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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第十二章 十五年ぶりの
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織田信長と武田信玄は桶狭間に布陣する

 天正三年、五月二十七日。




 今日から、ちょうど、十五年前。




 そこから織田の栄光は、始まった。




 その時ほどではないが、朝から空が重い。




「ずいぶんとまあ、すんなりと入れた物よな…………」

「信長の注文通りでございましょう」




 今川義元の血が染み込んでいる、桶狭間山。




 そこに武田信玄は、天幕を張っていた。


「徳川は妨害しなかったな」

「下手にちょっかいを出してそこに向かわれるのを嫌ったのでしょう」

「その代わりのようにおるわ、わかりやすく同じ場所に」


 大高城。桶狭間からしてみれば真正面に近い城。


 そこにわかりやすく葵紋の旗が翻っている。


 数は旗からしておよそ六千。


「家康がかつて義元公の配下として兵糧を運んだ城……今川の犬から織田の犬に変わった事を認めたような話だがな……」

「織田の犬でも何でも、ご隠居様を殺したいだけだと」

「だろうな。徳川はそういう事ができる。だがあの女にはできん。それだけの事だろう」

 徳川にとっては目一杯の数を押し込め、その上で織田信長の下知を待つ。

 独立大名だった存在としては屈辱的かもしれないが、その程度の事など歯を食い縛れるのが徳川の家風なのだろう。


「こちらの兵の用意はすでに完璧だがな」


 北の鎌倉往還に内藤昌豊と武藤信幸、南の大高道に馬場信房、真ん中の東海道に山県昌景。

 兵力もきちんと分けている。



「だが敵が予想外に少のうございますが」

「後方に控えていない訳でもあるまい。それにあまりにも多くなり過ぎれば鈍重にもなる」


 ここに来るまで武藤昌幸が聞かされた織田の軍勢の数は、どれもこれも七万を越えない。二十万もできなくはないと思っていただけに予想外ではあったが、信長にしては不用心と言うか甘いように思える。


「数と敵は」

「一番多いのは鳴海城に入っている軍勢でおよそ二万らしい。どうやら敵は織田と滝川一益だ。

 それから大高城に徳川、東海道の中島に柴田勝家、大高道の丸根に羽柴秀吉。どっちもまあ一万五千と言った所で、鷲津には予備隊がいる」

「鳴海城に援軍は」

「確認はできておらぬがまあ来るだろうな。相手は織田だからな。とりあえずは六万五千としておくが、実際にはもう一万多く見てもいいだろう」


 —————およそ七万五千。三万五千の武田で勝つのはどう考えても困難な差。


「ありきたりだが、この戦は命をかけねばならぬ。おそらく信長はこの戦場にいる。命がけの我々に抗うために」

「少数の我々に?」

「十五年前、五倍とも二十倍とも言う数の差をひっくり返した信長が数の差を気にするような玉でもあるまい。だいたい信長が少数の弱者に油断せぬ事など比叡山や伊勢長島を見る限り火を見るよりも明らかではないか」

「油断してもらいたいのですがね」


 相変わらずの調子の信玄に、昌幸はうっとおしげに言い返す。

 ほどなくして戦が始まると言うのに、いつになったらその気になってくれるのか。



「数的に不利ならば仕掛けるべきだと思いますが、ましてや敵地で」

「勝手に敵は動く。それからでも遅くはない」

「でも今すぐ尻尾を巻く事もできるのでしょう」

「できる。もっとも追跡に渋滞は起こさんだろうが、それでも多少の混乱は生じさせられる」

「しかし三河は」

「三河の兵力は来ぬ、と言うか来られぬ。まともな兵は軒並みあそこだからな」


 信玄は笑いながら、鳴海城を指差した。




※※※※※※※※※




「ああ……!」


 十六歳とは思えない声でその男はうなっていた。

 肉を投げ付ければ食いつきそうなほどに殺気を醸し出し、兵たちを圧倒していた。



「彦左、落ち着け」

「これが落ち着いていられますか!」


 大久保彦左衛門忠教は、武藤昌幸と違う理由で殺気立っていた。


「あの屈辱から二年と半……ついに大殿様の仇を討てるのです!こんなに嬉しい事はございません!」

「だが敵はあの信玄坊主だぞ。自分を囮にこちらを殺めるぐらい平気でする。

 存じているだろう、あの糞坊主が付き付けて来た書状を」


 彦左衛門も無論、信玄が信長及び信康に寄越した書状は知っている。

 主君の徳川信康の側に立つ、大男。


「拙者がここまで恐れられているとは、むしろ恐悦至極」


 —————本多平八郎忠勝の首級を寄越せば手を出さぬ。


 その書状を受け取るやこんな反応ができる程度には、彼は剛の者だった。


 そんなふざけたとも弱腰とも取れる書状は当然の如く、徳川の人間の戦意を高めた。

 信康はその書状をすぐさま便所紙に転用してやると、将兵たちに向けて最後の戦いへの決意を固めた。


(二度あることは三度ある?ふざけるな!)


