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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第十二章 十五年ぶりの
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本多忠勝の失態

 徳川信康は、使者の知らせに顔を青くしていた。


「本多平八郎が罠にはまったと言うのか!」

「武田軍は馬場軍に援軍を送り桶狭間山の守りが薄くなったと見せ我々を誘っているのです!このままでは本多様が危のうございます!」

 織田軍の使者が、必死に窮状を訴えている。

「そう言えば山県軍に援軍は行っていないのか」

「現状柴田様をしてあまり形勢はよろしくなく」

「そうか……挟撃状態と言う訳か!」

「信玄めは本多様を何としても屠る気でいます!もはや寸刻の猶予もございませぬ!」


 使者が踵を返すと、徳川軍は一気に喧騒に包まれた。


「平八郎を放ってはおけませぬ!」

「しかしここで軽挙妄動すれば徳川はおしまいだぞ!」

「残念ながら、しなくてもおしまいだ。このまま引き分けで終われば、武田はもう二度と徳川に立ち上がる機会をよこさぬ。それに、織田だって徳川を信用しなくなる」


 本多忠勝を見捨てるか否か皆が惑う中、酒井忠次が重々しく口を開いた。


 この場にいる兵は、もう徳川の全力に近い。

 量だけでなく質からしても集めに集めた上澄み、と言うか底の底の泥水以外全部持って来た。その泥水の中でも比較的ましな人間が岡崎城に入り、徳川家次を守っている。

 後はもうほとんど空城であり、武田がその気になればあっという間に武田のそれになる事はわかりきっていた。

 それに本多忠勝と言う名前はもうあまねく知れ渡ってしまっている。織田家でさえもその名を仰ぎ、若き英雄を師と仰ぐ人間もいた。実際森長可などは岡崎城に通っては幾度も稽古を付けてもらっていたほどだった。

