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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第十二章 十五年ぶりの
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滝川一益と雨

 雨は何も、桶狭間山だけで降っていた訳ではない。



「雨だ!」


 鎌倉往還にいた織田勝長は信雄の遺体の回収は後回しだと言わんばかりに西に向かって走り出した。


「ちょっ…!」


 兵が制止しようとする中、後続からそれ以上の歓声が飛んで来た。


「今しかない!さあ進め!」


 勝長とほぼ同じぐらいの高さの声が響き渡る。

 その声と共に後方から人や馬の足音が鳴り響き、制止しようとした兵も付き従うしかなくなった。

 その間に信雄たちの遺体は無惨に踏まれていたが、顧みられたのは六千近い兵が通過した後だった。



「……」

 そして信雄はその時になり、ようやくなぜか無事だった首だけを武藤信幸の手によりもがれた。




※※※※※※※※※




「いったん下がれ、奇妙様の援軍を待て!」


(まずい……!)

 と言う言葉を飲み込みながら一益はあわてて鉄砲隊を引っ込め、槍兵を出した。

 その間に自分たちは後退し、信忠の援軍を仰ぐ。

「しかし」

「しかしも何もあるか!」

 一益の怒鳴り声と共に槍兵たちは前線に向かうが、その足取りは正直重い。

 別に一益に対する不満があった訳ではないのだろうが、それとは別に恐怖心も芽生えていたことを、一益は認めざるを得なかった。


(まさか最初からこの天気を待っていたのか……)

 そんな訳あるかと思ってはみたが、それでもその可能性が頭をかすめてしまう。

 実際、軍師と言うのは作戦を練るだけではなく、戦場の全体を把握する事も必要である。それは何も地形だけではなく、天候もまた戦場の一部だった。

 信長があの時そこまでしていたかはともかく、もし敵がこの天気まで読んでいたとすれば恐ろしい事である。


 火縄銃は、火縄に点火せねばならない。

 だから、雨で火縄が湿気ると使い物にならなくなる。

 もちろん雨を見てとっさに引っ込めたものの、それでも態勢を整え直すのは一からやり直しだし、さらに豪雨であるからうっかり濡れてしまった銃も少なくない。

 要するに武田は雨が降るまで待てばいいとなるが、だとしても尾張に突っ込んでおきながら少数で待機するなどとてもできない。

 ……予報と言うか予知していたとしか思えない、そんな馬鹿な!……と言う訳である。


「銃兵は銃を使えるようにしろ!わし自ら戦いに出る!」


 豪雨の中で一益は叫ぶ。自分が何とかして態勢を整えねば信忠の所まで行かれてしまう。鉄砲隊だけでない所を見せつけるには自分の手で何とかするしかない。

 そう思って前線に立とうとした時には、すでに紅葉菱の旗は眼前まで迫っていた。

「早い!早すぎます!」

 大雨の悪路だと言うのに突っ込んで来られる武田軍を受け止めるのは、一益には無理だった。街道を進む武田軍に対し態勢を整えきれないまま衝突してしまった滝川軍は次々とやられ、一気に犠牲者が増え出す。

「この程度ぉ!」

 一益は必死に大した事のないふりをするが、武田の兵の甲冑がどんどん赤くなって行く。

 内側からの血ではないのは、その兵たちが立っている時点ですぐわかる。

「ああああ!」

「行くぞぉ!」

 雨に負けじと一益も叫ぶが、武田軍の兵士もやり返す。戦場がより一層騒がしくなり、それに金属音や人間の皮膚を突き破る音が続く。

 その音が増えるたびに、戦線は西へと動く。


「内藤昌豊本人が来ているのか!」


 一益が叫んだように、すでに内藤昌豊本人も陣を出ていた。当然その打撃力は半端ではなく、先鋒の軍勢もそれに押されるどころか乗っかっている状態で滝川軍を押し潰しにかかる。

「昌豊本人を殺せば一気に勢いは止まるぞ!」

 苦し紛れにそう叫んだところで、流れは変わらない。

 雨に負けじと濁流の如く流れ込んで来る軍勢を前にして、文字通り踏ん張りが利かない。犠牲者も増えるが部隊そのものが次々と押し流され、一歩どころか三歩も四歩も後退して行く。


「どっちも条件は同じだ!」


 そして自分より先にその言葉を吐かれたせいで、武田軍の勢いがますます増大した。

 織田からすれば悪天候はどっちも同じだと言う意味だが、武田が言えばある種の挑発の言葉にもなる。

 その言葉を耳に入れた武田軍はますます勢いと言うか調子に乗り、滝川軍は怒りで頭を沸騰させようにも熱量が足りない。押されている状況もさることながら、良くも悪くも滝川軍は出来上がりすぎていた。