 馬込川でも、兼山城東でも、信康は武田を討てなかった。

 馬込川の時はほとんど何もできないまま終わらされてしまい、兼山城東では事もあろうに武田武王丸とか言う七歳児にしてやられた。敵を討ちに向かった榊原康政は小手先で追い払われ、世間的に見れば引き分けか惜敗でも気分的には完敗だった。


 信玄は既に五十五歳。そしておそらく、この戦いを最後のそれと決めている。


 ここを逃せば、もう完全に武田は信勝になってしまう。

 信玄でも信勝でも武田は武田だが、家康を乱暴な手で殺した糞坊主の征夷大将軍殺しの信玄と正々堂々立ち向かって来た幼子の信勝ではやはり違いが生じる。


「武田本陣は桶狭間との事」

「いつ出陣命令が出るのです!」

「おそらくは羽柴殿か柴田殿、徳川は次鋒。方向からすると柴田殿かと」

「どうしてだ!」


 彦左衛門の怒鳴り声に、今度は誰も反応しない。

 武田軍に直接当たるのは、重臣の柴田勝家か、羽柴秀吉。及び織田信忠に滝川一益。


 だがそれらが対峙するのは、馬場信房に山県昌景、内藤昌豊。

 武田の重臣ではあっても、武田信玄ではない。


「彼ら織田の重臣により、信玄坊主の手先は死ぬ。そして肝心な所を我々に任せて下さると言う訳だ」

「そうですね……」

 彦左衛門はため息を吐くが、信康とてそんなに気持ちは変わらなかった。


 今の徳川の力では、武田と正面でやり合うなど絶対に無理。

 わかっていたが、改めて悲しくなる。

「織田は寛容だ、武田とは違う。そう幾度も言い聞かせて来たつもりだったのに……」

「結局は戦に勝つことがこそ肝要なのでしょう、大殿様だってそうしたはずです」


 忠次の言葉も、城内に虚しく響く。

 家康は二年半前、血気に逸ってしまった。それゆえに信玄に絡めとられ、この世を去った。確かに今生きていれば決して血気に逸らぬように努めただろう。だが所詮、「だろう」でしかない。死人に口なしであり、死んだ人間が○○ならこうするとか言うのはまったく勝手な生者の特権と言うか職権だ。


 実際、徳川だって織田の手を通じて武田内部に信虎と勝頼をないがしろにした信玄の悪評をばらまいている。親を放逐し孫まで殺したとか、信勝可愛さにわざと織田軍に勝頼を殺させたとか、それらの件で恨み言を言っているとか。

 屁理屈ではあるが、信虎や勝頼がひ孫及び息子たちの成長を喜び安らかに眠っていないとは限らないと言うのに。



「申し上げます!」



 そんな逼塞した大高城に、織田の使者がやって来た。


「そなたは!」

「柴田軍配下前田三佐が家臣、村井長頼!柴田様からの伝言です!」

「柴田殿から……」

「これより我々柴田軍が街道を進み山県軍に攻撃をかける!


 そして徳川軍も、一将を派遣し横撃、さらに桶狭間の武田本陣強襲をしてくれと!」



 長頼の言葉は、徳川軍全ての魂に火を点けるそれだった。



「まずは山県昌景を叩き、その上であの坊主を!」

「彦左衛門、拙者が出よう!」

 武田が最も恐れているであろう男・本多忠勝の声に応えるように、徳川の兵から歓声が上がる。

「本多平八郎!そなたは確か」

「ええ、十五年前、ここが初陣でございました!」

「そうか、皆の者!徳川の新たなる初陣!この本多平八郎に任せる!」




 本多忠勝は五千の内千の兵を率い、大高城を村井長頼と共に飛び出した。




 そしてその忠勝が追い付くより先に、柴田勝家軍一万五千は山県軍に向けて前進していた。







 ついに、織田と武田による、最大の決戦が始まったのだ。

「カクヨムだとここで小さな章区切りになってるけど」

「いいの、どうせ休みなしなんだから」

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