 そんな存在を見捨てれば織田はもう徳川を顧みないだろう。

「しかしあまりにも都合がよろしすぎるかと」

「誘導されていると」


 だがその上で考えられる可能性を吐露した人間に対し、一人の男が胸倉をつかむ。


「おい待て!いや待たれよ浅井殿!ここに来てなぜ!」

「私は!あの使者が!武田の間者かもしれぬと!」

「拙者だって格好を見たぞ!あれは紛れもない織田の使者だ!」


 浅井忠政と言う十二歳の少年の胸倉をつかみながら、大久保彦左衛門は唾液と叱責を降らせる。

 もはや最後の機会かもしれない中に冷や水をぶっかけられた彦左衛門は信玄を前にした時の様に喚くが、忠政は口ばかり動揺して顔はちっとも変わらない。

「武田には御坊丸様がいます!御坊丸様なら織田に付いての知識があっても!」

「確かにそうだがだとしても!」

 彦左衛門が言い返しようがないのはわかっているがと叫ぶが、忠政もまたまったくひるまない。


「確かに浅井殿の言う通りかもしれぬ……」

「酒井様!」

 その二人に割り込めたのは、酒井忠次だけだった。

「だが行かぬ訳にもいかぬ。浅井殿、貴公は実父を守ってもらいたい。忠世!」

「わかり申した、万一の時は家次様と徳川の御家を……!」


 忠次は年の関係でもないが徳川家で自分に次ぐ地位を得ていた大久保忠世をさっと残し、残る面子の出陣を決めた。


「殿」

「わかっている。羽柴殿は問題なかろう、我々の手で武田信玄を討ち果たし、父上の無念を晴らす……!」


 彦左衛門も手を離し、そしてあっという間に徳川軍は大高城から飛び出した。


 残ったのは、忠政と忠世とその子、忠隣と五百人の兵のみ。



「信康殿も、酒井様も、皆……」

「それが徳川の覚悟と言う物です。酒井殿は自分の御家のため、この決断を下したのです」

「申し訳ござらぬ」

「案じられるな、それがしは別に今生の別れをするつもりはございませぬ。なあ忠隣」

「大殿様には老爺になってから会いに行くと申しておりましたな。では我々も参りましょうか父上」


 そしてその五百人も、忠政と共に柴田軍の援軍として東海道へと向かった。




※※※※※※※※※




「信玄め!」




 本多忠勝は、両街道の中間を突き進んでいた。

 桶狭間山への、最短距離を。


「お前、何を……!」

「何もへったくれもあるか!我々は大殿様、徳川三河守様の仇討ちをするだけだ!」


 武田軍が戸惑う中、忠勝は一気に斬り込んで行く。

 武田軍を一気に切り裂きにかかるその刃は、忠勝の人生で最も鋭い刃だった。


 たちまち武田軍はくの字、いやへの字に曲がり、東海道に傾く。


「これが武田信玄の直属軍か!呆れて物も言えん!」

「数を減らした訳ではないのだぞ!」

「主を後ろにして逃げるなど恥を知れ!」

「逃げるのではない!山県様の援軍となるだけだ!」

 戦場ではどうしても声が大きくなる。歓声や悲鳴だけでなく嘲弄や罵倒、口喧嘩も大声になる。


「良いか者ども!これより我々は山県様をお救…ガボッ……!」


 当然大口を開けねばならないので、その瞬間口は無防備になる。

 そこに入ってきた侵入者のせいで、武田軍の将は何ともしまらない姿になってしまった。


 だが、その侵入者は虫でも矢でもない。


 いや、彼の口だけを狙ったのでもない。




「雨だ!」




 雨。


 先ほどから空を太陽に変わって支配していた雲が、ついに実力行使に走ったのだ。




 しかも、梅雨とか言う次元ではない。


「これは…!」


 文字通りの、集中豪雨。


 この戦場を覆うがごとく、天の怒りとも言えるかもしれない雨。




 それが味方するのは誰か。







「天命、我にあり!!」







 本多忠勝は、夏の雨を蒸発させんばかりに叫んだ。

 視界の失われる豪雨は攻撃をやる側に有利であり、道さえ見失わねばこちらの勝ちのはずだ。


(知っている……あの時も豪雨だった……!)


 そして忠勝の頭の中に、あの初陣の記憶が蘇る。


 十五年前、織田信長が今川義元を討ち取ったあの日も、篠突く雨が降っていた。もちろんそれに加わる事もなかったが、それでもあの時の雨の冷たさとそれをかき消すほどの戦場の興奮は忘れる事などできなかった。


「ここしかない!いざ進め!」


 忠勝の声と共に、徳川軍千名は改めて死兵となった。


 その死兵に対しわずかに残った武田軍が抵抗を試みるが、あっという間に押し潰されそうになる。

「武田のために死ね!」

「お前こそ徳川のために死ね!」

 視界を奪われるほどの豪雨の中、武田軍は必死に刃を振り回す。徳川軍もひたすらに攻撃をかけ、目の前の敵を薙ぎ払いにかかる。


「殺す必要はない!追い散らせばそれでいい!」


 忠勝の叫びと共に徳川軍は進む。前だけを向いて進む。

 そして置き去りにされた武田軍の中には、その事にさえも気づかない兵が出始めていた。

 簡単にその場にとどまって死ぬまで戦うとか言うが、敵が自分たちを殺しに来てくれるとは限らない。門でもない限り敵を一点に集めることは無理であり、どうしても隙間はできてしまう。

 ましてや千人の軍勢の、への字に折れ曲がった所の軍勢だ。数にして百人いるか否以下である。厚みはおろか幅もなく、突破するのはあまりにも平易だった。

「このまま一気に進め!」

 さしたる血も流さないまま、徳川軍は突破に成功した。


 狙いはただ一つ、武田信玄の首。


 あの時以来、どれほどまで夢見て来たか。


「あれだ!」


 そして、間違いなくそこにいた。




 風林火山の旗と、武田信玄。




 武田信廉ではない、武田信玄。




「信玄坊主めぇぇぇ!!」

「おお、そなたが本多忠勝か。会えてうれしいぞ」


 事もあろうに傘を差させながら、悠然と軍配を扇いでいる。まったく大胆と言うより無謀としか言いようのない有様に忠勝はますます激昂し、全身でぶつかりに向かった。


「行け」


 信玄のその一言と共に矢が放たれ、すでに透明になっていた葵紋の旗を射貫きにかかる。もっとも文字通りの闇夜に鉄砲だからまともに当たる物でもないが、それでも無傷とは行かない。

「ぐっ」

 数名の兵が倒れ、血まみれにはならなかったが泥まみれになった。もちろんそんなので足を止める兵は誰もおらず、すぐさま立ち上がって走り出す。

 足がもつれようが信玄さえ殺せればそれでよしとばかりに、四足歩行の動物のように歩くと言うか泳ぐ兵までいた。


「仕方がないか……お前たち、相手をしてやれ」


 そんな必死な兵を見ても、信玄は最低限の反応しかしない。



 忠勝の熱量は最大限に達し、もはや誰にも止めることはできない。



「信玄めがあああああぁぁぁぁ!!」




 最大限の叫び声と共に、蜻蛉切を振りかざしながら突っ込む。




 当たるべき物すべて、切り刻むほどの勢いで。







 そして、その蜻蛉切は、信玄に向けて飛んだ。










「すぐに回収せよ」










 持ち主の手を離れた槍は信玄の配下たちにより拾われ、後方へと持ち去られて行く。




「もしやこれはぁ!」

「うわ止まるな!」


 叫び声と共に、次々と徳川の兵が消えて行く。


「雨はいいな」


 そんな悠長なことを抜かす信玄の足下には、幾多の魂がうごめいていた。




 今川義元だけではない。










 そう、落とし穴の中に。

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