 さきほど早すぎると兵が言ったが、実際もう少し時間があれば滝川軍は隊伍を整えられていた。その程度には一益と部下は教育されており、先ほど恐怖心を覚えたとか言ってみたものの今更不利な状況に必要以上に動揺するほどやわではなかった。だがそれは感情も封じ込めてしまうと言う意味であり、激昂と言う形によって力を入れる事ができなくなっていた。

「この…!」

 一益ひとりが必死に歯を食い縛り気合を入れようにも、気力ではなく物理的に押されて行く。




「滝川!」

「殿!」




 そんな滝川軍の心を揺るがせられるのは、織田信忠しかいなかった。

 信忠自ら軍を率いて城を飛び出し、武田軍へと立ち向かう。

「織田信忠だ!」

 当然ながら武田も士気を高めるが、滝川軍も必死に気合を入れ直す。

 槍を突き、刀を振り、織田信忠を守ろうとする。

「こっちは返り血には慣れている!」

「返り血を浴びるのは我々だ!」

 戦いは武田優勢から、五分へと戻る。


 文字通り正面切っての殴り合いとなり、両者激しくぶつかる。


「敵に木瓜紋が見えます!」

「御坊丸か……今はただの敵味方だ!」


 信忠もまた、武士の子だった。


(今更こんな事で動揺する理由もない……!)


 御坊丸が武田の下に行ってすでに二年半、途中まで生存すら半ばあきらめていた。

 返還交渉をしなかったのは自分たちの落ち度であったとしても、その間に信勝と心を通わせていたのは予想外だった。

 兼山城東で自ら軍を率いて来た時の事は、前田利家から聞いていた。武田の将である事を自認するような、とても誇り高き指揮。


 岩村城を落とされてから一年あまりでどう変わったのか、自分にはわからない。

「織田の者よ!織田信雄を殺したのはこの織田御坊丸だ!」

「あんな奴は知らん」


 それに対し信忠は、わずかに感情を込めながらもあくまでも冷静を貫く。


 実際、信忠はもう信雄を見放していた。


「自分が勇ましく戦う事だけが大将の条件ではない!時には後方に構え兵たちの活躍を祈るのもまた将の条件だ!」

「それができねば弟でも切り捨てるか!」

「兵たちとの無理心中を図るような人間は将とは言わん!」

「将の話をしているのではない、兄弟の話をしている!」

「それは武田とて同じだろう!」


 勝長の必死の噛み付きに対し、信忠も声を荒げる。


 実際信長だって信行を始め数多の親類縁者を殺めて現在の地位を得たし、信玄については今さら言うまでもない。もちろん話題そらしと言われれば話題そらしだが、どちらにも浅ましさがなかった。


「信忠兄上!私はこうして武田の将としてここにいます!私自ら来たいと言ってここに来たのです!」

「そうか御坊丸!そんな事はもうわかっていたがな!」



 どちらも、手段としての罵詈雑言だった。


 正々堂々とした手段ではないが、勝てるならばそれで良い。自分たちなりに割り切った行いのぶつけ合い。

 そこには、信雄のような自己満足はなかった。

「そう言えば御坊丸!武田信勝はどうした!」

「こんな戦に関わる必要もございませぬ!」

「だが私は関わる!お前はそれでいいのか!」

「私が決めたのです!」

 お互いの主張をぶつけ合いながら、軍勢を叩き付け合う。

 骨肉の争いのはずなのに、奇妙に血の臭いが薄かった。

 不思議なほどに、温かかった。







 もっともそんな事ができていたのは勝長と信忠だけで、兵たちは相変わらず殴り合っている。

「織田の御旗にかけて!」

「武田の意地を見せよ!」

 盛り返したはずだった織田だったが、数的には有利なはずなのに押し切れない。

「殿、このままでは少し危ういかもしれませぬ!」

 むしろ武田の方が優位になっている。三歩押された所を二歩しか押し返せないままにこう着状態に持ち込んだとしても、それは劣勢であって優位ではない。

 信忠軍に対しても武田軍は大雨の中でさえも正確に攻撃をかけ、前進を許さない。


「敵はやはり……」

「ああ、絶対に勝つ気だと言う事だ!」


 信忠もまたこの雨を読んでいたと言う言葉を飲み込み、必死に軍配を振る。

 いくら臨機応変であったとしても、計画通りの作戦にはかなわない。たまたまそれ以上の策を編み出して成果を上げる事もあるが、それこそ天才の行いであり信忠でさえもできる物ではない。


 と言うより、それができる可能性のあるたったひとりの人物は、別の敵に悩まされていた。

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