酒井忠次の最期
「猪武者もここまで来るとすがすがしいな……」
信玄の嘲笑を浴びせかけられた徳川信康は、屈辱に震えていた。
ただでさえ濡れ鼠なのに涙があふれ、甲冑は既に濡れていた。
「貴様、あれは……!」
「確認ぐらいできると思ったがな。わしに御坊丸がいた事も忘れたのか。
まあそれに、本多平八郎は既に家康の下へ向かったがね」
もがれた本多平八郎の首が掲げられる。
「しかし誰も徳川の本陣に戻って来ないとは……徳川の信頼もその程度と言う事か」
落とし穴から抜け出したのは、本多平八郎だけではない。
千名の本多軍はことごとくその餌食になり、およそ四分の一が後続の軍勢により圧死。
残る兵の内二百人ほどは武田軍の矢により撃ち殺され、忠勝のように穴から抜け出した百名ほどの兵は一人残らず斬り殺され、残っていた兵はたった今「徳川軍の手により」死んだ。
西側へ逃げ出した兵は、ほとんどいない。その結果が、これだった。
「一将功なりて万骨枯る……いい勉強になったであろう」
「……黙れ……」
信玄の度重なるおちょくりに、もはや信康は正体を失っていた。
「お?」
「この徳川信康、母をも手にかけた……そなたを討つために……」
「ほーう」
「貴様を殺せねば徳川に存在意義はない……」
既に据わっていた目が余計に据わり眼光だけで信玄を殺しにかかった。
「武士は民を守るためにいる。わしが死のうが生きようが徳川は三河の民のためにあると言うだけではないのかね」
「うるさい……三河の民すべてが、父上を奪った貴様を憎んでいる。上は老婆から下は赤子まで、皆貴様の喉笛を食いちぎる事を夢見て生きている……!」
「沈黙が金なるは、雄弁から紡ぎ出される正体が見えてしまうからだ。鬼が出るか蛇が出るかと身構えておれば、鬼が出ようが蛇が出ようがどうとでもなる」
「ほざくなぁ!」
「おっと、落ち着け。足許を見ないと痛い目に遭うぞ」
信康の眼前の落とし穴には、すでに二千五百以上の死傷者が積み重なっている。
名のあるはずだった将も転落からの圧死や負傷で戦闘能力を失い、大穴の中で横たわっている。人間だけでなく馬の死体も転がり、苦しそうな顔をしていた。
「兄上たちをよくもこんな……!」
「おやおや、先陣はあの大久保の一族だったとは、何とも災難であり僥倖でもある」
「こんな……!」
一人の男が信康の前で死体を踏み付け強引に進もうとするが、すぐさま体の平衡を失い倒れそうになる。
「仲間たちの遺体を踏み付けにするのかね」
「黙れ!この場にて他の全ての兵が死すれども、最後に生きているのが信康様であればよし!」
「凄んだ所で何が変わるのかね」
「彦左衛門!脇から進むより他ない!ゆっくりと穴の両端に回るぞ!」
結局これしかなすべき手のない事を理解した信康たちは左右に軍を分けたが、その数は両者合わせても二千五百しかいない。
「撃て」
そんな小軍に向けて、信玄は容赦なく射撃を命ずる。止まない大雨の中で飛ぶ矢の勢いはなかったが、それでも確実に命中はする。落とし穴から離れている間にも新たな死傷者が生まれ、さらに穴から出てこようとした兵も倒されて将棋倒しのようになる。
「まだだ!まだ耐えるのだ!」
酒井忠次は歯を食い縛りながら軍を迂回させるが、そのたびにまた犠牲が増える。
雨とも血とも違う液体で将兵の顔が濡れる。
「今だ!」
そして数分かけて落とし穴の左右まで移動しきった徳川軍は、ついに最後の戦いに挑んだ。
「喜兵衛、死ぬなよ」
「無論でございます!」
信玄もまた、来たかとばかりに徳川軍に立ち向かう。
「全ての、全ての無念を晴らしてやる!」
「ここまで来て負ける奴がいるか!」
徳川軍は文字通り捨て身の勢いで突っ込むが、武田軍はあくまでも冷静だった。
防備を厚く固め、決して殺そうとしない。
殺さない代わりに死のうとせず、確実に攻撃を受け止める。
「あぐっ……!」
言うまでもなく装甲は二枚、いや三枚であり、機動性を捨てた代わりに接近戦の戦闘力はかなり高くなっていた。いつものように攻撃した徳川軍が次々と装甲を突き破れぬまま逆に討たれ、数を減らして行く。
「敵はかなり装甲を厚くしている模様!」
「うるさい!信玄を狙え!」
そう吠えられた所で対策があるでもなく、忠次をして他に何も言いようがなかった。
徳川軍にしてみれば信玄を殺す、他に何の目的もないのだ。
「お前たちは雑兵をやれ!我々で信玄に突っ込む!」
