織田信長の本腰
同じく天正三年二月二十七日、京の本能寺。
信長もまた、信玄と同じように重臣たちを集めていた。
ただ信玄と違い、信長の左右に織田信忠と徳川信康が着座し、その前に他の重臣が並んで座っていた。
「面を上げよ」
柴田勝家、羽柴秀吉、池田恒興、滝川一益、丹羽長秀、一列後ろに前田利家、森長可、蒲生氏郷。
加賀を守る佐々成政と尾張を守る佐久間信盛以外は、ほぼすべてこの場に揃っていた。
「本来なら正月でも集めたかったが、何分尾張住まいに慣れてしまっているとな……修理はよくやってくれた」
「幸甚でございます」
「畠山も神保も、姉小路もすんなりと服した物だ」
「それについてはわしではなく、この利家と成政の働きでございます。まさか姉小路まで服属させられるとは。それにしても雪と言うのは何とも難儀ですな」
北陸を担当していた柴田勝家は加賀・能登・越中、さらに飛騨の四ヵ国の民を安んじるために必死に動き回った結果、全てが終わる頃には雪に埋もれていた。
一応美濃の岐阜城に本拠を置いていた信長だが、生まれも育ちも尾張清洲城である。残る連中も滝川一益を除けばすべて尾張出身で、一益も伊勢出身だから雪には慣れていない。故人の明智光秀は美濃出身だが美濃が山国だと言っても北陸には及ばない。
「備前はどうだ」
「それがしもそれなりには慣れたつもりでしたが、一乗谷に暮らし、さらに柴田様と共に加賀に行ってみると文字通りの別世界でした」
「ふむ……そうか別世界か。それは良い……また見聞を深められた……」
後方に端座していた長政の言葉に信長は素直にうなずく。その顔に魔王の二文字はなく、実に真摯で寛容な君主様だった。
もっとも、その顔が見られたのはほんの数秒だったのだが。
「さて、ほどなくして武田との和議の二年間が終わる。この間に武田がどうなっているか、改めて申し述べる」
信長は足を組み直し、いよいよとばかりに口を大きく開く。
「武田は一昨年、我らとの和議からほどなくして川中島にて上杉謙信と激突。いつも通りの小競り合いかと思いきや、激しい戦いとなり、武田は謙信を含む主だった面子を討ち取り、それ以上に上杉の兵を殺しまくった。一万五千だった兵は、信玄により誘い出され退路をふさがれ、かつ降伏も許されなかったため二千になった」
「…………」
「その戦いぶりに危惧を覚えた小田原の北条は武田との盟約を破棄し一方的に躑躅ヶ崎館の攻略をたくらんだ。まあ武田が川中島の戦で上杉景虎、ああ氏政の弟を殺したと言う大義名分はあったからな。だが結果は失敗、止めたのは信玄ではなくあの信勝だった」
信勝と言う言葉と共に、森長可のまぶたが動き出す。あの兼山城東で直に顔を見た長可からしてみれば、たまらなく不愉快な小僧だった。敵とは言えそれ相応の敬意を払ってしかるべきだった信長に対し武勇など振るいようのないくせに吠える姿は、実にみっともないと氏郷にしょっちゅうこぼしていた。
「おい長可、もう済んだ事だ」
「申し訳ございませんつい……」
信長から制止されてなお長可は目を光らせ、東の方を向こうと足を直そうとする。
「話を続けるぞ。それで話が前後するが川中島の前後、おそらくは我々との戦いからほどなくして武田信玄は隠居を決め込み、信勝を当主に祀り上げた。信勝は先に述べた通り当主としての初陣を見事飾った。言うまでもなく信勝自身の初陣は我々との戦であり、そこに続きこの成果を上げた以上反発は少なかろう」
「我々はしてやられたと言う事ですかな」
「筑前の言う通りよ。それに勝頼だ、余とした事が甘く見ておったわ」
「わしも驚きました、長連竜からその噂を聞きまして」
武田勝頼は信長を討ち自分を信玄の後継であり信玄以上の存在だと見せつけるため禁薬に手を出し美濃で暴れ回った、その過程で出くわした事により明智光秀は斬殺され、尊厳すら踏みにじられた—————
と言う「噂」がいつの間にか京の町で広まり、尾張や能登まで届いていた。流言飛語とか言うが、根も葉もある話を流布されてしまうと打ち消すのは難しい。信長にしてみれば信玄は非道な手で勝頼を消した事にしたかったが、こうなってしまうとその印象を上書きする事も出来ない。もちろん征夷大将軍様殺しの罪は軽くないが、武士の長が戦場に出て、それを武士らしく討っただけと言う事でなんとなく許されると言うかうやむやにされているのも事実だった。
