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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第十二章 十五年ぶりの
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織田信長の諦観

 信長は東海道を進んでいた。

 雨が陣笠を襲い、音を立てる。


 そんな中でも信長は決して強引な速度ではなく、着実に進む。


「上様…」

「この信長に鍛えられたそなたらを軽んずる気はない。だが結局武田はそこまでたわけではない」


 織田軍がこれまで見せて来た快速を発揮する気はない。それが有効なのはあくまでもその事を知らない相手か通用する相手にだけであり、いくら地元と言えど武田と言うどっちでもない存在を襲うのは自殺行為だ。


「ですが先ほどから」

「信康め……結局は果実に飛びついてしまったか……三七もまたしかりやもしれぬ。余は甘いと思うか」

「わかりませぬ。その事がわからぬならば我が子及び我が娘婿ではないとも言えます」

「成功すれば勇敢、失敗すれば野蛮。それだけの事だがな」


 信長だって桶狭間で死んでいれば、ただのうつけで終わっていた。成功したからこうして君臨している訳であり、信長自身自分と信康の差はそれほど大きいとは思っていない。

「三七は無論、信康にもまだ機会はあった。信玄は三河に執着などしていない、しているのは徳川の脅威を奪うことだ。村上義清とその子の山浦国清を信玄は追及したか?」

 樋口与七らから村上親子の事は聞いている。だがかつて信濃の豪族で信玄に領国を追われ越後に亡命、故郷に帰れぬまま亡くなった父親とその息子で上杉の一族となった国清は信玄にとって謙信との対決を誘発した因縁深き相手だが、勝手に病死した義清はともかく国清に対しても信玄が特に何かをしたと言う話を聞かない。

「聞きませんが」

「信玄は甲州と言う山地で暮らし、旧態依然を好む。小さな山地にて館に住み、そこから動こうとしない。そんな人間が考える理想は、結局平穏無事にたどり着く。それが、織田との決定的な違いだ。ただしそこに優劣はない」


 先ほどから相槌を打っていた堀久太郎は山国の美濃出身だが、蒲生氏郷や森長可と並んで次代の織田を担う存在としてその空気に浸っていた。


「尾張と言うのは甲斐よりおそらくずっと肥沃だ。だがそれゆえにその領国は万人から狙われ続ける。ゆえに余は進むより他になかった」

「ではもし甲斐に生まれていたら」

「信玄のようになっていたかもしれぬし、なっていなかったかもしれぬ。武田のように守るために戦い、その結果全てを得ていたかもしれぬ」

「守るため……」

「我が色に染まった人間には武田を破るのは難しいかもしれぬ……

 筑前はおそらく、このまま逃げ切られるだろう。あ奴には武田は理解できないし、その必要もない。もっとも、敗北もないが」

 秀吉は柔であってもまったく弱ではない、ただその柔らかさゆえにあまりにも剛直な盾を破壊しきれない。もっとも盾は盾であって矛ではないから、相手の命は奪えない。秀吉はおそらく、その盾が矛に変わった瞬間に壊しに行くだろう。あるいは今もその時を待っているかもしれない。馬場信房が、それを許すとは思えないが。

「次に奇妙だ。あいつはまだ若い。若いから武田の主張も理解できる。理解できるから対応もできる。そして、その術がない事もわかる」

「なんと……!」

「武田が弱るのにはあと三十年はかかる。武田信勝はもはや、第二の信玄以上の存在だ。信勝がすぐさま死なない限り、武田は安泰だ。滅びの時があるとすればそれは信勝の子の出来が悪かった時だ」

「では信勝の子の出来が良ければ!」

「永遠に来ぬかもしれぬ」


 実にらしからぬ弱音だったが、説得力が不思議なほどにあった。


 秀吉にも信忠にも武田を潰す事ができないと言う、ある種の敗北宣言。


「ではなぜこうして」

「越前ならできるからだ。越前は武田に最も近き古武士であり、武田を強引にでも叩き割れる。ただし、実際にできるとは限らんが、さらにそれを実行してしまいそうだが」


 しかし、柴田勝家ならばできる。

 良くも悪くも武を振るってこそ将だと言う誰よりも単純明快な思考の持ち主ゆえに、愚直に盾を破壊しに行ける。ただ、成功するにはあまりにも困難な条件であり信長でさえも実行する気にならないだけだ。


