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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第十二章 十五年ぶりの
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織田信孝の消失

 ————————————————————さて、織田信長は一体どこにいたのか。




 結論から言えば、大高城である。




「空城同然だが……」

 その大高城に入った信長は、やけにがらんどうとしたその城に腰を落ち着ける間もなく東を向いていた。

「どうやら、徳川軍は……」

「うむ……」


 蒲生氏郷が深くため息を吐く前に、信長がらしくもなく視線を下げた。


 当初信長は、大高城より南に一里ほどの場所にいた。


 いわゆる総予備隊と言った立ち位置で、兵数としては一万二千である。

 もっとも鳴海城とは扇川をまたいでいるため、そこには行けそうにない。

「遠州様は……」

「信康め、余がもう少し教育しておればな……自分が矢なのか的なのか、それがわからねば全てを見失う」


 この戦はそもそも、「徳川家の家臣・本多忠勝の首級を寄越せ」と言う名目で始まっている。言うまでもなく暴論と言うか難癖だが、織田は無関係であると言えなくはない。織田が六万以上の大軍を引き連れているのは信康が信長の娘婿であり徳川の同盟相手だからなだけで、本来なら武田対徳川の戦である。


「この戦における武田の勝利は、信康を含む徳川一派の全滅だ。その事を余はきちんと言い聞かせたつもりだったのだが」

「岡崎に籠城して武田を迎え討ち、その間に織田の援軍を待つでは駄目だったのですか」

「それをやるとまた武田が防備を固めその間に岡崎を焼く……とな。まあ実際余もそれをやると思ったから桶狭間に誘い込む事としたが、まさか尾張まで来てそれをやるとは……まったく命知らずどもが」

 命知らずと言う言葉に込められた感情とその行き場は、察するにたやすい。

「この戦には何の意味が……」

「氏郷の言う通りだ。この戦にはもうさしたる意味はない。何なら今すぐ踵を返してもいいぐらいだ」


 相当な言い草だが、それを耳に入れて激昂する人間はいない。

 文字通りのがらんどうとなってしまった城内には、徳川の人間は文字通り残っていなかった。


「とは言え柴田様も羽柴様もあまりよろしからぬ戦況ゆえ、いずれかに援軍を送らねばならぬかと」

「だな。両名には決して信玄の首を追う事なかれと伝えてある。だが結果として信玄の寵臣たちを殺めるのは仕方がないともな」

「信玄の寵臣を斬り信玄が弱れば徳川はそれこそ調子に乗るのではないでしょうか」

「長可の弟の蘭丸、あれはなかなかの才智がある。五徳の息子にでも仕立て上げるか」

 平板な口調ゆえに、信長の感情が余計ににじみ出る。

 もはや、徳川などどうでもいい。まるで関係のない森蘭丸と言う十一歳の男児を押し込み、当主に据えるぐらいの価値しかない。


「奇妙にもあらかじめ申し述べておいた。逃げるは一時の恥であると。死に恥は雪ぎようがないが生き恥などいくらでも雪ぎようがある。上杉謙信さえも今ではいい物笑いの種だ」


 足利義昭の死と言う事象に溺れて前後を見失い、武田信玄の策にはまり己が命どころか数多の寵臣を殺した暴走男。


 そして跡目となった景勝もその謙信を受け継いでしまったせいで同じように陥穽に嵌り、上杉家を断絶させた若僧。


 その二人が恥を雪ぐ機会は、もう二度と巡って来ない。


「元上杉の兵たちが越中から亡命しお館様の軍勢に加わっておりますが……」

「武田への怨恨だけで集まったのだろう、臆面もなく比叡山を焼き本願寺を屠った軍勢に味方する程度には厚顔な連中など、もはや上杉でもあるまい。旗一枚あれば上杉だと言うのならば、余も上杉になれるな」

「越後は既に武田領でありそこから信玄が兵を募っていない訳でもないでしょうに」

「氏郷の言う通りよ……おそらく今頃は武田が作り上げた虚像の上杉軍と正面衝突して雲散霧消しているだろう。そして余にも奇妙にもそんな物を助ける義理はない」


 どこまでも言いたい放題だった信長に、温厚なはずの氏郷まで乗っかる。

 常日頃森長可に甘い甘いと言われている氏郷はそこにはおらず、長可の方がひるみそうだった。


「それでだ氏郷、筑前に言って来い。徳川を救う必要はないと。越前は割り切れるが筑前はできん」

「わかりました、敵将を一兵残らず皆殺しにせよと」

「うむ」


 氏郷は馬上の人となって駆け出して行った。




「父上……」


 そして氏郷がいなくなると、空気だった信孝が急に動き出した。

 まるで氏郷の席を乗っ取るかのように急に側にへばりつき、信長に向けて言葉を投げかける。

「何だ」

「私にも柴田に目の前の敵に専念せよと言う役目を下さいませ」

「フン……」

 こびへつらうような目ではないが、それでもあまり気持ちの良くない目線。その目線を感じ取った信長は、軽く鼻息を浴びせた。本来なら不愉快かもしれないはずの生暖かいその息は信孝の体を温め、さらに信孝の顔を赤くする。