その計画通りの作戦を実行に移した所で、信玄の首は近づかない。機動性こそないが装甲の厚い軍勢は、大雨と泥沼で機動性の失われた環境にまったく適応していた。無論汗をかいて体温が低下する危険性もあったが、折り悪くと言うか折良くと言うかこの日は梅雨らしい生暖かい空気が立ち込め、温度の低下も最低限だった。
「ああもう!」
信康の側にいた榊原康政は馬上から薙刀を振り下ろし首を斬ろうとするが、槍で弾き返される。
それでもとばかりに二撃目を放ち敵の攻撃をも突っ切るが、手ごたえがない。
「ん…!?」
倒れたはずなのに、死んでいない。
「首にまで守りを施していたか……!」
親衛隊は三枚の装甲だけでなく、首にまで防備をしていた。もちろん頭には陣笠ではなく兜を被り、文字通りの完全防備である。足を全く捨てた動かざる事山の如しを具現化したような装備に、康政をして呆れるしかなかった。
言うまでもなく彼らは動こうとせず、じっと康政にへばりついて攻撃をかける。倒れたと思ったら馬の足を斬りに行き、康政をしてかわすのが一杯一杯になってしまう。
その間にまた一人、また一人と徳川の兵が減り、形勢はなおも傾く。
「信玄を出せ!」
「出さぬ」
どんなに吠えかかろうとも澄ました顔でこちらを受け止める武田軍。時間だけが無駄に経過し、その度に形勢が武田に傾く。
徳川に援軍など、ない。
柴田も羽柴も半数しかいないはずの武田の将に受け止められ、余計な兵を寄越す余裕はない。織田信忠は遠すぎて論外。
「やはり、自分たちで何とかするしか……!」
なればとばかりに、康政たちは改めて覚悟を決めにかかる。
「徳川殿!」
そこに飛び込む後方からの声援。
援軍か!
そう期待を抱いた康政は、次言うべき台詞を忘れてしまった。
いや、信康も忠次も。
「いざお助けに…………………!」
その結果、援軍のはずだった軍勢は、その大半が落とし穴の隙間を埋めるように墜落。瀕死だった徳川の将兵が死者になり、さらにその援軍自体も何もしないままかなりの死傷者を生んでしまった。
「ぐふっ」
その声が武田と徳川、両方から発生した。徳川の方は言うまでもなく戦死者のうめき声であり、武田の方は失笑だった。
あまりにも情けない援軍の到来により、上がるはずだった徳川軍の士気はむしろ低下。武田軍は余計に上がり、形勢はさらに傾く。
「ああもう!」
康政はもういいとばかりに刃を振るうが、信玄には全然近づけない。むしろ押されている状態で、一歩一歩本陣から遠ざかっている気さえして来る。
このまま信玄を討てぬまま死ぬのか。あるいはもしかして武田信廉ではないのか。
嫌な妄想が頭を駆け巡り、康政の心を惑わす。
そんな訳があるかと踏ん張ろうとしても、現実が裏切る。
頼りにならない援軍のせいで武田は図に乗り、徳川は崩れる。今から左右に回り込んだとしても間に合うのか否かわからない。
いや、間に合わなかった。
「酒井忠次は討ち取ったぞ!」
酒井忠次が、討たれた。
今更泣く気にもなれないが、それでもあまりにもあっけない別れに涙も出て来ない。
覚悟と言うより、空虚。実感も何もない。
だがそれからというものの、次々と名のある将の悲報が飛び込む。
この場にいない徳川の将は柴田軍救援に向かった大久保忠世・忠隣兄弟だけであり、後は文字通りの総動員だった。
それが二振りする間に一人消え、二人消える。
そんな悪夢のような時間が終わったのは、数分後だった。
「よくもまああんな手で……!」
先ほどと同じように落とし穴にはまって兵を失った軍勢の残党が、武田軍と接触し始めた。とにかく援軍が援軍であるから多少は武田の攻撃も和らぎ、反撃の時間も生まれる。
その間に一人でも多く風林火山の兵隊を殺したいが、その結果は振るわない。
誰かなどどうでもいい、とにかく目の前の敵を消さねばならない……。
「その揚羽蝶の旗は神戸か、神戸信孝か」
「いかにも神戸信孝である!徳川殿の無念を思い知れ!」
神戸信孝。織田信長の三男。悪い援軍ではない。
本人も必死に戦い、自分たちと同じく敵を討とうとしている。
「そうか、無駄な真似をする」
「ほざけ信玄坊主!わしこそこの戦最大の功績者じゃ!」
「やれやれ、信雄も寂しくなかろう。まもなく弟が来るのだからな」
「誰が弟だ……っ!」
だがその信孝の動きも、一瞬で止まってしまった。
「そう、信雄はもう死んだ。内藤がやってくれたらしいのう」
武田は後方から回り込んで、その情報を得ていた。
「何………」
信雄の死を知った信孝が急に真顔になり、刃から迫力が消え失せた。
そして援軍に二度目の失望をした康政もまた完全に力が抜けてしまい、五本の刃を身に受けて桶狭間の地に眠った。