「まあとにかく、その後はさすがにおとなしくしていたようだが、昨年になって兵が立ち直ったのかまた侵略の虫がうずき出し、北条に攻撃をかけた。事もあろうに北条にとって武蔵の本城とでも言うべき城を攻め、その城を焼いて逃げ帰った。と言うか、焼き討ちするだけして帰ったと言うべきか。物資も相当に奪ったようだ」
「それこそ野盗ではございませんか」
「だがその野盗に伴い関東の反北条勢力が動き出し、北条はその対処でいっぱいいっぱいでありその間に西武蔵は武田領となってしまった。無論小田原からも北上を狙っているようだが上野が武田領になってしまった以上簡単には行かないようだ。修理」
「ええ、もはや上杉は残っておりませぬ。上野にて上杉景勝は文字通り磨り潰されたようです」
「上杉残党は回収できたのだろう」
「直前に内乱があったとかで、数にして三百ほどですが……」
「良い。彼らはほぼ最後の上杉だからな」
改めて、上杉が滅亡したと言う現実がのしかかる。その上に北条が武蔵を維持できるかわからないほど追い詰められている以上、織田以外に武田に正面切って対抗できる勢力はない。
「ですが織田とて全く傍観していたわけではなく、むしろ好調でしょう!」
この空気を壊すように信康が吠える。
「他にする事がないだけだ。まあ働いていたのは家臣たちだがな」
信長は自嘲するが、実際織田だって一年間ぼーっとしていた訳でもない。
信忠はあの戦のあと一益共々顕如の息子の教如と下間頼廉を失った本願寺を本格的に追い詰め、そして本願寺が動けなくなっている間に鈴木重秀と土橋守重を失った雑賀衆に対し投降を呼びかけ、重秀と守重のように内輪揉めを起こさせまくり、その上に一益が把握していた志摩の九鬼嘉隆率いる水軍に南紀伊を攻撃させており、陸海路とも攻撃を受けていた雑賀衆は次々と投降か討ち死にか、あるいは強引に山を越えて大和に亡命しようとして松永久秀の手の者に絡めとられ、そのまま信長にいけにえとして差し出された。
この状況に顕如は完全に戦意を失い、信徒たちの安全を保証する事と信仰を阻害しない条件で和睦。僧兵たちは完全に武装解除され、織田の配下の一寺社として生き残るだけになった。
そして北では羽柴秀吉が丹波の豪族たちをゆっくりと攻めていた。
当初は丹波も頑なであったが豪族衆が援軍として求めた丹後の一色義道と言う三官四職の四職の家、自身の庇護下にある征夷大将軍・足利義信と義道と同じ四職の赤松家の赤松祐高の手によって密かに降伏させ、赤井悪右衛門と言う闘将を討ち取ってからは流れが変わった。その後も秀吉は時に激しく、時に優しく着実に攻め、雪の降る間際に丹波を攻略。この影響を受けた但馬の山名豊国も織田に降り、秀吉は一人で三ヵ国を手に入れた計算である。なおこの功績により秀吉は若狭と東丹波を手に入れており、石高にして三十万石近く増えている。
「毛利はどういたしましょうか」
「毛利は但馬への執着は弱い。ただ播磨にはこだわってくる可能性があるのでそちらの守りを固めれば大過はなかろう」
但馬を手に入れたとなると西の大勢力である毛利が気になるが、毛利とて織田と言う分厚い壁に立ち向かうよりは西の方がうま味が多い。三国時代とも言われる九州は混戦の地であると同時に乱入の余地のある土地であり、明や朝鮮にも近い地である。自分が毛利ならば狙いは九州だろう。だが瀬戸内海も支配している毛利にとっては播磨を抑えられるのは面白くなく、織田と関わって来るとすればそっちだった。
「小寺官兵衛とか言う知恵者がおりましてな、その彼を現在進行形で懐柔しております。かの者に任せればとりあえずは安心かと」
「そうか。それにしても、奇妙も筑前も、皆よくやっている……」
満足な顔の信長だったが、将たちはやきもきしていた。
あのせっかちなはずの信長が、なかなか本題に入ろうとしない。
先ほどからここ二年間の織田と武田の勢力拡大を振り返っていただけで、その先の武田との戦いにはまるで触れようとしない。
「それならもう、余も余の夢に向かっても良さそうだな」
そんな信長の口から出た、夢と言う言葉。
「それは……」
「新たなる城を作る事だ。織田信長と言う人間がいかなる存在であるか、この世に示すための……!」
信長は両手を大きく広げ、これまでになく嬉しそうに笑った。
「そして……余は新たなる城、安土城のために生きる。だから織田は奇妙、いや信忠にすべてを託す」
ほんの一瞬、意外と平凡な夢に拍子抜けしていた家臣団は、その次の言葉でいっぺんに黙ってしまった。