「信孝。勝家は武士だ。武士は目の前の戦の勝ちのために己が身を的として戦う。

 だが秀吉は百姓だ。百姓であるゆえに一人でも多くの命を救いにかかる。農村で一人働き手が減れば口が一つ減るより打撃が重いからな。無論、元々が足軽だったと言うのもあるのだが」

「では柴田は徳川を切り捨てられると」

「切り捨てられる。利家も長政もできる。だが秀吉はできない。優劣とかではなく、個性としてできない。この場に連れ込んだのは信康に期待していたからこそであったが……実に残念だ」


 信康と言う名の義息子に対する冷淡な言葉に、信孝は言い返す言葉がなくなって来る。

 改めて、徳川を見捨てたと言う証明を突き付けられる。

「徳川はもはや救えぬと」

「ああ、救えぬ。すでに聞いたであろう、先ほどの大きな音と悲鳴を。あれは徳川の連中が陥穽に嵌った末路だ」

「どうしてその陥穽を」

「作るのを阻止できなかったと言うか?それは我々の落ち度であり、同時に武田の功名でもある。徳川の行動を読み切っていた、な。今の徳川にとって信玄は孫悟空の桃だ。

 そして、今のそなたにとってもな」


 孫悟空の桃に、耶蘇教徒の林檎。魅惑の果実は禁断の果実でもあり、その果実を手にした存在は楽園から追放されている。

「そなたも決して気を逸らせるな」

「はっ……」

「返事」

「はい……」

 不服そうな信孝をなだめ終わると、信長は城を出た。

「信孝はこの城を守れ。氏郷や秀吉の援軍となるようにな」

「父上はどちらへ」

「柴田の援護だ。あれには口より数の方がいい」

 信長は言いたい事だけを言い、持てる限りの兵を持って東海道へと向かった。




 残されたのは、「羽柴軍の援軍」としてあてがわれた二千。




 しかもその半数以上が神戸家の軍勢であり、正直全く強くない。




 そんなのが一万五千の援軍に行ったとして、何の意味があると言うのか。


「神戸様……」

「どうした」

 状況を把握してじっと棒立ちになっていた信孝に対し、神戸家の譜代の重臣が声をかける。

「このままでよろしいのですか」

「このままでとは何だ」

「三介様はお館様の下にあり、既に大功を立てているやもしれませぬ。もたついていてはお館様の寵愛は三介様に移る可能性がございますぞ」


 三介、いや三介信雄。聞くのも嫌になる名前。

 当初その兄が信忠付きと聞いて体を焦がしそうなほどに憎しみを覚え、自身が信長付きと聞いていくらかその炎も収まった。とは言え信忠軍が主力の一角なのに対し自分たちが援軍と言うか予備隊である事への不満は抜けず、信雄がどれほど活躍しているか思うだけで体温が上がった。


 実は神戸家の一族の譜代の家臣はほとんど信長により粛正されており、神戸家の譜代の重臣と言うのは信孝の側近と等号でしかない。


 さらに言えばこの時すでに信雄は鬼籍に入っており、比べようもない。大雨による扇川の氾濫が情報を遮断し、信孝の目を曇らせていた。


「こ、ここで危機に陥っている徳川を救えば兄上、いや三介に勝てるのか!」

「いかにも!」

 自分たちの側近に押され、信雄の死を知らぬままどんどんその気になって行く。

「だが父上は」

「父上とて功績を上げれば認めてくれるはず!さあ!」


 信孝は、あっという間にその気になってしまった。


「わかった、徳川殿は!」

「両街道の中間を行ったと!」

「よしわかった!行くぞ!」


 こうして信孝はまったくあっけなく役目を放棄し、徳川の援軍となってしまったのである。もっともこれは、信雄を見捨てていた信忠にも、信忠を信じ込んでいた信長にも責任はある。

 だが二人を責めるのは酷だろう。


 それ以上に責められるべきは、信玄であり、内藤昌豊であり、武藤信幸であり、織田勝長であり、誰よりも信孝なのだから。




※※※※※※※※※




 そして、そんな織田信孝が助けに向かったはずの徳川軍は




「こんな……」


 信康以下、多数の人間が大口を開けて雨の侵入を許していた。





「猪武者もここまで来るとすがすがしいな……」


 信玄は、笑った。


 嘲りながら、笑った。

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