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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第十二章 十五年ぶりの
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武田信玄と織田信長の満足・不満足

 信忠も秀吉も、信房も昌豊も死なずに戦いを終える中。




 この二人は、戦いに臨んでいた。


「信玄。余はそなたに二年もの時間を与えた。その結果がこれか」

「先刻承知の上だろう」

「信玄。本来より生き永らえて何を望む?」

「武田の永劫なる繁栄よ。それ以上の答えが要るか」

「なるほど。実にらしい答えだ」


 お互い、率いる兵は同じ。




 —————千人。




「余は十五年前、この数で義元の首をもいだ。信玄、うぬには縁もゆかりもなかろう」

「わしとて初陣の頃はその程度だったわ」

「武田信虎の事だ、その功績を認めるぐらいなら死んだほうがましだとか述べたのであろう」

「似たような物だ。お互い親には恵まれんな」


 大井の方や信秀の事は、それなりに尊敬出来ていた。

 だが信虎や土田御前を尊敬する気など信玄にも信長にもないし、高く評価する人間など武田家にも織田家にもほとんどいない。信虎はまだともかく、土田御前に至っては皆無に近い。

「もし親がまともだったらどうなったか考えた事があるかね」

「別にない。信長は当初からこうなる運命だったと言うだけの事……」

 過去語りを繰り広げる二人だったが、その間に信長は自ら刀を抜き、信玄は相変わらず武器を持たず軍配を握りしめている。

 信長が突っ込んで兵と共にぶつかろうとする一方で、信玄は隙を見つけてはそこに数名単位の小隊をぶつける。その度に信長も細かく受け止めにかかり、また新たなる隙を見つけては信玄がぶつけに来る。


「ずいぶんと単純なやり方よな」

「信長のやる事は複雑ではない。少なくとも目標は非常に単純だ」

「単純明快か、まあそれは良いのだがね。まさかこの国の全てを変えようとか言わんだろうな」

「言うとも。余はこの国の全てを変えるために戦って来た」

「たかがひとりの男に何ができると言うのかね、御家ひとつ保つのにもきゅうきゅうとせねばならぬと言うのに。もしそれがそなたの言う所のわしの限界だと言うのならば別に一向に構わんがね」




 武田信玄もまた、自分の程度をわかっていた。




「わしは武田を守るために、武田を繁栄させるために動いておる。他に理由がいるのかね」

「そのために天台座主と言う名の英雄になるか」

「なるとも」


 信玄自身、口で言うほど大きな欲望もない。


「世の中を変える。ずいぶんと見事な欲望だ。だがそれを口にできるのはよほどの力の持ち主であり、結局は力ある者の特権でしかない。わしにはそんな力はない」

「よく言う。甲斐一国の守護大名が今や二けたの国を統べているくせに」

「そこまでだ。わしは単純に年を取りすぎたし元からその気もない。信勝についてそなたがどこまで知っているか知らんがまあそういう事だ。わしはそなたと違って野心的ではないからのう」

