織田信忠と馬場信房の決着
鎌倉往還にて戦っていた織田信忠もまた、一つの終焉を感じていた。
「美しい空だ……」
あれほどまでに強かった雨がやみ、空が青くなっている。まだまだ雲も頑張っているが、黒みもなければ厚みもない。
「まったく、どこまで武田はあがく気なのでしょうか……」
「あがく?あがいているのは完全にこっちなんだが」
「そのような」
「本願寺を叩き潰した滝川軍をもってしてもこの有様。武田は完全にこちらを通さじと構えている。進みこそしないが砕けない」
「あきらめないで下さい!」
「なら長可、どうやって破る?見ろ」
後方に下がっていた森長可は前に目を向けるが、形勢は思わしくない。
最後の切り札のつもりだった上杉軍も、「上杉軍」に押されている。武田の配下として上杉の旗を掲げるのはおそらく上野の北条だとわかっているが、それでも現状は武田の下に立つ「上杉軍」の方が優位である。
「向こうにこっちを突き破る力はないし、その気もない。この上杉が滅べば、武田にとっては完全に武田対織田の戦になる」
「それに何の意味が」
「徳川や上杉と言う存在が消えれば、武田はいつでも織田と妥協する気だ」
家康や謙信を殺された徳川や上杉に、武田と妥協する余地はない。あの樋口与七とか言う少年を旗頭に、必死に武田軍に食いつこうとしている。
だがその前に「上杉軍」に頭をつかまれ、動けなくなっている。
「なあ長可。武田は本多忠勝の排除を求めたのだな」
「それが」
「おそらくは忠勝と言うか自分を恨む存在の排除を求めたのかもしれぬ」
「そんな無茶苦茶な!」
「もちろん私とて明智日向の事を忘れてはいない。真面目で、誠実な男だった。だが武田とて後継者であった勝頼をその時失った。あいこではないのか。ああそれからおそらく三七も死んだのだろう。そしてそれに大した意味もないが」
「…………」
「やはりか」
長可がひるむのにも構う事なく、信忠は平然と言葉を続ける。
「三七は昔から血の気が多かった。三介とは関係なく、な。確かに武将としては使えたかもしれないが、自分で軍を率いるには無理があった」
「軍を率いることはできないと」
「だな。そして三介よりずっと聡かった。本人でさえ気づかない内に、今しかないと思ってしまったのだろう。まだすべてが終わる訳でもない事など、少しでも考えれば気が付くはずなのに……」
「しかし実際に死んだとは」
「死んでいないかもしれない。だがだとしても父上はその権力を剥ぐだろうし、私だってそうする。信雄が死んだゆえに腑抜けてくれればそれがいいのだがな」
そんな事を言っている間にも、武田の攻撃も下火になっている。
いつの間にか争っているのは上杉の旗を掲げた同士だけになり、両軍本隊は共に差して来た薄日に当たっている。ずいぶんといいご身分なお話だが、信忠は罪悪感を覚える事はない。
した事と言えば自分たちに類が及ばないように、上杉軍と言うか樋口軍の後ろに兵を置いたことぐらいだった。
「お館様……上杉が散りました」
そんな風に主従仲良く語り合っている間に、樋口与七が討ち死にした。
下手人は言うまでもなく北条高広であり、その高広もまた最後の上杉軍により集中攻撃を受け逃げ出し、残った兵たちは内藤軍によって謙信たちの所へ向かった。
「内藤軍は来ませんが……」
「まあ来ないだろうな。来る意味がないからな。こっちは数は多いし城がある。来るとすれば後方であり、この展開をきっかけに信玄の援軍に動くと言う形だろうな」
「なれば」
「だが動かないかもしれない。動かないとなるとこちらも動けない。それにだ、兵はこちらのが多いと言ってもその分だけ動けない兵も多い。
残念だが、悪路や悪天候は向こうの方が強い」
柴田軍や羽柴軍はともかく織田軍直属の兵は尾張生まれ尾張育ちが多く、平地での機動力には優れていても悪路や山地には弱い。防衛ならともかく進軍する体力は残っていない兵が多く、雨が止んだ所で悪路を進軍するのは無理があった。
実際、この悪天候と激戦により肩で息をしているどころかへたり込んでしまっている兵も少なくなく、彼らを戦力としては数えられない。
「仮に戦いがあったとしても明日だ。その間に武田はとっくに逃げている」
「そんな」
「武田はもう勝ったのだ。そして我々が負けたとは言えない」
勝者がいれば敗者がいる。そんな至極当然の理屈を否定する信忠はまったく真顔だった。
「ではこれより我々は!」
「来ないとは思うが武田の進軍を見張っておけ。ちなみに扇川を渡れると思うか」
「……」
「それが全てだ。武田の敵はもうすべて消えた。織田が彼らを擁護する必要はない」
信忠はゆっくりと、滝川一益に近寄る。
一益もまた肩で息をしながら、長可と同じように血走った眼で前を睨む。
「お館様……」
「一益、代わるぞ」
「しかし…!」
