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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第二章 浅井長政の答え
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徳川家次の誕生

 三河の岡崎城と言うのは、元よりさして大きな城でもない。



 そんな小城にやって来た大物を前にして、信康はどうにも落ち着けなかった。



「此度の不始末、どう詫びても詫び切れる気がせん…………」




 ましてやその大物が、ほとんど責任もないはずなのにこうもかしこまっていては。




「面をお上げください、義兄上」

「はい…………」


 織田奇妙丸、いやつい昨日元服して織田信忠となった織田の二代目に向かって、徳川の二代目—————いや当代の当主徳川信康も頭を下げ返す。


 信忠十六歳、信康十四歳。まさに時代を担う若者たちである。


 本来なら自由闊達な空気が流れていてしかるべきなのに、あまりにも重苦しい。


「義父上は」

「三河殿を守り切れなんだ事、大層悔やんでおりました」

「ありがたきお言葉です……されど武田があそこまで苛烈とは思わなんだと言うのが現実でありまして」

「それは我が父も同じ旨申しておりました」


 その場にいなかった信康であったが、家康直属軍の生き残りや酒井らから苛烈な信玄の攻めを聞いていた。

「父を殺すために将たちを抑え込み、浜松城へと逃げ込んだ父に向かって逃げ道をやらずに攻撃を行い、そして残る者をほぼ皆殺しにした……」

「逃げ切れたのは大久保彦左衛門のように命を受けたものを除けば数百、残る兵たちはそれこそ根切りとでも言うべき殺されぶりで……ああ殺しもしたのですが」


 徳川家康と言う存在を殺すために仕掛けられた策。

 二万五千の兵を分け、全ての徳川軍の兵を封じ込め、自ら家康軍本隊に攻撃。さらに浜松城へと逃げ込んだ兵たちを自らの犠牲も顧みず根絶やしにさせた。


「しかし、それで武田はこの後戦えるのですか」


 だが信忠はどうしても、その感想が頭に浮かんでしまう。

 信長も、羽柴秀吉も、明智光秀も同じ気持ちだった。

「確かに武田は弱っているかもしれませぬ。しかしこちらにもその弱っている武田を攻撃する術はございませぬ」

「上杉は」

「北条が武田と手を組み直し上野に攻撃をかけているという報もあり……信州への攻撃はとても」

 信忠は生まれこそ桶狭間の三年前だがそれからは右肩上がりの織田家の御曹司として教育を受けて来たから、どうしても常識的な発想が先に立つ。信長もまた破天荒そうに見えて良くも悪くも効率主義的であり、信玄の強引な攻勢は理解の外だった。


「三河殿の無念を晴らしましょう。信玄の行いを短慮にしましょう」

「ありがたきお言葉!」

 理屈としては莫大な損害を払ってでも徳川家康を殺したかった、にしかならない。

 家康に失礼だとわかっていても、その損害がいかに過剰であったか思い知らせる。それが信忠の誓いだった。




「にしても……」


 信康と別れ上座から見える人間たちの目は、皆一様に赤くなっていた。

 信忠と言うそれなりに上座に慣れた人間でさえも、ここまで赤い目をした人間が並んだ光景を見た事はない。


「皆々様、どうかこの織田奇妙丸が不始末を重ねてお詫び申し上げる……」


 自分なりに再び謝意を示す誠実な青年に、徳川の将たちも頭を下げた。


 酒井忠次、本多忠勝、大久保忠世・忠佐兄弟、石川数正の子石川康長、大須賀忠正、そして新米の榊原康政。

 皆一様に無念の涙を流し、その上で闘志を欠片も失っていない。


「貴殿らが三河殿の遺した家臣か……まったく、実にうらやましい」

「そのような過分なお言葉など」

 その上で声が高く、何事にもひるむ様子がない。信長の会議は確かに引き締まっているが同時に緩さもあり、割と好き放題に物を言える雰囲気があった。信長が腹案を持っている上で明暗を探す求める事に貪欲であったからこそだが、徳川の場合はきっちりとした上意下達組織であるという印象を信忠は受けた。

 もっとも、それが三河武士と言う存在らしい習性であった事を信忠は知らない。家康自身は指導力の弱さがあったとは言え比較的部下の話を聞く方で、そうして聞き終わるまではじっと待つ人間だった。


「とにかく、武田がどうなっているかです」

「これはすでにご存じかと思いますが、岩村城が武田に奪われました」

「ええ……」


 信玄が浜松方面以外で唯一動かしていたのが美濃の岩村だった。もちろん信長は救援に向かおうとしたが、武田軍の秋山信友の前にあっという間に城は陥落。

 堅城であった岩村城にも浜松でされたような強引な攻撃が行われ、千近い犠牲者を出しながら一昼夜で城は陥落。現在は武田方に渡っている。

「御坊丸は」

「岩村城におられるとも、武田領内におられるとも聞いております」

 その岩村城の城主であった遠山家には信忠の弟の御坊丸がいた。城主として半ば強引に押し込まれた存在はあるが紛れもない信長の子であり、人質としては悪くない。


「武田は遠江でどうしている」

「現状は三河との国境まで迫ろうとしております。浜松は堅城であり中心ですが、その浜松やその北の秋葉街道での戦いもあり住民は武田になついておりません」

「しかし浜松が落ちたとなると」

「そうです、遠江には浜松以上の城はございません……ゆえに小城は揃いも揃って焼かれるか下るかの二者択一になっています」

 この場合の焼かれるは徳川自らの手によってという意味であり、渡してしまうぐらいなら焼いて更地にして逃げてしまった方がましだという意味である。実際そうして来た兵たちが三河に逃げ込んだ結果、徳川の兵力は戦前よりやや少ない程度の九千近くにまでなっていた。