「たどり着きました!」

「よし、柴田軍を守れ。決して無理をするな」


 そんな良くも悪くも馬鹿な家臣を、主として守る。


 信長の選択は、それだった。




「おお上様!」

「権六、敵を強引に破ろうとするな。目の前の敵を殲滅すればそれでよし」


 そんな中で追いついた家臣に対し、信長は早速命を下す。

「ちょっと!」

 その弱きとも取れる命に勝家より先に佐久間盛政が反応した。


 だが信長が見た所、柴田軍は敵軍をかなり攻めあぐねている。決して押されている訳ではないが、前進できる状態ではない。

「無理をすればこちらの打撃の方が大きい」

「しかしこのままでは!」

「この戦はもう目前の敵を殲滅すれば勝利だと言っている。信玄とて手足をもがれれば動けなくもなろう」

「ですが…………」

 敵を見失いかかっている盛政は信長にさらに食いつこうとするが、その眼光で次の単語を失ってしまった。

「ですが信玄を討たねば!」

「権六。余が何年そなたの主人をやっていると思っている?その声色はお前の声色ではないだろう」

 甥の言葉を引き取るように勝家が続くが、信長は眼光だけそのままで口調を柔らかくして語りかけた。信長だって勝家の声色をいちいち覚えている訳ではないが、性格はわかっていた。

「そなたの武は他者のための武。誰かどうしても望みを叶えてやりたい人間のためにやっているのであろう?」

「それはお館様の!」

「違うな。もはやわかっているのだろう。この忙中閑ありの中に届く、より大きな声で」

「大きな声……」



「そんな殺生な!」



 大きな声と言う単語に勝家が一時停止した所に、雨にも負けず耳朶を打つ、あまりにも悲しき声が鳴り響いた。負けてもいないのに負けたかのような声が上がり、直ぐなる髷が信長の視界に入り込む。


 その上には間違いなく、葵の御紋があった。


「大久保……」

「もはや信康様はこの世におらぬのです!なのにおめおめと生きていよなど」

「そなたの息子はどうした」

「ここにおります!どうか!」

「ならぬ」



 泥に顔を埋めそうになる大久保親子を前にして、信長の返答はあまりにも冷たい。



「残念ながら信康はもう助からん。おそらくはその信康を救いに行った三七も。そして両名と共に向かった者たちも…………」

「ならば!」

「ならぬ!そなたらがいれば、まだ徳川は生きられる!武田を討つ事が家是ではない、生き延びる事こそ家是なのだ!徳川の跡目である家次を守り、そのお家を受け継ぐ事こそ今なすべき事!それを為さずに何が忠臣だ!」




 信長の戒めの声が、戦場の三五〇度を覆う。


 信長は、信康はおろか本多忠勝の死さえ知らなかった。だがそれでもこれ以上の徳川の行為がただの妄執でしかない事はわかっている。おそらく、この大久保忠世親子が死んだら本当に徳川の重臣は全滅、と言うか根絶。徳川家次と言う少年一人しか残っていない徳川家など、一体何が守れるのか。守る意味があるのか。

 それにそもそもの問題として、この戦の根源は「武田に難癖を付けられた徳川家を守る」ためであって「家康の仇討ち」ではない。築山殿の死についても何もそこまでと言うのが本音であり、団結と言うより暴走と思っていた。




「…………あの」

「わかっておる。権六よ、忠政は」

「後方に控えております」

「忠政に申せ。実父を守れとな」


 そんな最後の機会を与えたはずの演説が耳に入らなかった残り一〇度の中にいた人間たちは、既に甲陽菱の旗の下へと走って行ってしまった。

 二人が自分を見切ったのと同じように、自分もまた二人以下徳川の全てを見切った事など知る由もないだろうままに。


「胸が痛みまする」

「彼らとて少しは役に立とう。今はとにかく敵、山県昌景めを殲滅する」

「はっ……」


 ため息を吐く権六に満足感と安堵を覚えながら、信長は自分が持ち込んで来た手勢を柴田軍に食い込ませて行った。

「来たぞ!」

 とにかく積極的ではないにせよ援軍の到来に利家は歓声を上げ、柴田軍の士気は確実に上がった。

 これでようやくしぶとい山県軍も音を上げるだろうと言う期待が、兵たちを動かす。


 もっとも、兵たちほど信長や勝家は期待していない。

 前田利家も顔と口だけでは好機だと吠えていたが、内心では冷めていた。




「山県軍に援軍!」

「武田本隊です!」




 敵もまた、同じ手を打って来たのだから。

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