 信玄は自分が保身的である事を認めている。どこまでも自分のためだけに戦い、その結果領国を増やして来たと信じている。


「駿河は塩が欲しいから攻めた。遠江と上野は武田の民を満たすために攻めた。そこまでは認める。だがあとはもう落ちていた物を拾っただけだ」

「今もまた、武田のために戦うのか」

「そなたがいると信勝たちが枕を高くして眠れんからな」




 だがこの戦いに、保身はない。



 ほぼ生身の織田信長と武田信玄と言う存在が、己がわずかな手駒を使って殴り合っているだけ。




「そんな戦いには誰も付き合わん辺り、ずいぶんとよくしつけられている……」

「どっちもどっちだろう」

「余とて戦の前に己が命運を悟らぬ痴れ者でもない……権六も藤吉郎も奇妙も、既にこの命運はわかっている」




 その命運を理解しているはずの勝家は、涙をこらえながらこの無意味な殺し合いをにらんでいる。前田利家などは泣いていた。


 それは武田も同じだ。山県昌景はやや後方に下がり、武藤昌幸と共に両雄の対決をじっと眺めていた。

「ずいぶんとなめた真似をする……」

「礼儀と言う物があろう。いくらここが尾張とは言え余ばかり優遇していては互角ではない」

 そして気が付くと、織田軍及び柴田軍の半分近くが退却していた。よく見れば、この場にいる武田軍と同じ一万五千ぐらいしか残っていない。



 残っていると言えば、この短時間の間に信長軍も信玄軍も、百人近く減っていた。


 屍が泥濘に沈み、赤土を余計に赤くする。当然足下を取られた兵たちは足や武器さばきを乱し、加害者及び犠牲者となる。

 まさに地獄、まさに負の連鎖。







「親父殿……!」

「犬千代!黙って見ておれ!」

「しかし!」

「わしとて辛い!だがお館様のあの顔をご覧あれ!」


 その地獄を、信長は楽しんでいた。笑顔を崩すことなく、楽しそうに笑っていた。


「犬千代。わしはかつてお館様に抗った。命さえも奪おうとしたのに許された。わかるか」

「ですからそんな寛容な」

「ゆえにわしはそのお方様に逆らえぬ。本来なら年かさであるわしが犠牲になりたいぐらいだが、それすら許せぬほどに罪があるのだろう」

「じゃあ藤吉郎は何なんです!奇妙様はまだ、その、ともかく!」

「切腹と言うのは特権階級の行いだ。それも特権階級の中の選ばれた人間の。畳の上で死ぬのと同じぐらいの特権階級だ。知っているだろう、お館様や信玄が倒した連中の事を」




 今川義元、浅井久政、朝倉義景。及び徳川家康、上杉謙信、徳川信康。

 その他数多の特権階級と呼ぶべき人物が、腹を切る事も出来ずに死んだ。まともに生きていたのは本願寺顕如ぐらいだが、息子の教如は討ち死にし鈴木重秀もまた同士討ちでこの世から消えた。




「今お館様がなさっているのは、ただの戯れだ」

「そんな!まさか!」

「信玄もそれに付き合っている。二人とも、笑って死にたいのだろう。もう、死んでもいいと思ったからな」




 もう、死んでもいい。投げやりと言うより、あまりにもさわやかな本音。




「だがそのためには、どうしても自分を殺してくれる役者が必要だ。それがご隠居様と言う事か」

「ああ……」


 自分の言葉に割り込んだ山県昌景に対しても勝家は平然と対応し、同時にうなずく。


「ご隠居様はもう、二年近く当主ではない。この一年はまともに戦もせず、文字通りすっかりその姿を消しつつあった。信長はどうだ」

「お館様も武田と戦ってから二年、自ら戦う事はなくなっていた。奇妙様に本願寺を落とさせその座を譲り、安土城に専念していた」

「城を……か。興味はないがな。どうでもいい事だ」


 どうでもいいと言う昌景のぞんざいな言葉に怒る織田の人間は、もう誰もいない。




「何ぉ!」


 いや信長の配下たちにはまだいたが、彼らはすでにその先の事がわかっているからこそ吠えただけであって他意はない。

 そしてその彼らも一人、また一人と減って行く。


「……何人死んだ」

「四百は……」

「ずいぶんと人を殺したな、その軍配ひとつで」

「それが大将の特権だろう」


 そううそぶく信玄率いる軍もまた、四百の犠牲者を生んでいる。


 信玄が握る軍配————————————————————十四年前に上杉謙信の刀を受けた風林火山の銘が刻まれた軍配————————————————————は漆が剥げかけ、心なしか持ち手が信玄の手に合わせて変形しているように見える。

 一方で信長はこの日のために整えた刀を振り、寄って来た武田軍の兵を斬る。


 実に対照的な、二人の武士らしい武器。







「お館様ー!」

「来るな!」







 そこに割り込む一声に向けて、信長は一喝した。




「誰だね」

「猿め、そなたの部下に顔を掴まれていたのが悔しくて仕方がなく、やむなく弟を寄越して来たらしい。百姓の代表をな」

「百姓の代表を、か」


 割り込んで来た援軍の名は、間違いなく羽柴秀長。

 百姓の代表である羽柴秀吉の弟。


「仮に秀吉が来たらやめていたかね」

「戯れはよせ。猿が猿らしく騒ごうとも余は抑える。武士を認めさせる器の百姓ではあるが、百姓は百姓である。武士の領域に立つべきではない。と言うより、こんな場に触れてはならぬ男だ」




