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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第十一章 川越決戦
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風魔小太郎の消失

「武器庫はどうした!」


 武田軍の攻撃を必死に受け止める氏照だったが、その声に応える人間はいない。


 ついに焼け落ちた二つ目の門を乗り越え、武田の兵たちは着実に迫って来る。


「こうなればありったけの兵を出し、何が何でも耐え抜く!」



 笛吹けど誰も踊らない。兵たちは消火活動に駆けずり回っているばかりで、誰も西門に来ない。


 いや消火活動しているだけならばまだいい方で、中には物資を持ち出して逃げ出している兵までいた。

(川越城はもう終わりだ!)

 その言葉を内心で叫びながら、多くの兵たちが消えて行く。忠義心がある者は他の北条の城へと逃げ込んで援軍を求め、忠義心がない者は流民となるための食糧や金銭の代わりになりそうな物を収奪し、これを機に武田に降ってやろうとか考えた連中は手土産を持参しに行く。


 —————要するに、何の違いもない。




 そんなだから、

「松田はどうした!武田の進撃もさすがに止まっているのだぞ!今しかないのだ!」

 氏照の虚しい叫び声に突っ込みを入れる反応さえない。


「兄上…」

「なんだ!」

「尾州はもしや……」

「ああもうそれならそれであきらめも付く!とにかく何が何でも耐えるのだ!」


 氏規がようやく干渉した所で、頭の良すぎた氏照には嘆く時間すらなかった。


 松田憲秀はもう、この世にいない。

 兵たちは残っているだろうが今の今まで報告もできないような有様である以上もはや「松田軍」は機能不全なのだろう。

 それが「氏照軍」なり「氏規軍」になる事ももう期待できない。


 気が付けば三千近かった西門防衛軍は千いるかいないかになっており、その千もすぐ九百や八百になっても笑えない。




 さらに

「景勝は死んだ!」

 という声が再び川越城を取り囲む。今度は単発ではなく、文字通りの連呼。


 先ほど虚報だと聞き流してから思わぬ間隔で飛び出したその声に、兵たちはますます精神の平衡を失う。本当に嘔吐する兵まで出る始末であり、だったら首級でも何でも見せてみろとか言えないほどに氏照の胸は詰まり、それ以上に頭と喉が詰まっていた。


 おそらく、いや間違いなく本当なのだろう。

 本当でないとしても、本当だと思わせる程度には言葉が重い。




 いや、軽い。



「もうやめだ!俺は逃げるぞ!」

「兄上!」


 ついさっき耐えると言った口で、氏照は逃亡と言うか棄城を宣言した。


「弟よ、この戦は完全な負けだ!こんな所で死ぬ気か!」

「まさか…!」

「その通りだ。今はもう自分の命を守れ!それが、兄貴の、いや北条の将としての命令だ!」



 氏照は、全てを理解した。


 上杉景勝が、自分たちをまっとうに救おうとして、武田の毒牙にかかった事を。



 おそらく連中の言う通り上杉の主だった連中は信玄の罠に絡めとられ、雁首揃えて謙信の下へ旅立ってしまったらしい。

 それこそ上杉の終焉と援軍の不到来を意味するそれであり、それ以上にはったりとして出す意味のない言葉だった。武田は景勝の動向を把握できるが北条は難しく、ましてや川越城にまで正確な情報は入りにくい。北条高広が武田に尻尾を振っているのが原因だが、尻尾を振らせられなかった氏照たちが悪いと言えばそれまでなのも確かだった。

 だから景勝が死んだとか言う虚報をばらまくのは非常にたやすく、氏照たちもその手の虚報に動じないように言い聞かせていた。


 それに気づかない、武田ではない。




「逃げるのか!」

「…………」


 武田の挑発にも応対する気力もない。武士の情けとでも言わんばかりに追う事をしない武田軍に向けて後頭部を見せつけながら、最後まで残っていた兵たちは去って行った。

 文字通りの、敗残兵だった。




※※※※※※※※※




(何もかも、してやられた……)


 風魔小太郎は、一足先に川越城を脱出していた。

 だが小田原城に帰ろうともせず、氏照たちを守る事もしない。


 多くの逃亡兵と同じように、食料を抱え込んでいた。



 体の傷は、さして深くない。


 丸一日休めば、すぐに塞がる。



 だがそれでも、小田原城に逃げ込む気力は戻りそうにない。


 力なく座り込みながら、北西の方ばかりに視線が向かう。


(今さら責任を取ってとか格好を付ける気もないがな……上杉軍がほぼ殲滅された事は間違いないだろう。それもおそらくは一兵たりとも残さぬ勢いで……)


 小太郎の思った通り、信玄と信豊、さらに真田兄弟は挟撃状態になった上杉軍を徹底的に叩いた。







 強引に後方の壁を突き破ろうとした斎藤景信と柿崎晴家の二世二人を真田兄弟が正確な兵の配置で誘い込み、一騎打ちに持ち込めると見せかけて横から銃を討たせて落馬させ、景信はそのまま馬に轢き殺され、晴家は真田昌輝の刃によって父親の下へ向かった。


 続いて本庄繫長である。早くに撤退を勧めていた繫長であったが、本人は兵を守るために信豊軍に真っ正面からかかっていたせいで撤退が遅れ、後ろを向く事ができない間に武田軍の的のようにされた。それでも自身の武勇で何とか耐えていたが、兵たちの質が違っていた。

