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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第十二章 十五年ぶりの
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織田信忠は当主になる

「そして……余は新たなる城、安土城のために生きる。だから織田は奇妙、いや信忠にすべてを託す」




 あまりにも唐突な隠居宣言に、元から沈黙を保っていた重臣たちはますます静かになった。




「あのー、これからは、なんとお呼びすれば……」

「普通にご隠居様とか、大殿様と呼べ。これからは奇妙が殿様だからな」

 

 かろうじて第一声を突っ込んだ秀吉に対し、信長は相変わらずの笑顔を向ける。


「城を安土に作ると言いますが、一体どのような」

「いえそれに城作りならば別に隠居せずとも」

「まさか信玄坊主の模倣とは」


 様々な意見が飛ぶが、信長は全く顔を変えようとしない。



「二つの計画がある」


 そしてその顔のまま、言葉を続けた。


「一つは安土の地に城を築く事であり、この一年、いやそれ以上前からその事を考えていた。

 これを見てもらおう」


 懐から取り出した巻物をほどき、床に転がす。


 一見しただけでは普通の縄張り図だったが、数字と文字を見るたびに諸将の顔が変わって行く。


「このような……!」

「そうだ。使うべきものはすべてこの通りにしたい。そしてもう一枚」


 二枚目の巻物には建物の中身について詳しく書かれており、さらに自分の存在を強く主張していた。



「これだけの城に何年かける気なのです」

「少なくとも三年……おそらくは五年はかかろう。無論租税を上げることはせぬ。可能な限り我が懐のみを開ける。余の夢であるからな」

 為政者としての心構えも、決して忘れない。夢を見ながらも現実から離れないその姿は、いちいち信長の存在を美化する物だった。


「これが城だと言うのですか?」



 そこに不満をこぼしたのはただ一人、信康だけだった。



「……それで、その城はどれほどの兵を収容できるのですか」

「うむ、ざっと三万の兵がおよそ三月と言った所か」

「見た所この城は文字通りの平城です。しかも琵琶湖の湖畔にあり、湖を抑えられては補給もままなりませぬ。かつて筑前殿が征夷大将軍様にとどめを刺した時も徹底的に兵糧を買い集め、包囲したと伺いました。そのような措置を取られた場合、どうするのですか」

「それならそれで包囲網を突破するのみ」

「それに狭間はあるのですか?確かにこの漆喰の塀は防火に有効ですが、この形状では城内に突入した際に一挙になだれ込まれます。あと櫓はどこなのです」

「信康殿。そなたは何か勘違いをしておる」


 そしてその流れで熱弁を振るう信康に対し、信長は平板な顔で突っ込みを入れた。

 信康が何なんだと言わんばかりに義父の方を向くと、さっきまでの快活な顔が消えている。

 それも怒り顔ではなく、文字通りの真顔。


「安土城は別に、敵を迎え撃つ城ではない。織田信長と言う存在が、いかなる者であるか示すための城」

「……ですが」

「もし安土城が誰かに攻め落とされると言うのならば信長とはその程度の人間だったと言う事……何百年と受け継がれるかもしれぬし、一年持たぬかもしれぬ……」

「そのような無駄遣いを!」

「おい!」

 信康の失言に信忠は引きつった声を上げるが、信長の顔はなおも変わらない。

「心得ておる。もうそろそろ信玄の首を見たいのであろう?」

「それは無論!」

「さればこそ、二つ目の手を繰り出す。

 余自ら、信玄討伐へと向かう」




 そして信長は、二つ目の手を繰り出した。




「やはりそうですか!ついにあの信玄坊主を!」

「いかにも。おそらくは遠州殿を殺めに来るだろうあの坊主をな」


 信玄討伐と聞いて顔がほころんでいた信康だったが、自身が狙いと言われて戸惑うほどには視野が広くない事を察されて顔を赤くした。


「信玄は岐阜城など攻めぬ。そんな場所に攻撃をかければ負けた時に終わるからだ。

 信玄にとって本拠地である甲斐や信濃の隣で大戦をする意味はない。もちろん越後から越州に行く選択肢もない。信玄が攻めるとすれば東海道を越え三河から尾張を目指すのみよ」


 織田と武田の接点は三か所ある。南信濃と東美濃、越後と越中、そして遠江と三河だ。

 このうち越後と越中はそもそも閑地に近い上に両者とも治めたばかりの土地で民が懐いておらずどっちにも意味がない。

 信濃から美濃に入るのは織田からはともかく、本拠地である信濃に近い所で戦うのは武田にとって面白くない。

 実は武田は徳川家康を討ち取ったついでに岩村城周辺の東美濃を抑えていたがほとんど相互不干渉状態であり、そこからわざわざ攻めて均衡を崩す必要もなかったのだ。


「仮に敗れたとしても武田にとって今更遠江など痛くもない。越後すら手中に収めた今、最悪駿河まで失っても構わぬと思うておるかもしれぬ」

「そんな!」

「遠江と上野と越後がある以上、遠江を失っても何とでもなる。信玄と言うのは大勝負をかけるように見せてその実しっかりと保険をかけておくのが好きだ。上杉謙信も北条氏政もその手にはまったのだろう」

 

