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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第十二章 十五年ぶりの
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武田信玄、最後の戦い

「大久保ですね」

「あの兄弟の兄と甥か」



 武田軍は、全く悠長にその客を出迎えていた。



 すでに徳川軍と雨中の死闘を繰り広げたはずなのに、兵たちは異様に元気だった。



「もてなしをしてやれ」



 兵たちは雨中でも目立つほど真っ赤な目をした男たちに矢を放ち、次々にその数を減らして行く。

 比較的元気なはずの二人だったが、それゆえに勢いは落ちる事がなく、将棋倒しを生む。


「もう矢はあまりありませんが」

「まだあるのだろう。それから他にも」


 信玄の側には、刀剣が積み重ねられている。

 言うまでもなく、徳川軍と織田軍の遺品だ。


「投げ付けてやれ、ってもうやってるな」


 信玄が言うまでもなく、次々に徳川軍の武器が徳川軍に向かって矢か手裏剣のように投げ付けられる。その投げ付けられた武器の中には徳川の将たちの得物もあったが、武田軍はそんな事を気にする素振りなど微塵もなかった。

 雨でかすれた銘のついた得物が宙を舞い、敵を突き刺しに行く。

「この…!」

 徳川軍も必死に撃ち落とすが、矢と槍では重量が違い過ぎる。一撃を跳ね返したとしてもその反動が大きく、次をよけきる事ができない。


「貴様、人の、心がっ…!」

「何としても生き残りたい……当然の真理だろうが」

「ほざけぇ!信玄、貴様を殺して我らもぉ!」


 自殺志願者の声が響き渡る。

 必死に無理心中の相手を求める集団。


 その自殺志願者集団の先頭に向かって飛んだ、一本の槍。


 その槍が飛んだ瞬間、自殺志願者の動きが止まった。



「彦左っ…………!」



 その叫び声と共に自殺志願者集団の筆頭こと大久保忠世は、つい先ほど名もなき武田の雑兵により、三年前に首級を抱え込んだ家康の下へと向かわされた弟の刃を胸に受け、そのまま桶狭間の土くれになる活動を始めた。

「なんと残酷な!」

「戦に残酷も何もあるか!」

「父たちの、叔父たちの無念を!」

 それに続くようにやって来たその男を父と呼ぶ存在にもまた刀剣が投げ付けられ、本人こそ避けたものの馬に次々刺さり、口から血を出しながら馬はくずおれ、人間は投げ出された背中に三本の刀が刺さりそのまま血の海に沈んだ。

 残った兵たちは多くの徳川軍と同じように将棋倒しになって圧死するか、特攻兵となって無理心中に失敗するか、もはやこれまでと自分勝手に決めつけて自害し、ここに徳川軍は完全に滅んだ。




(あとで彼の家族には相当に報いてやらんとな……)




 織田勝長を抱え込む信玄にとって、織田軍を偽装するのはたやすかった。


 あの時突っ込ませた百名の内数名に織田の兵の格好をさせ、大高城へ入り込んで本多忠勝の危機を煽ったのも全て、武田の兵だった。その後彼は織田軍の後方から突っ込んでいたが、反応がない事を思うと横手で払われたのだろう。徳川にとどめを刺した彼の事を終生忘れるなかれと、信玄は柄にもなく決意した。