 三方からだった攻撃は四方になり、五方になった。もちろん死んだ兵たちがいなくなった所に武田軍が入って行った結果であり、欠損を補う兵などいない。いたとしても普段は軍役に関わらないような零細農家の子なので戦闘力はなく、死体が増えるだけだった。

 それでも必死に繫長も敵を薙ぎ払うが、五本の槍を受け止められるほど強くはなかった。

 三本を薙ぎ払った所で二本が左腰と右胸に刺さり、痛みが体中を走る。それでも歯を食いしばり下手人に槍の先っぽをぶつけるが、その命を奪うどころかあてる事すらできなかった。そしてその最後の一太刀を凌ぎ切った兵たちの次の一撃により、本庄繫長もまた上野の地に散った。


 また色部長実は二世たちが開こうとした穴を広げにかかったが、不幸にも景信と晴家を狙っていた弾が長実の方へ飛び、本人は避けたものの側近の兵に当たってしまった。

 これにより色部軍は統制を失い、後方に向けて一挙に突っ込むだけになってしまった。

 それでも上杉としては比較的強い所が残っていたので逃げ切れた兵は逃げ切れたが、長実本人は駄目だった。こうなれば景勝だとばかりに元後陣の真田軍が薄くなった色部軍へと斬り込み。あっという間に長実はむき出しになってしまった。

 そして振り返る暇もないまま長実は攻撃を受け、三太刀も振れないままこの世を去った。


 そして新発田重家は、景勝と共に左側を懸命に攻めていた。

 真田軍が方円の陣だったゆえに左右が微妙に薄いことを見抜き、その盾を剥ぎにかかっていた。だがその薄いはずの、二百五十もいないはずの盾を千人が敗れない。色部や本庄と同じくそれなりに強いはずの軍勢が部隊の統制が取れていないはずの真田を抜けず、逆に押し返された。

「ああ与六!」

 そこで後方に回ろうとした所で景勝の悲鳴が耳に入って一瞬動きが止まり、数に任せて景勝のさらに西側に回っていた武田軍の攻撃が飛んで来た。

 ちなみに信玄と信豊が率いていた武田軍の数は七千であり、余分な部隊を裂く余裕はあった。

 その余計な部隊により新発田軍は完全に崩壊、重家もまた甲陽菱の波に呑まれて消えた。


 最後に残った景勝もまた、自分の位置を見破られてからは簡単に包囲された。

 信玄に向けて特攻する事もできないまま、先ほど与六を殺した少年と戦う事を強いられる。

「おのれ!」

 大声と共に斬りかかるが、簡単に受け止められる。

 精悍な顔立ちをした、武士の卵と言うべき少年。

 このまま放置などできぬとばかりに気合を入れようにも次々と兵が敗れ取り囲まれそうになる。

 必死に少年を含む敵たちを薙ぎ払う中、景勝の目に一枚の旗が飛び込む。

 さっきから存在していた見知らぬ旗。

 まさか!

 そう景勝が思うと同時に、やけに早い刃が武田軍から飛んで来た。

 焦ったと思った景勝はここぞとばかりに武田の雑兵を斬ったが、その奥から出て来た刃により右手を負傷、姫鶴一文字を落としそうになってしまい、そうして体勢を崩した所に少年を含む数本の刃が飛んで来た。

「死なぬ……!」

 刃をその身に受け、血を吐きながらも最後の一太刀を加えようとする。

 だが武田軍がそれを許す事などなく、第四の攻撃により景勝は謙信の下への片道切符をつかむ事となってしまった。


「さて、徹底的に叩くのだ」


 そして信玄は平板に殲滅戦の決行を開始させた。

 それでもある程度わかっていたからなのか景勝の死で戦う目的を失ったからなのか早めに逃げ出す兵もいたため、川中島ほどの殺戮にはならなかった。それでもここで死ぬとばかりに特攻をかける兵もおり、少しばかり武田家も出血した。

 と言っても結果的に上杉軍は色部軍中心とした三千ほどが逃げ切ったが、景勝以下主だった将たちはほとんど全滅。武田の死傷者七百に比べるとあまりにも多大な損害だった。







「殿……」


 つい口を突く、殿と言う言葉。

 

 氏政ではなく、北条氏康。


 決して自分たちに偏見など持たず、自分を重臣同然に扱ってくれた主君。


 その事については氏政にも不満はなかった。

 だが、自分と氏政しか知らない秘密を知ってなお大きく動かない氏政に対する不満はあった。


(あの薬により、信玄は病から逃げ切り力を手にした。だがしょせん薬は薬に過ぎない事を知り、自分があまり時間のない事を認めた。その上で……)


 自分でもどの程度まで効果があるのか把握していない、風魔の秘薬。


 そんな物に飛びつくか否か自分なりにその段階で賭けだったと言うのに、服用する方も服用する方だったとは思う。




 だがその結果を不成功と言う人間など、現状一人もいない。







「………………………………」







 消えた。







 風魔小太郎は、沈黙と共に消えた。




 自分の渡したそれが巻き起こした全てを見届けたと言わんばかりに、小太郎は戦場から消えた。







 痕跡と呼べるのは、氏康に当てたごく短文の感謝な文だけだった。




「北条の繁栄、永遠なれ」と言う、極めて平凡な。


 その文の乗った短冊が見つかるのか否か、誰にもどうでもいい話だった。




 もはや、川越城方面での戦は終わったのだから。

次回が事実上の最終章!と言う訳で今回は二日間お休みをいただきます!


武田と織田の決戦の行方はいかに!?

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