 川中島に御家ごと散った謙信、自ら盟約をぶち壊し武蔵まで失った氏政。

 二人とも家臣に下手に見させていたせいでかはともかく、大軍を動かした信玄に余力がないと思い込んで動いてしまった結果を思うと、美濃から攻め入るのは逆に危険だった。


「信玄は三河を目指す。いや、三河を落とすために織田を封じ込め、その間に岡崎を焼くと余は見ている」

「岡崎を焼く……」

「皆も知っているであろう、武田の防備の鉄壁たる事を。信玄が徳川を完全に消滅させるために、また同じ手を取って来ないとは限らん」


 徹底的な防備を組まれると、なかなか突破できない。それこそ防御力全振りとでも言うべき体制で進む事を放棄した代わりに誰も通さないと言う陣構えにより攻撃を防いで時間を稼ぎ、その間に攻撃部隊が敵主要部隊を磨り潰すと言うやり方で家康は死んだ。

「しかしまた同じ手で……」

「単純ゆえに対処が難しい。無論その防備の横をすり抜けて攻撃できればそれが最上だが、おそらく信玄はそんな事ができる戦場は選ばん」

「ではどこを」

「桶狭間だ」




 桶狭間。




 かつて、織田信長が五倍とも十倍とも言われている今川義元軍を討ち取った戦場。




「しかし桶狭間は尾張と三河の国境では」

「ぶしつけだが今の徳川は一体いかほどの兵を動員できる?」

「六千程度かと……」

「武田は三万はくだらん兵で来る、どう安く見ても二万五千だ。六千を正面からぶつけても大した妨害にはならぬ」


 武田の大軍が動いた場合、徳川に妨害する自由はない。ちょっかいぐらいはかけられるだろうが、その場合織田を置き去りにして徳川を叩き潰される危険性がある。


「織田の栄光の地である桶狭間を汚す意味は武田にとっても大きい。無論徳川家にとっても独立の始まりだからな」

「しかし他に場所は」

「ない。と言うより信玄が許すまい。三河の国境に戦場があった所で、信玄は強引に突っ切って来る。あるとすれば岡崎城を攻める形になるが、それだと織田は良いとしても徳川がまずかろう。先に述べたように、岡崎を焼けば武田はもう勝ちなのだからな」


 戦の勝敗と言うのは、実に難しい。

 侵略側は領土を奪い、防衛側が領土を守ったから勝ちだとか言う単純な物でもない。秋葉街道の戦いでも、徳川は家康と浜松城を失うと言う決定的な大敗を喫した一方で、武田軍もかなりの犠牲者を出した。勝利ではあるが、犠牲者の数を思えば素直には喜びきれないはずだった。

 ましてや兼山城東の戦いなど、武田は武田勝頼、織田は明智光秀と足利義昭を失った上に武田は大した領国を得られないままとなればもうどっちが勝ちかわからない。


「桶狭間まで来れば武田は岡崎を焼かぬと?」

「焼かぬ。もちろん武田の目標は岡崎だが、それ以上に織田を負かす事を求める。この信長を敗軍の将にし、それから岡崎を狙ってもおかしくはない。岡崎に迫れば信長の名を汚しきる事は出来ぬ」

「まさか信玄の目論見は!」

「そう、余の命よ」

 

 ご大層な言葉だが、さほど驚く事でもない。信玄にしてみれば、信長の命こそ最大目標だ。

「信玄と張り合う気ですか!その必要は!」

 だが信忠らからしてみれば、わざわざそんな無理心中に付き合う必要もない。

 織田と武田では織田の方が圧倒的に大きく、信長の代わりに戦場に立てる将など山といるはずなのだ。

 


「奇妙!」



 だがその正論に対し、信長は今日初めて声を荒げた。



「確かにそなたの言葉に反論する気はない。


 だが安土城はこの織田信長が何をして来たか、それを見せつけるための城だ。

 信玄のみならずすべての人間に、信長とはこういう存在であると見せつけるための城となる。

 それを自らの目で見届ける事ができるか、多くの屍を築き、その上に時代の中心に立った余の。

 これは、余にとっても最後の試練である。織田に連なる者が、枕を高くして眠れるかの!」



 織田にとって最後の難敵が武田である事は、もはや周知の事実だった。

 毛利は確かに巨大だが決して強大ではなく、どちらかと言うと隙の多い家だった。庇護していた尼子勝久や備前の宇喜多直家などその気になればいくらでも利用できそうな種が多く、さらに毛利自身が西方志向なのでさほどこちら側には熱心ではないはずだった。


「武田の御家に穴を開けると……」

「それは理想だがな。残念だが今の武田は一枚岩だ」

「ではその武田を壊すために信玄を……!」

「無理だ。信玄はもう次を決めている」

「ではその次を!」

「今万が一のことがあれば余計に団結する。とにかく今はこちらも一枚岩になる事が大事だ。

 ゆえに、信忠。そなたに当主を譲る前に、余から最後の命を下す」



 信長は着座して足を直し、皆も同じようにさせた。




 当主としての最後の命令——————————それは安土城の施工図通りの築城、桶狭間への織田信長自らの出陣——————————そして。



「そのような!」

「魔王の命だ。信忠にはできぬ、な」

「しかしそれで……!」

「証拠ならある。その命を実行せねば、この先はない。織田も徳川も信玄により粉砕される」


 魔王の顔になった信長の口から飛び出した言葉に、座は一気に引き締まった。


 実に信長らしい、一つの命。


 魔王らしい命。


「わかりました」


 そしてその命を真っ先に飲み込んだ存在。



 その全てが、織田家臣団にとって重たかった。

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