「もうそなたも五十だろう、ゆっくりと休め」
「とは言え……」
「この二年間、織田と武田に問題はなかった。信玄も信勝も東しか見ていない、我々が西しか見ていないように」
「徳川が消え、信康様や三介様に三七様が亡くなろうとも……」
「構わぬ!」
「わかり申した」
だがそんな一益も、信忠の一喝でずいぶんあっさりと首を縦に振った。
一益自身も単純に疲れていたし、それ以上に信忠の本気ぶりを飲み込めたからだ。
「もう、我々の戦いに意味はない…………後は上様の命運を祈ろうではないか」
一益は東を向きながらも、兵たちを後退させて行く。
敗残兵と言うには力があり、凱旋と言うには迫力のない。
ただ、目の前の仕事をやっつけただけの兵たち。
そんな男たちの顔が、なぜか信忠も一益も愛おしかった。
※※※※※※※※※
その頃、大高道でも決着が付いていた。
「なんちゅう厚さじゃ…………」
秀吉をして、万策尽きていた。
いくら奇策の天才をもってしても、真っ正面に立ちはだかる壁を破るのは難しすぎる。
横から曲がろうにも大地が荒れまくっていて回り込む事ができず、言うまでもなく鉄砲は使えない。
仮に命がけでぶつかっても、成果は上がらないし、上がったとしてもその先がない。
「わしで力尽きていてご隠居様を討とうなど笑止千万……!」
「馬場信房……!」
他にできる事のない秀吉から相変わらず迫力のない声が漏れ出すが、それが影響力を持つわけでもない。
「何のために、お前たちは戦っておるんじゃ……!」
「主のため。それだけだ」
「わしも無論、上様のために戦っておる!上様はこの国を変えてくれるたった一人のお方じゃ!信玄に、黄金の穂を実らせる事ができるのか……!」
「わしができるのはその黄金の穂に集る害虫を排除する事のみ」
百姓と武士が、己が立場をぶつけあう。それとは別に秀吉と信房と言う個人も、雄弁と短文をもって個性を見せつける。
「わしは、上様と、家臣と、おっ母と、女房と、そしてあのお方のために戦っておる!わしを信じてくれたお方のために!それを……!」
「その責任は本人にあろう」
「わかっておるわ!けど征夷大将軍様は……このわしを、百姓のわしを!新たなる!」
「それも知らずに戦っていると思っているとは、わしもなめられたものだな。
ここにいる兵たちが、平生田畑を耕している事を知らぬ訳でもあるまい」
大将は尾張の百姓と甲斐の武士なのに、尾張の百姓に率いられている兵士は大半が近江出身の専属の兵で甲斐の武士の配下は信濃出身で副業としてここに出て来ている農兵。それがこの戦場の現実だった。
「確かに百姓がいなければわしらは飢えて死ぬ。だが百姓は武士がいなければ搾取される。武士も百姓も差はないと思うがな」
「わしは上様と共にあり、上様が世を変えるのを!理不尽を正すのを!幾度も見て来た!信玄は一体何ができるんじゃ!」
「人を育てる事。単純な話だ、旧弊が旧弊になったのは人が悪いからだ。作られた時は旧弊ではなく立派な新制度だった。人さえ良ければいくらでも機能する。見ろこれを」
秀吉と信房が言い争いをしている間にも、戦いはこう着状態が続いている。
最新鋭の軍勢のはずの羽柴・蒲生氏郷軍一万六千が、七千の馬場軍を押しきれない。
「我々は別に織田の世界を邪魔する気はない」
「織田は織田、武田は武田で好き勝手にやれって事か!」
「その通り。ご隠居様はそう申しておった。わしはそのために動いたまで」
「逃げれば殺すのじゃろう……!」
「馬鹿馬鹿しい。兵たちの数が違う。どうせ深追いすればその瞬間その頭が動き回るのだろう。そんな危ない事をする理由はどこにもない」
信房も実際、前進の余地はない事に気づいていた。
もし自分が前進してしまえば、その瞬間全て絡めとられる。秀吉と言うのが事前の策のあるなしに関わらず、その場でひらめいて対応できる人間だともうわかっていたからだ。
「ああもうわかったわ!わしゃ帰る!お前らのような頑迷固陋な老爺を相手にするほど暇ではない!」
「そうしてくれるとありがたい」
「お前ら、こんな連中に付き合っとれん!東海道、上様の下へ向かうぞ!」
完全にふてくされた秀吉が逃げ口上と共に、羽柴軍は後退して行く。
快速を誇る織田軍でさえものろのろと動かねばならぬ程度にはその足は重く、数のせいで鈍重になっていることを加味しても正直情けない姿だった。
もっとも馬場軍とてそれを追うだけの力は残っておらず、ただ後退を見送るだけだった。
(途中から兵が減っておった事を気付かぬわしでもないが……敵ながらあっぱれよ、羽柴秀吉……)
信房もまた武士らしい感慨を抱きながら、ゆっくりと大高道を引き返しにかかった。
こうして、織田信忠・羽柴秀吉・滝川一益、及び馬場信房・内藤昌豊・武藤信幸の戦は終わったのである。




