四人の少年たちの答え
四月十日。
桶狭間への出陣の準備を整えていた信玄は、この時ようやく築山殿処刑の報を聞いた。
「ほう、あの女が処刑されたと」
「何でもあの跡部と内通していたとか」
「はははは、まったくずいぶんとうまく使われたものよな」
信玄は軽く笑っただけだった。
もはや跡部は無論、築山殿さえも信玄にとっては過去の存在だった。
もちろん内部かく乱のために利用しようと思ったのは事実だが、思っただけで実際はほとんど実行していなかったし、それ以上にそんなのを利用する意味もないと思わせるほどには彼女の悪名は轟いていた。
「男を尻に敷くのは悪い訳でもない。だがあれは男の出世栄達を願う訳ではなく、自分がただ当たり散らしたいだけだったからな」
「筋の通らぬ存在を相手にしてはならぬと」
「まあ、そう言う事だ。男でも女子でも、方向の定まらぬ存在を相手にするのは面倒だし、こちらが火傷をする危険性が高い。あるいはそうするしか自尊心を保てなかったのかもしれんがな」
元々今川家の一族として蝶よ花よと育てられて来た女にしてみれば、配下同然だった「松平元信」との婚姻などそれだけで虫唾が走るような話だったのだろう。
当然今川家が健在だったうちはその威を最大限に借りまくり、桶狭間の後は虚勢を張りまくり、今川が完全に消えてからはもう意固地になっていただけなのだろう。
「確かに織田は言語道断、今川を裏切った武田はもちろん嫌い、かと言って北条は武田についてしまう、そして徳川は織田と共に歩む気満々……あれ?三国同盟を切った時に北条に付かなかったのですか」
「北条と徳川は懇意だった、数年ほどな。だが知っての通り氏康が死ぬと同時に北条は徳川ではなく武田と組み、その際に行き場のなくなった氏真は徳川の下へと走った。全くあれはあれで見上げた物だが、そんな話ほど築山殿にとって面白くない事もない。その挙句にこれだものな、乱れなければ逆におかしい」
信玄が武藤昌幸と共に雑談を交わす中、兵たちは動く。
「上杉の残党は」
「もう越後国内にはおらぬと五郎様が申しておられました。上野には長兄が入り、武蔵には次兄が入り、さらに岩村には相変わらず秋山様が」
「秋山もずいぶん板についておるのう。それで穴山には駿河を頼んでおる。そしてそれらすべては高坂に任せる事となっておる」
既に領内の防備は万全だった。越後には仁科盛信、上野と武蔵には真田兄弟、岩村には秋山信友、駿河には穴山信君、そしてそれらの総司令官として高坂昌信がいる。
残る面子全てを、織田への遠征につぎ込む事になる訳だ。
「いったい何人生きて帰れるのでしょうか」
「知らん。わしもわからん。できれば多い方がいいが、謙信だってほざいていただろう?」
「死なんと戦えば生き、生きんと戦えば死す……」
「そうだ。織田に弱点があるとすればそこだ。もっとも、信長がその弱点に気づかんとは思わんが」
ひどい話だが、織田にとっては徳川が滅んでもさほど痛撃はない。もちろん放置すれば問題だが、全力で戦った上でとなればさほど世間体は悪くならない。織田の武名に傷は付くが、致命傷にはならない。だがそれだけに、織田家には油断する可能性がある。
「だから信長は自らやって来る。この戦に絶対に勝つために」
「遠江を取り戻して徳川に与えるために」
「いや、一人でも多くの武田の人間を殺せばそれで良い。織田にとっては武田の抵抗力を奪えばそれで良い。なんならこの信玄の首さえ取ればそれでいいかもしれぬ」
「太郎様がいるのにですか」
「ああそうだ。わしはこれから信勝たちと少し閑談して来るから頼んだぞ」
またそんな役目をさせる気ですかと内心呆れている武藤昌幸を置き去りにして、数え五十五歳の男は館を歩く。
(喜兵衛も案外と甘えん坊だな……まあわしが少し手塩にかけすぎたかもしれぬ。人間危機に陥れば目を覚ますだろうが、その時どうなるかはもうあやつ次第よ…………)
