徳川信康は腸を千切れさせない
2023年3月23日、一部誤字を訂正。
信忠が織田家の当主となって十日後、岡崎へと戻って来た信康。
若き当主を、家臣団は揃って出迎えた。
「殿」
「ああ、この徳川のために織田様自ら兵を出してくれる事になった。周知の事実かもしれんがな」
「ようやく、今度こそ!あの忌まわしき糞坊主を!」
大久保彦左衛門が鼻息を荒くし、自分と年の変わらない主を出迎える。
その彦左衛門の隣には、やけに力強い顔をした少年がいた。
「そなたは」
「私もこの戦いに参加させてください!」
やけにはきはきとした少年。年を聞くと十二だと言う。
「しかしまだそんな年齢では」
「あの武田の当主はすでに当主として動き、さらにそのしもべとして二人の兄弟がいるとの事。私として少しはお役に立てるはずです。およそ二年、私は私になりに武士になろうとしたのです」
「そうか、やはり戦うのか。忠政殿」
浅井長政とお市の実子、浅井万福丸改め浅井忠政。
人質に近い状態で二年近く清洲城におり、正直他にする事もなかった万福丸は数少ない自由な時間で武芸を学び、また岡崎へ行っては忠次や大久保兄弟の教えを受けていた。
浅井の後継者は池田恒興の次男の古新丸改め恒政となっているが、この戦の出来によっては浅井が二つできるかもしれないと思うほどには勇猛果敢だった。
「しかしずいぶんと精悍な顔つきになったな」
「教え方が良かったですから」
「はあ……」
彦左衛門が珍しくため息を吐くと、信康が追いかけるようにため息を吐いた。
確かに武芸に集中するのは悪い事ではない。退屈な人質生活ではそれこそ書を読むか刀を振るしかやる事もなく、こうなるのは順当だったとも言える。
「その事について何だが……ああ義兄と話さねばならぬので失礼」
信康もまたため息を吐きながら、本丸とは別の方に足を向ける。
徳川家内で義兄と言う場合、織田信忠ではなく別の人物の事を指す。
その義兄の下へと向かう信康は当主のくせにやけにかしこまった調子で歩き、自らの手で障子をゆっくりと引く。
「ただいま戻りました」
「ああ戻って来てくれましたか……」
義兄こと酒井忠次は、信康を制するように頭を下げた。
まだ十五歳で実の男子のいなかった信康には二年前忠次の嫡男の家次が養子として宛がわれており、その時から忠次は信康の大叔父から信康の義兄弟になった。当然のように権勢も高まり、徳川内部の体制は安定するはずだった。
「此度の戦いが最終決戦になると伯父様は仰せです」
「伯父様か……まったく不自由な言葉遣いだな」
「そうですね。何がしたいのかの答えがないとここまで問題なのでしょうか」
この先の目標を見失うと言う事は、甚だ不自由である。何のために、どこへ向かっていいのかわからないのだから、進む方向が分からないのだ。
こんな状況を楽しめると言うか安住できるのは、そんな生活をよしと出来る人間だけである。
「左に行けと言って左に行けば遅いと言い、早くに行動すれば準備がなっていないと言い、夜通し準備をすればうるさいと言い、音を抑えれば殺気立たせるなと言う……」
「まったく、自分が何を言っているのかわからんのか……」
聞けば聞くほど馬鹿馬鹿しい話だが、それを大真面目にやっている人間がいる。
そういう人間が結局何をしたいのかと言うと「わめきたい」「いちゃもんを付けたい」でしかなく、無視するのが本来なら最高の手段である。だがそれが無視するには地位や格があったりすると厄介である。
「結局のところ、今川家の旗を京に立てたいのでしょう」
「氏真殿の気持ちも知らないで、いい気なものだ!」
戦国大名でも何でもない御家の旗を京に立てるなど、夢物語と言うにしても安っぽ過ぎた。だがそれがかの者にとっての理想であり、その今川の敵である連中全てに八つ当たりしているだけなのだろう。
「それで……」
信康は思いつめた表情で、忠次に書状を渡した。
丁重に書状を開いた忠次は一瞬だけ目を丸くすると息を呑み、何度も書状を読み返した。
その十日後、岡崎城の中で喚き声が轟いていた。
「自分が何をやっているのかわかっておるのか!」
罪人らしく襤褸に身を包み髪を振り乱し、後ろ手に縛られた人間が叫ぶが、誰も眉一つ動かそうとしない。
「既に証拠は上がっております」
冷淡な声で書状を突き付ける男を罪人は全力でにらみつけるが、まったく相手は動じない。
「我が徳川が危機的状況にある事、もう二年前から明白なはず。それなのにかような事をなさるとは、私は悲しゅうございますぞ」
「こんな偽書に何の意味がある!」
「偽書?まさかこの署名をお忘れになったとはおっしゃらぬでしょうな」
大久保兄弟の弟、忠佐の差し出した書状には、はっきりと文面が記されていた。