 勝家ならともかく、秀吉には見せられない空間。




「いかにも。武士と言うのはぜいたくな生き物だ。そのぜいたくな生き物がぜいたくに命を使う。最高にして最悪の遊戯だ。誰にもできないし、してはならぬ、な。

 フッフッフッフ……ハーッハッハッハッハッハ………………!!」




 信長は高く、笑った。




 抜けかけていた空に向かって、高らかに笑った。




「さて……いよいよ決着の時だな」




 邪魔者を追い払った信長は隊伍を整えさせ、信玄もそれに応じた。




「行くぞ」

「来い」


 残った兵たちと共に、大将が先鋒となって突っ込む。


「この戦いに勝ったらどうする?腹でも切るか?」

「その身を奇妙丸、いや秀吉とやらにくれてやろう。わしを好き放題に痛めつければ秀吉の溜飲が下がるだろうしな。案ずるな、信勝がごねる事などあり得ぬ」

 勝家ですら眉をひそめたのにも構う事なく、信玄は信長に近づく。

「その点については余の負けのようだな。では、余が生き残れば同じようにしてやろう。

 山県、いや武藤昌幸……!」



 突如名指しされた武藤昌幸———————必死にただの観客気分になろうとしていた男は目を見開き、信長を必死ににらみ付ける。



「余は見ている。そなたが育てた男を。あの時より一段と大きくなったのであろう」

「まさか太郎様を…!」

「冗談はよせ。二年も前に見たぞ、兼山城東で」

「そうだった……!」

「フッ、どうにも過保護な教育者だな。信玄、大丈夫か」

「大丈夫と思わねばこんな真似はせんよ」


 世間話の間に、信長の刀が信玄の視界に入る。

 信玄もまた軍配を振り、信長の左右に兵を送る。


「そういえば彼はどうした?」

「自ら来ぬと宣言しておる」

「ふむ、まったく見事に育てたものよ。昌幸とやら、自信を持って良いぞ。武田信勝は立派な大国の主だ」


 —————虎穴に入らずんば虎子を得ず。

 危険を冒さねば大功は得られないと言う意味だが、この場合の虎穴はむしろこの大決戦の場に出て来ないと言う事であり、臆病者の汚名を着に行く事こそ武士にとって困難だった。


「これまで数多の者が大功を求め、それ以上に恥辱を恐れ、戦場に身を置く自分に安心した。そしてその安心に負けた」

「これからもその安心と戦う気か」

「支配者は慈愛と勇気、そして厚顔さも必要だ。その点は奇妙も大丈夫のようだな」


 面の皮が厚いとか言う言い草を褒め言葉として使う人間は普通いない。

 だが大軍や大国の主には、必要な素質だった。


「もちろん将兵の痛みに鈍感になってはならぬ。されど敏感に過ぎれば自尊心が頭をもたげてしまう」

「織田信長と言う存在がここまで平衡を保っていたとは意外だったな」




 お互いに言いたいことを言い合うその姿に、恨みつらみの入る余地はない。




 どちらかというと、親友の会話。







「正直に言おう。余はそなたが憎い」

「ほう」

「三河殿を始めとして数多の存在を斬ったそなたが。そなたがもう少し早く逝っていたら、武田は今頃織田と徳川に呑まれていた」

「あいにく、わしとて虎穴に飛び込む勇気はあったからな」


 憎まれ口そのもののくせに、笑って受け流す信玄。


「そなたこそ魔王を名乗りながらあの浅井長政を許したではないか。わしだってそなたを討つために同盟でも結ぼうと思っておったのに」

「余は浅井久政と朝倉義景のみを憎んだ。親の因果が子に報うばかりでは世は動かぬ」

「そういう所がそなたの本性なのだな」


 理性的で是々非々な所を見せつける信長。




 先ほどから繰り広げられる会話はもはや、恩讐など通り越していた。


 だがその間にも、人は容赦なく死ぬ。







 そして。







「信玄……坊主である事をついにやめたか」

「わしは元々甲斐源氏と言う名の武士の棟梁よ。どうだ織田の棟梁」

「上等よ」




 倒れた兵の薙刀を、信玄は握った。




「兵たちに次ぐ。この戦いを見たければ見よ。見たくなくば目を伏せよ。

 そして勝敗がどうなろうが文句を差し挟むな」




 信長の宣誓の下、生き残っていた兵たちが後退する。




 文字通りの、一騎打ち。







「いざ!」




 動かざる事山の如しの信玄へと刀を抜きながら突っ込んで行く、信長。




 お互いが、お互いの全ての人生をかけて、一閃を放つ。







 十三個の年の差を補うように突っ込む信長。

 身体能力の差を技で補うように構える信玄。







 このあまりにも美しく荘厳なる二人の空間に割り込めた存在は、皆無だった。













 ————————————————————そして。










「どっちだ!?」




 と言う声が両軍から同時に響く。













 ————————————————————結論から言えば、信玄の技がわずかに勝っていた。




 武器を持っての戦いから離れていたにもかかわらず、信玄の方が早く信長の心の臓を捉えていた。




 もっとも、百分の一秒にも満たない差であったが。




「信玄……そなたの、勝ちか……」

「馬鹿を言え、どっちも、勝ちだ…………」


 二人とも落馬しないまま、お互いの健闘をたたえ合った。


「フッ……武田の安寧、余が守ってやろう…………」

「わしも織田は、もう大丈夫だと、確信したわ……」




 そしてそのまま、今度は全く同時に落馬した。







 泥濘だらけの桶狭間に、なぜか大きく乾いた音を立てて。

あとこの話は終章を残すのみです。もう少しお付き合いのほどを。

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