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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第十一章 川越決戦
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武藤信幸の才能

「なんだその顔は、眠いなら寝ろ」


 信廉に対し、昌幸は無言で首を横に振った。

 もう寅の刻(午前四時)になりつつあると言うのに、戦とは違う興奮に支配され瞼がちっとも重くならない。


「信じられないだけです。お館、いやご隠居様がそこまで見事に決めるとは」

「これこれ、ご隠居様ではなく信幸だろうが」


 昌幸はなお、信じられなかった。

 派手に攻撃させておいてその隙に忍びを城へ入れると言う策そのものはありふれていたが、それをここまでできるのには正直あきれていた。


 さらに言えば、武田信玄の戦果をあそこまで派手に断言させたのも信幸である。

「で、実際戦果は」

「便りのないのが良い便りと言う事で察せ。まあ真田忍びは唐沢とやらだけでもあるまい、そなたらの兄だって相当な面子を抱えているはずだ」

 実際の所、まだ昌幸と信廉は上野方面の戦果がどの程度の物か聞いていない。厩橋から川越までその気になれば数時間で行けなくもないが、だとしてもあそこまで自信満々に言えると言うか言わせられるのはある種の才能だった。

「でしたらまずそれがしに」

「そなたは満足しそうだろう、と言うか満足するようしつけられているだろう。この叩き買いがどういう物かも知らずに」

「それがしが聞いていたらもういい加減落ち着けと言って首根っこをつかんででも引き戻していたでしょうな、確かに!」


 信幸は今もなお、川越城を見ながらはしゃいでいる。そんな坊やを助けるために、次々と惰眠を貪っていた人間たちが動く。


「信長は理を重んずる。確かにそれは正しい。だが理の外にある力は確かに存在する。それを甘く見てはならぬ」

「難しい話です」

「全くその通りだ。どちらに寄りすぎても人は破滅する。情に寄れば理を見失い、理に依存すれば情に寄って不興を買う。信長はその点見事な物だ」

勝つための理想を求めた先が織田信長だと言うのであれば、やはり織田信長の天下は揺るぎようがないのか。

「だが武田には一体感がある。その一体感をもって戦えば結果は出る」

「簡単におっしゃいますな」

「織田は個性が強すぎる。一人で信長の代わりが勤まる人間が多すぎる。確かにそれはそれで恐ろしいが、それこそ山に登らせる船頭たちだ。今はまだ信長がいるからいいが、信長がいなくなったら新たな船頭をめぐる戦いが起きる可能性が高い」

「それでも国力の差は圧倒的ではないのですか。ましてやその船頭が信長よりも強力だったら」


 目の前の戦場については覚悟を決められた昌幸だったが、武田家の先行きについては不安しかない。織田との和議はあと一年だが、その後確実に待っている織田との戦いで自分たちが立っていられる図がどうしても浮かばない。


「甲信はそんなに肥沃な地かね」

「はあ?」

「信長は自分に無害であればわざわざ手を出さぬ。金山すらなくした甲信にそんなに魅力はない。東夷の末裔の甲斐源氏など、攻めて来なければそれでいいのだ」

「それはちょっと!」

「もちろん遠江駿河については少し危ういかもしれんがな。そのために我々は、雪に包まれる国を取るのだ。信長にとっての不毛の大地をな」



 不毛の大地。


 それはおそらく越後、いやその先の陸奥・出羽。



「まさか!」

「羽柴秀吉とか言う農民から一国の主を掘り当てたのが信長だ。同じ事ができぬと思うのかね」

「ですが……!」

「そういう事だ。我々はまだまだこき使われねばならぬ。兄上にも、孫にも。

そう言えば蠣崎とか言う陸奥のさらに北の島の領主がいるらしいぞ。まあ詳しくは知らんが」

 そしてさらにその先まで示されてしまった昌幸は、深くため息を吐くしかなかった。

 田舎侍の自分でさえも、陸奥や出羽が信濃以上に雪深いこと、そしてずっと広大である事は知っている。そこを全部武田領にするために、いったいどれだけ戦わねばならないのか。


「どうした?ようやく眠くなったのか?」

「そのような事は。ですが一体いくつの城を焼けばよいのかと」

「知らぬわ。確かなのは武士とはそういう仕事だと言う事だ。農民よりずっと難しく、ある意味ずっと簡単な仕事を任されているな」

 信廉が親しげに背中を撫でたおかげか、ようやく気が緩んだ昌幸に眠気が戻った。もちろん首を上げ戦が終わるまで起きていようとするが、どうしても欠伸が止まらない。

「川越はもう時間の問題だろう。氏照をして乱れた兵の心はどうにもならん」

「これも真田忍び、兄上たちの……」

「いい加減自分の子を認めたらどうかね。もちろん忍びも優秀だが、玄播が言うには普通そこまで求めるような主人もいないとかなり張り切っていたらしいぞ。武田信勝の側近の直属ともなれば文字通りの出世街道だからのう」