山県昌景、内藤昌豊、馬場信房、小山田信茂。さらに昌幸と同じ武田の親族から武田信豊、武田信廉、さらに駿河では穴山信君。
これほどの相手を、信玄は昌幸に丸投げさせるつもりだった。
それこそが昌幸に信玄がお墨付きを与えたと言う証でもあるし、昌幸にとっては戦場だけではない重要な経験ともなる。大変かもしれないが、容赦する気もなかった。
そして信玄もまた、自分の仕事をこなすべく別の部屋へと向かう。
「お前たち、元気か」
その部屋にいたのは、四人の少年。
武田信勝、武藤信幸、武藤弁丸改め信繫、そして織田勝長。四人合わせても信玄の年齢に足りない少年たちは一斉に頭を下げた。
「そうかしこまらずとも良い」
「そうおっしゃられましても」
「まあしょうがないか。とりあえず座らせてもらうぞ」
信繫が座布団を差し出そうとすると右手を差し出し、そのまま床に座る。
坊主頭にたくましいひげを蓄えた信玄は背中だけでも迫力があり、自然と他の誰も近づけないような空気が出来上がっていた。
「さてと……」
その空気を作り上げた信玄は自然な笑顔のまま、ゆっくりと口を開いた。
「そなたらも存じておろうが、わしはこれから三河へ向かう。いやおそらくは尾張まで行く」
「尾張……」
「そうだ、尾張だ」
尾張。そう、勝長の生まれ故郷。
「無論戦、いや人殺しにだ。これから、織田の兵をたくさん殺しに行く」
「徳川ではないのですか」
「名目的にはな。だが実際は織田だ。織田の兵の屍を積む事になる。いや、わしでさえも見たことがないほどの量の屍をな」
信幸の十一歳が最年長と言う四人に向かって、信玄は血の気が引くような事ばかり言う。四人ともある意味初陣は済ませているが、それでも戦場の生々しい過酷さからはそれほど近い所にはいない。
「ともに参ります」
その四人の中で真っ先に反応したのは、なんと勝長だった。
「良いのか」
「確かに私は織田の子です。しかしお館様はそんな私を決して差別する事なく、この源三郎殿や弁丸殿と同じ扱いを受けて来ておりました。この館に来た当初、威張り腐っていた自分をなだめてくれたのはこの三人でした」
勝長が甲斐に連れられて来たのは二年前だった。半ば強引に秋山信友により送られた信長の五男坊は、それこそ我こそは織田の人間だぞと言わんばかりに威張っていた。
そこに信幸が雑談と言うか論戦を挑み、鼻っ柱を折りに行った。昌幸は信幸を諫めたようだが信玄や信豊に幾度も注意されて口をつぐみ、いつの間にか反抗する事も亡くなった。信勝も信勝で若殿様の権限を使い勝長に自分と同じ待遇をさせた上に信繫に稽古をさせ、いくらでも言いたいことを言わせた。
やがて少年三人と好きなだけ言いたい放題やりたい放題出来た結果、勝長は肩肘を張る事がなくなった。険が取れ、人質と言うより小姓のようになっていた。
「実父との戦いだが」
「もちろん心得ております。ですが兼山城東にて既に経験もあり、さらに今の私自身の希望でもあります。それに、個人的な怨恨もありますので」
「もしや森とか言う男かね」
「そうです。明智日向守(光秀)の事を持ち出されればそれまでですが、私とて物言いと言う物がございますので」
勝長の「勝」は信勝の「勝」ではなく、「勝頼」の「勝」だった。
勝頼は信玄や信勝とは疎遠だったが勝長とははぐれ者同士の関係からかさほど仲は悪くなく、時に自ら稽古を付けていた事もあった。
そんな訳だから勝長は勝頼を殺めた森長可をよく思っておらず、明智光秀の事で相殺にしていただけだった。
「そうか。だがまだその年では触れるのは軍配ぐらいだぞ。ましてや先の戦のように織田の旗を見て動揺する相手ではない」
「存じております」
勝長の話が終わったのを認めた信玄は首を右側の二人に向けた。
「わかった。それでお前たちは」
