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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第十二章 十五年ぶりの
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徳川信康の死

「三介はもう……死んでいた?」



 織田信雄の死。



 それこそ信孝にとっては宿敵を亡くしたような喪失感に包まれたそれだった。


 あれほど憎んで来たのに、勝ちたいと思ったのに。


「ふざけるなあ!」


 信孝は無理矢理に気合を入れ直して吠える。その気合に任せて得物を振り回し、手当たり次第に人を殺しにかかる。


 討つのではなく、殺しにかかる。


 それが何をもたらすか。


「ああああ…!」

「ちょっと!何を!」

「うるさい!信玄を殺しに行くかここで死ぬかどっちか選べ!」

 文字通りの、無差別殺人。武田の兵だけならともかく織田や徳川の兵にまでむやみやたらに斬りかかり、当たる物全てを壊さんばかりに武器を振るう。

 そんな戦いぶりだから武田勢のみならず味方まで離れ出してしまい、あっという間に孤立無援になってしまった。


「どけどけどけ!」


 実際にどいて行く武田軍の兵士を見た信孝はなおさら気を良くし突っ込みをかけるが、彼らは別におびえていた訳ではない。

「どかぬのかぁ!」

 ひとりの動かない兵を馬で蹴飛ばそうとした信孝に対し、兵は全く動くことなく冷静に槍を突き出す。


 結果としてその兵は蹴飛ばされて転がされたが装甲と泥だらけの地面のせいで打撃は最小限であり、槍を信孝の馬に突き刺した。当然馬は痛さに悶え、その身を激しくよじる。

「うわ、何を!」

 その反動で振られた武器はあまりにも未熟な刃であり、武田の熟練の兵に当てることはとてもできなかった。

 そして武田軍はそれを見逃すような軍勢ではなく、あっという間に信孝は血まみれになる。

「このぉぉ!」

 必死に手綱を握って落馬しないようにしながらもう一撃放つが、次に飛んで来た槍たちを避ける事はできなかった。


「こんな、所で、くそ……俺は、信雄、に……か……」



 その言葉を最後に、落馬する事なく織田信孝は信雄の下へと向かった。


 そしてそのことを確認した上で、武田軍は誰も信孝の首を取りに行かなかった。

 深い意味はない。単にまだ信孝軍や徳川軍が残っていたからだ。


 だが見方を変えれば信孝様を何だと思っている、首を取る価値もないのかと怒り狂うこともできる。

 だと言うのに

「おのれ信孝様の無念を!」

 とか言うような殊勝な言葉を叫ぶ兵は一人もおらず、皆どこか呆けた顔になってしまっていた。当然手足はまともに動かず、たちまち次々と主様のお供を務める。


 信孝側ではない兵たちも次々と無気力状態に陥り、信康軍の援軍はますます減って行く。

「何しに来たのだ」

 武田軍の嘲弄に言い返すような人間は皆無であり、二千だった兵士はあっという間に消えて行く。元から落とし穴で半数近くになっていたのに、残る千人もまた消えて行った。逃げる事すらできないまま、ただのかかしのように死んだ。




 そんな援軍もどきたちの存在は当然ながら徳川軍のやる気をそぎ、絶望を色濃くする。

「大久保も酒井も、榊原も死んだ!もはや徳川に将なし!さっさと刃を捨てろ!」

「ふざけるなぁぁ!」

 徳川軍の悲痛な叫びも甲高くなり、迫力がなくなって行く。武田の兵たちはそんな恵まれない哀れな人間に愛の手を差し伸べる事もなく、ただ殺す。いやある意味では愛の手と言えなくもないが、こんな愛を受け取る土壌のある人間などもうどこにも残っていない。

 皆、逃げもせずにぶつかりに、と言うか死にに来る。

 万に一つ、いや兆に一つの可能性に賭けてその身をぶつける。


 もちろん成功例はない。


「逃げる事もしないのか」

「信玄を殺したら逃げるわ!」

 叶わぬ夢を追い、血まみれのはずがずぶ濡れになって死んで行く。後ろを向いて死ぬ兵は一人もいない。

「草一本でもあれば不毛の大地もやがて緑に染まる……」

「何のつもりだぁ!」

「逃げればいいのだ、こんな状況で逃げても誰も非難などしない」

 本来なら恐れ入ってしかるべきはずなのに、信玄はまったく動じる節がない。

「わしがわしを非難する!」

「自己満足じゃな」

 信康は全身を濡らしながらも吠えるが、すぐさま信玄に返される。


「喜兵衛。徳川にここで滅ぶ理由はあるか?」

「別にございませぬが……」

「いかにも。三河の民も、守れぬと知れば恨みはせぬ。ただ嘆くだけで済む。わしが逝き、やがて武田の力衰えればいずれは故郷にも帰れよう。それまでは歯を食い縛り耐える事もまた戦の心得」