「なあ、昌幸」

「何でございましょうか」

「信長は、このわしを殺すと思うか」

「織田のやり方を踏みにじると思えば」

「うむ、そういう事だ」


 今ここで信長の息子二人を殺し、かつては寵臣をも殺した。


 普通ならば、絶対に許さないだろう。


「信長はおそらく、もう徳川を見切ったのだろう。娘婿の信康さえもな」

「徳川の反応は武士として自然かもしれませぬ」

 実際徳川は家康と石川数正の死をきっかけに武田への復讐に向けて一致団結し、しまいには二代目当主の生母まで殺して戦いを挑んだ。実に武士らしいやり方を取った。

「だがその当然に溺れた結果、こうなってしまった。哀れな話だ」

「しかし私とてお館様が亡くなれば」

「勝頼が死んだ時、泣いたか?」

「それは……」

「武田とてその程度の事ではどうとも思っとらんと言う事だ」


 その程度。本来の跡取り息子を失ったのに。

 その程度。信勝と言う代わりがいた事を加味しても。


「信雄と信孝と言う兄弟の評判を知っておるか」

「さほどは」

「信忠が頂点なのは良し、だがその次は自分であると絶対に譲らぬらしくてな、此度もどちらがより戦果を挙げられるか競っておったらしい」

「ではこれまで見なかったのは」

「単にまだ若すぎただけか、それとも信長自身が評価していなかったか……あるいはわしに森長可とやらの役目をやらせようとしたか」

「やはり魔王ですな」

「いい加減にしろ」


 信玄の矛先が急に自分に向いた物だから昌幸は一瞬びくついたが、それでも真顔のまま信玄の方向をゆっくりと向いた。


「戦には妥協点がある。信忠を殺せばいよいよ決着は付かなくなる。だがその二人ならばまだ何とでもなる。先ほど勝頼が死んでどれほど動揺したと言った?お前はついさっき言った事を忘れたのか?」

「魔王とも言え我が子です、大した理由もなく!」

「だからそれが三男坊だと言うのだ」



 三男坊と言う言葉でこっちの甘えを戒めようとしているのは昌幸にはわかった。だが、その次の、考えられてしまうはずの答えが口から出て来ない。



「………………」

「わしが死んだとして武田はどの程度困る?」

「そんな……!」

「もう信勝に代替わりして一年半経っている。その間何か問題でもあったか?ございましたとは言わせんぞ」

「しかし!」

「くどいな。高坂がまだいるし、馬場も内藤も簡単には死なん。山県もわしが救う。その四人が信じられぬと」


 何が言いたいのか、わかる。


 わかってしまう。


「それは……!」

「織田信長がおる限り、怖くてたまらぬのじゃろう?」

「しかし信忠もかなりの!」

「信忠は魔王ではない。少なくとも信長のような事はしていない」

「本願寺では」

「あれの主犯が秀吉であり、本願寺の自滅である事をもう我々でさえも知っている。織田信忠はまだ清い。勝長を通して話も付く」



 信忠は許せても、信長は許せない。


 それが、織田に抗する者の認識。



「あの旗を見よ」



 その男が率いる軍勢である事を示す旗がたなびく。


 雨の中でも目立つその旗は木瓜紋でもなければ、平氏の正当性を示すような赤旗でもない。




 黄色地に、真ん中に四角の穴が開いた模様が描かれている旗。




「まさか」

「似ているであろう、少し」

「似て、いる……」

「二本並んでいるのがなおよい」


 他ならぬ、永楽銭。

 この枚数の多寡で経済力が決まる、石高とは違う基準。


 それが、縦に三枚並んでいる。


「二三が六……」

「ちょっと!」

「これからは銭の時代になるかもしれぬと信長は言いたいのであろう、我々とて金山に縋って来たのだから大きなことも言えぬ」

「織田信長がそこまで考えているのかは知らぬ。だが考えているのならばこっちも乗ってやらねばならぬ。

 織田にとって恐ろしき甲斐の虎、いや餓虎がいなくなるのだからな」







 —————昌幸たちが信長を恐れるように、織田も信玄を恐れている。


 この戦でどっちかだけ生き残ってしまえば、負けた方は勝った方を全力で潰しにかかる。

 そうなればどっちも得をしない。




「そなたが許し、信勝が許しても、兵たちは許さぬ」

「そうですか……」

「なれば、この辺りでやらねばならんのだよ」

「どっちもこのままと言う訳には」

「それができれば苦労はせぬ。我々の功罪は共に消えようがない。死ぬまで、いや死んでも消える事はない。だが死ねば罪も功も重ねようがない」




 結局、すべては兵のおかげ。


 兵の力。


 兵と言うか、民が言う事を聞かねばならない。




「やって見せねばならぬのだよ。わしはな」

「では……!」

「今生の別れだ」




 信玄の顔には、いつものふざけた調子はなかった。


 坊主ではなく、侍の顔をしていた。


「徳川を屠った時のような顔ができるのであれば、お前はもう大丈夫だ」

「はい……」

「赤き手を そうにて誇る 武士の みよの先には 妙なるかちを」







 信玄の辞世の句を受け取った昌幸は、もう何も言えなかった。




(あの世で、なるべく老けてお会いいたします……!)




 昌幸が目一杯の思いを込めて別れの挨拶をし終える間もなく、信玄は昌幸の視界から消えた。

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