「無論参ります」
「そうか。だが、ならばひとつ命を下す」
「何でしょうか」
「武藤信幸、信繫。お前たち今回は二人一緒に動け」
信玄からの突然の命に、二人は同時に首をひねった。
「ご隠居様はこれまでずっと共に出るなと」
「だったな。去年も信幸は信廉につき、信繫はわしに付いておったな。だが此度はそんな余裕はない。
信幸、そなたも長男ならば弟を支える責任がある。今度は安全策を取っている余裕はない。上杉や北条とは訳が違う」
川越城の戦いでは信幸が指揮を執り、信繫は上野にて信玄の側で吠えていた。
結果として二兎を追う者は一兎どころか三兎をも得たわけだが、そんな話はもうないと言う訳だ。
「文句ならそなたらの父に言え。あ奴は三男だからか少し甘えん坊でな、長男が教えてやらねばならん」
「責任を持てと」
「そうだ。今回はそなた自らに軍を割く。もはやお前は一軍の大将だ」
十一歳の子に、指揮権を託す。
「ははっ!」
「わかり申した!」
口にするまでもなく過酷な命だが、信幸にひるむ所はなかった。
信繁もまた信幸に続いて頭を下げる。
「そして」
「私は、躑躅ヶ崎館に留まります」
最後に話を振られそうになった信勝は、いきなり出征を断る宣言をした。
「なぜだね?」
「この戦で死ぬ可能性があるからです」
あまりにも馬鹿馬鹿しいお話だが、信勝は真顔だった。冗談を言うにしては裏表のない口ぶりに、信玄は思わず笑み崩れそうになった。
「そうか、だが部下たちは皆向かっているぞ?ならなぜおぬしは動かぬ?」
「私がいては皆私に気が行ってしまいます。無論織田方もこちらを狙いましょう。そうなっては戦の型が限られてしまいます。これが甲州や信州での戦ならばまだよろしゅうございますが、此度は桶狭間と言う敵地も敵地……」
「地の利は圧倒的に織田にあると言うのかね」
「ええ。そのためだけに武田は大いなる徒労を強いられます」
小田原より落ちる川越だけでも相当な警戒が必要だったのに、清須城すぐそばの桶狭間となっては半端ではない。そんな敵本拠地に等しい場所など、織田にしかわからない抜け道で溢れかえっていて当たり前だろう。
「わしには行かせるのか」
「私は武田の当主です」
「当主だからと言って祖父を顎で使うのが孫か」
「馬場美濃殿はもう六十一です。それを顎で使おうとさせているのにそういう事をおっしゃいますか」
理屈は通っているとは言えずいぶんな言葉を連発する孫に対し、信玄は眉一つひそめようとしない。
「どうしたのです?」
「いやでもな、少しぐらいは進むべきだと思うぞ」
「掛川城に入れと」
「八つ当たりに八つ当たりで返すな。わかるだろう、どの辺りが適当か」
「駿府城ですか」
「なんだ、わかっておったのか」
駿府城と言う言葉に、信玄は口を開けて笑った。
掛川城は遠江の城で旧浜松城からはほどない所にある場所で、はっきり言って戦場には近いがまだ徳川の残滓がくすぶっている危険な場所である。それならある程度武田の支配が根付いている駿府城の方が安全だ。
「しかし願いがございます」
「申せ」
「武藤様がしつけてくれた井伊万千代、彼ははずいぶんと頼りになります。どうかご隠居様の護衛として此度も」
「だな。勝長」
「あれも武田様にしつけられましたからな」
遠江の豪族であった井伊家の跡取り息子を手にしたのはちょうど一年前。
当初は反抗していた彼を信勝と信幸と信繁の三人で見事に仕立て上げ、昨年の初陣にて景勝の小姓を斬ると言う戦果を挙げさせた。
「その小姓も使いたかったのでは」
「それはぜいたくと言う物だろう。だがわかった、その井伊直信をそなたの代わりに連れて行こう。ああ、北条には気を付けておけ」
信玄は、確信を抱いた。
信勝が、武士ではなく総大将になれている事に。
そしてこの夜からずっと、信玄は実に良き夜を過ごした。




