因が織田と武田の対立のせいかはわからない。だが無駄な戦がなければ、こんな死に方などせずに済んだ人間たちである事に、何の変わりもない事だけは、紛れもない事実だった。
やがて火が点けられ、その火から出る煙が導師となり、導くべく所へと魂を導いていく。
それと共にお互いの将から涙がこぼれ、あの時の様に大地を濡らす。
あれから七昼夜雨が降らなかったせいで乾いていた土壌をまるであの時の様に濡らす、にはどうにも力が足りなかった。
まるで故人たち—————とりわけあの二人—————が涙を収めるかのように、この場にいるすべての人間の目を止めていた。
やがて炎は燃え尽き、それと共にすべてが終わり、そして始まる。
「さらばだ、武田の新たなる英雄」
「さようならです、織田の英雄様」
そして、両当主の別れの挨拶と共に、将兵たちは散会した。
それぞれの、新たなる夢へ向けて。
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