「餓える者に食を与えるのは仁、満腹なる者に食を与えるは愚、食を拒む者に食を与えるは至愚……」


 昌幸が唱えたこの言葉は、信玄のそれの受け売りだった。

 それでも結局最初から耳に入れる気のない人間のそれに何を言っても無駄でしかないと言う話を今の信康にできる程度には、昌幸も狡猾だった。

「人を踏み台にするか!」

「兵は戦を経て強くなる。だが生き残るとは限らないゆえに、強くなる前に死ぬ人間は山といる。だから、それゆえにわしは家康を殺した。やらなければやられるのがこの時代だからな」

 同じ将に配属されて同じ戦場にいる限り、条件は平等である。実際、この時圧倒的有利だったはずの武田信玄軍にも死者は出ていた。彼らと生存者の違いは、たまたま徳川の将の近くにいたか、たまたま立ち向かった敵が強かったか、たまたま本人が兵として優秀ではなかったかと言うことぐらいしかない。


「なればわしの手でお前を!」


 信康の刃が輝きを増し、信玄に突き付けられる。

 もっとも突き付けただけで敵をどうこうできる訳もなく、親衛隊の前に次々と押されて行く。

 信玄の姿は消え去り、風林火山の旗ばかりが視界を覆う。

「この中の一人で良い!信玄の下へ向かえ!」

「そういうのを悪あがきと言う!」


 信康の幾度目かわからぬ檄も武田軍と雨に消され、また一人徳川軍が死ぬ。


 すでに本多忠勝が討たれ、大久保忠佐が落とし穴により落下死、酒井忠次と榊原康政も討ち死に。

「父の無念を晴らす!」

 さらにそう吠えながら信康の側で四人ほど斬っていた男もまた、誰の息子か探求される事もなく死んだ。

「康長!」

「ああそう言えば確か馬場様が討ったあの石川の」

 信康の声でようやく、秋葉街道の戦いで家康に先駆けて亡くなった石川数正の嫡男康長であった事がわかる。


 もう、それぐらい武田にとってはどうでもいい事だった。

 初めて武田に殺された大物の家臣なのに。


「何だ……と……」


 その扱いの軽さが、信康の気力を削ぐ。

 刃は軽くなり、三重の装甲を破れない。



「答えろ信玄!なぜだ、なぜここまでして!」



 ついに涙声になる。


 父の自害を聞いた時以来の、本当の泣き声。


 豪雨に負ける事のない涙があふれ出し、桶狭間を覆う。


「くどいな。わしが見た所、わしが家康を殺さねば武田が家康に殺されるからだと言っておろう。ちなみにわしの見立てだと十年後、いや七年後だな」

「それだけか!」

「それが全てよ。もっと他に理由が必要か」


 単純明快と言うより、単純素朴。

 一体それの何が悪いのかと純粋な疑問を抱く五十と五歳児の素朴な疑問。


「そんな……!」


 四捨五入すれば還暦の童子の素朴な疑問に、二十歳にもならない大人の信康は言葉をすべて失った。


「戦と言うのは本来血生臭い物だ。その血生臭さをどう飾るか、それが武士道であり兵法と言う物だ。大義名分は大義名分でしかなく、戦に勝敗はあっても強弱は薄く、善悪は存在しない」

「これが、これが……!」

「羽柴とやらが将軍様を降伏させたときどう思った?」

「羽柴、筑前殿は、素晴らしいと……」

「ならばもういいな」


 奇跡的にも無傷だった信康に、十本の槍が襲い掛かる。引き続き無傷であったが、兵の数は減って行く。

 盾が消え、矛は鈍り、弱点はむき出しになる。




 ————————————————————そして。




「本多平八郎殿に続き、その首頂く!」


 むき出しの心の臓に向けて、一本の槍が飛ぶ、


「お前は」

「それがしは井伊直信!遠江から来た武田の小姓!」

「井伊……」


 遠江の豪族、井伊家。

 本来なら、自分の家臣であったはずの存在。


「そなた、まさか……」

「本多平八郎殿の無念を晴らしたくば来い!」

「………………行ってやる!」


 信康は自分なりに、精一杯得物を振るった。




 だがこの大雨の中で、心身ともに耗弱していた信康の刃は、勢いに乗る直信のそれにはとてもかなわなかった。




「な……」




 本人にしてみれば渾身の一振りが真横にいる間に、直信の槍は信康の胸を突き抜けていた。


「運命が違えばあなたに仕えていたかもしれませぬ」

「そうか……」

「あの世でまた会いましょう」


 信康は大の字に、仰向けに倒れ込んだ。


 そして辞世の句を呟く事もなく、義父の栄光の始まりの地に一期を終えた。


 その信康の死と共に残っていた兵たちも次々と首に得物を当て、信康に同道した。







「もったいない事だ。その命、まだまだ使えたろうに……」

「降伏などしなかったと思いますが」

「何を言うか。まだ徳川には一人だけ残っておる。あきらめるにもまだ早いと言いたいだけよ、なあ喜兵衛」

「我々はこれからその最後の炎を消しに行くと」

「そうだな」


 信玄と、昌幸と、直信。


 三人の男たちは徳川の当主に向けて頭を下げながら、さらなる先へ向けて動き出した。

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― 新着の感想 ―
[一言] 信玄の目的は最初から織田じゃなくて徳川の滅亡だったってことか・・・
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