「武田信勝に督姫様を嫁がせ、その子を武田の跡目にする事を条件に徳川の安寧を願おうなど……その上にこの岡崎城の見取り図、さらに我々の諱を教えようなど、言語道断どころの騒ぎではございませぬ!」
次々と岡崎城の見取り図や信康以下徳川一族の諱、さらに各地の城砦などの図を描いた書が出て来る。
「こんな馬鹿馬鹿しい捏造品をどうやって揃えた?」
「捏造とは、何を今さら。亀姫様ではなく督姫様の名を記す事、それこそまさにあなた様らしき行いだと申し上げておるのです、築山殿」
徳川家当主・信康の母。
少なくとも徳川家で一番権限を持っていたはずの女性が、武田家への内通者として筵に座らされている。
「あなたは西郷局様が産んだ督姫様をないがしろにし、自分の腹で生んだ亀姫様のみを寵愛なさり……………………」
「馬鹿も休み休み言え!」
「と、見せかけて真田兄弟の兄と婚姻させて武田を内部から乗っ取ろうとしていた」
忠佐はさらに別の書状を取り出す。
そこには真田兄弟の兄、源三郎と亀姫の婚姻を申し出るそれが書かれており、築山殿の署名まであった。
「だから捏造だと言っておる!」
「捏造?それこそ捏造なはずがないでしょう、この通りになれば徳川はむしろ大逆転勝利です。次代の武田家当主とその中核を担う存在の子を手に入れたも同じなのですから」
「やかましい!なぜわらわが武田の小僧とその腰巾着に娘をくれてやらねばならぬのだ!」
「そういう所ですよ」
ため息を吐きながら出て来た息子に対し、さらに築山殿は吠えようとする。
「信康!お主は自分が何をやっているのかわかっておるのか!」
「それはこちらの台詞です」
「そうか、「信康!自分が何をやっているのかわかっておるのか」と言うのはお前の台詞か!」
揚げ足取りと言うより減らず口、いやただのたわ言。聞く人間すべてから気力を削ぎ取る、まったくしょうもない言い草。
「母上……もう時代は変わったのですぞ。と言うより信玄が気付かぬような人間だと思わなかったのですか」
「何が言いたい!」
「この書には、元亀四年とあります」
元亀四年・天正元年とは二年前の事である。
その上で信康は書状の末に記された名前を指さす。
「大炊介……」
勝頼の寵臣、跡部勝資の肩書である。
「信玄はこの事に気づいていたから勝資をわざと織田に放逐し、勝頼自身さえも殺した。冷酷ではなく、あくまでも冷静に。内通者の芽を摘んだのです」
「もう少しましな冗談を言え」
「冗談ではありませぬ。神輿は軽いほど担ぎやすいのです」
「何を!」
「ではおうかがいいたしますが、母上はこの徳川をどうしたいのです?」
信康から軽すぎる神輿と言われてなおさら頭に血が上った築山殿だったが、それに反応する人間はほとんどいない。
「どうも何も、武田を討ち夫の仇を討つべく!」
「なれば織田と共に」
「織田などと言う田舎侍に媚を売れと申すのか!」
「ですから、どうしたいのです!織田にも武田にも噛みついて、残念ながら今の徳川はどちらかにしがみつくしか生きる事の出来ぬ家です!そして私は父の仇である武田などに付く気は毛頭ございませぬ!」
「おのれ!あの嫁に魂を抜かれたか!さすがは義元公を殺めた魔王の娘よ!誰かほどけ、今からわらわの手で息子を救ってやる!」
そこまで吠えたあげく、けたたましい声で築山殿は笑った。
「クックックック……ハッハッハッハッハ……!」
もはやどうにもならない—————他に、何とも言いようがなかった。
「では母上、さらばです」
「信康!」
「徳川を売り渡して武田にひざを折り、その上で自分だけ安穏に過ごそうなど。もはや乗っ取り計画も叶わぬと言うのになぜ考え直されなかったのです」
「そんな計画などないからだ!」
「冥土では父上と仲良くお過ごしくださいませ。三歩下がって影を踏まず、三つ指ついてお出迎えになられるように。ではやれ」
信康はあきれるほど平坦な言葉づかいで、母親の処刑を決めた。
「おのれ、親不孝め!」
「ご覧ください。誰があなたの死を惜しんでいるのです」
「覚えておれ!必ず徳川は滅ぶぞ!」
「この戦で負ければ同じです」
最後の最後まで我が子に平板に言い返されながら、築山殿の首と胴は永遠の別れを遂げた。
「……涙がなぜ出ぬのだろうな」
「今は少し緊張なさっているだけなのでしょう」
母親を処刑しておきながら泣けないほどに冷酷になってしまったのか、信康でさえもわからない。
わかるのは、もはや後戻りなどできないと言う事だけである。
ちなみに信康がこの場にて突き出した書状その他は全て信長の作った偽装であり、勝資の署名その他も以前勝資から教わった物を真似たに過ぎない。
だがそこまでしてなお消したいほどには、築山殿と言う存在は有害だった。
その事だけは、どうにもならない事実だったのである。