「武田はしばらく民治に苦労するだろう。だがその隙を突けるかどうかで言うとどうだ」

「信玄は既に甲州に戻っており、遠州には勝頼がいるとの事。しかし……」

「しかし?」

「勝頼は遠州の民にあまり憎まれていないと言う報が多数入っているのです」

 大久保忠世の言葉に、信忠は目を剥いた。

 あそこまで残虐な行いをした存在に住民がなつくとすれば、前の主がよほど憎まれていたと言う展開しかない。さもなくば、そのまた前の主の治世がよほど好かれていたかのどっちかだ。

「勝頼は信玄の跡目だろう」

「信玄はどうやら勝頼の存在を徹底的に秘匿していたようです。二俣城攻撃さえも自らの手で行った事とし、勝頼は後ろに置かせていただけだったようです」

 姑息な手段だが、そうとなれば信玄は許せなくとも勝頼はとりあえず許せそうになってくる。しかも勝頼は浜松城以下あちこちに謝罪行脚と租税免除を繰り返しており、遠江の住民の感情を必死に和らげようとしているとも言う。


「なるほど、次の主の名前を売り込んでおこうと言うのか……ああ苦々しい!」

「若君様はそんな事などせずとも!」

「よせ。私は祖父の苦労を知らぬ、そしてその祖父もまた名前を次代に向けてとか考える前にこの世を去ってしまった。一つ学んだと思いたい」

 もうと言うほどでもないが信長は来年四十、信玄からしてみれば小僧だろうが信忠からしてみればあまりにも名前の大きな父親。その名を継ぐことは何よりも重く苦しい行いであり、また悪名も継ぐ事になる。信玄はその悪名を自分が全部背負い込んで、息子にきれいな所だけを渡してやろうと言うのだ。


「それで信玄の体の方は」

「甲州に帰還後は良くなったとも悪くなったとも入りません。湯治に向かいそこで疲れを癒しているとも聞きますが真偽はわかりません」


 信玄が元から健康不安を抱えている事は信忠も知っている。だからこそこの明らかに自分の死後を考えたような策を取っていると取れなくもない。

 でもだからと言って、時間稼ぎをするような策を取って果たして意味があるのか。仮に健康になっていたとしたら、それこそ武田信玄と言う存在との戦いはまだまだ続くと言う事になる。

「甲州忍びは言うまでもなく達人たちの集まり。情報を探るのも得意なら隠匿するのも得意だろう。ましてや影武者は武田のお家芸」

「申し訳ございませぬ……」


 その責任がどれだけあるかわからないのに必死に縮こまる徳川の将たちを前にして、信忠は改めて敵の大きさを知った。



 風林火山ならぬ風林火陰山雷、知りがたき事陰の如く、動くこと雷霆の如し。



 疾きこと風の如く、火の如く侵略した上に、雷の如く激しく叩き付けられた一撃により家康は砕け散り、そしてその後も知りがたき事陰の如く正体を見せようとしない。



「なるべく早く逝ってくれればいいのですが」

「そうも簡単には参りますまい……」


 信忠は期待に応えられない自分に嫌悪感を覚え深くため息を吐いた。

それもまたある種の若気の至りであり、信長の言う徳川家を守れと言う命令には含まれていない勝手な思い込みであるのだが、今の信忠にはどっちも同じだった。


「それで、北条なのですが」

「北条が駿河を経て遠江に入り、武田の治世を補助していると」

「それはございませんが、先に述べたように上野から上杉を攻め武田の足を引っ張らせまいとしているようで。さらに」

「さらに?」

「風魔が何かを信玄に手渡したと言う報が入っているのです。これは半蔵自らの情報です」


 服部半蔵—————正しく言えば服部半蔵正成こそ伊賀忍びの棟梁であり、秋葉街道の戦いにもその姿を足軽大将として見せていた男だった。

 実は大久保彦左衛門と家康の首級を回収したのも服部忍びであり、本人もまたその戦のあとすぐ責任を感じ甲州へと自ら潜入、信玄に関する情報を探っていた。


「半蔵殿自らとは、よくもあの甲斐忍びを相手に!素晴らしいお方だ!」

「織田様におほめいただき祝着でございますが、どうやら甲斐忍びではなく風魔からと」

「これは失礼。それで風魔は何を」

「そこまではわかっておりませんが、信玄の方針を変える何かであったことは間違いないかと」



 北条ではなく、風魔。わざわざ風魔と言うぐらいだから、おそらく普通のそれではない。



「まあいずれにせよ、北条と武田は本気で一体となり、そして我々に立ち向かう気でしょう。それがわかっただけでもいい時間でした」

「ありがたきお言葉……」

「それではこの後さっそく行いましょう。酒井小五郎、いや徳川小五郎殿にここに参っていただきましょう」


 北条が本気で武田と、それこそ心中覚悟で何かをした。

もはやかつてのように関係がほどける事はないのではないか。

 なれば、同じようにするまで。


 その事を確認した信忠は、酒井小五郎を呼ばせた。




 義父となる青年、徳川信康の後ろに続く堂々たる面相をした少年。




「伯父上」

「そうですね、そう呼んでください、これからは」




 こうして酒井小五郎改め徳川家次は血統的には甥である信康の養子となった。




 これにより、徳川の次々代の実父である酒井忠次の権力は、一挙に増大する事となったのである。

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[一言] まだ榊原さんは新米なのか。 作者様榊原好きだから何れかの活躍はされるだろうが。
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