 実はこの時松田憲秀は、氏照の部下に偽装した忍びによって冥府の住人になっていた。


 北条の兵士に偽装した忍びは、氏照と氏規によってぐっすり寝ていた憲秀の部屋に忍び込み布団ごと突き刺され、悲鳴も上げられないまま憲秀は絶命した。


 忍びと聞いてこのような暗殺を想起する人間は多いが、実際に行われる事はほぼなくある意味はったりと言うか宣伝文句だった。風魔小太郎が春日山城に侵入したのも暗殺と近似した行為だったが、それでもそんな事ができたのは小太郎の実力と春日山城に残っていたのが武田に強い所を殺された上杉軍だったからに過ぎない。

 信玄が重用する歩き巫女だって情報収集が主な役目であり、武術はともかく暗殺まで行うような人間はほとんどいない。なればこそ織田に絡めとられた跡部勝資を暗殺しようとして失敗した訳だが、それでも信玄はさほど気にしていなかったのが全てだった。




「しかしなぜまた風魔小太郎が川越城にいると、そしてこの本陣に攻めて来ると」

「北条は長引けば勝ちだと思ったか?わしもそなたも、そして氏照もそう思ったのじゃろう。だがそれでは武田はとっとと引き上げてしまう可能性が高い。いずれまた来る、それでは解決にならんと思ったのじゃろう」

「さらに上杉ですか」

「そうだ。上杉と言う今やらねば来年、下手すれば今年中には消えてしまう可能性が高い家が味方である以上、それを見捨てれば面子に関わると言うのもあるからな」


 この時、北条氏政は上杉景勝に上野を譲渡すると言う書をしたためていた。

北条にしてみれば弱り切った上杉を少し生かして武田の盾にしておいて、房総半島や下野などに当たりたかった。そのためにも、上杉に対して誠意を尽くさない訳には行かなかった。

「この戦いをどうしても勝利で終わらせるために、風魔小太郎が必要だった……」

「そう兄上に申しておったぞ」

「そんな!」

「ああ信幸は信勝殿の家臣であってそなたの家臣ではないぞ。もはやそなたも信幸も、あと弁丸も同じ信勝殿の家臣じゃからな」


 信幸はいつの間にか、そこまで見通せるようになったと言うのか。


「これはどうも、まだ幼子であると甘く見ておりました!」

「その言い草からすると、まだ甘く見ておらねば負けぬと言うつもりのようだな」

「それは無論!それがしとてご隠居様の下で!」

「それで良い。上も下もなく切磋琢磨し、高め合って行かねばならぬ」



 親子ではない重臣の目を養い、何とかして独り立ちさせねばならない。

 十歳とか言う年齢はもう忘れ、真田信幸と言う個人を見てやらねばならない。


(これで武王丸、いや太郎様のような愛嬌でもあればいいのだが……)


 去年から論戦を吹っ掛けては相手を言い負かす事を楽しみにしてたような、真面目な跡目の顔をした悪戯坊主。

そのまま気障ですかした軍師気取りになって行くかと思うと、どうしても足元を掬われる図が思い浮かんでしまう。信長と張り合いながらも小便を堪えていた信勝のような所があればもう少し兵たちにも人気が出るだろうとか、客観的に見てまだまだ欠点はあった。



「そう言えば信幸と来たら、弁丸に向かって十回は無事で帰ろうって声をかけてたぞ。本人に言ったら八回だと言っていたがな」

「あはは……」


 もっともそんな危惧を軽々と凌駕する程度には信幸は兄であり、子どもだった。



「兄上も期待してるのだろう。そなたには悪いが弁丸も今頃は」

「それは存じておりますので」

 そして昌幸もまた、弁丸の処遇に対し軽くいら立ちながら言い返す程度には子どもだった。

「なんだその態度は」

「ご隠居様の言葉に小姓が逆らえると言うのですか」

「小姓か、よく言う。最近見つけた小姓を送り込んだと言うのに」

「確かにあれはかなりの才覚です。ご隠居様に育てろと言われて育てた結果、たいして世話もしていないのに大きくなりまして、正直悪い意味ではありませぬが手に負えませぬ」


 まだ十五歳なのか、もう十五歳なのか。八つの弁丸からすればとんでもなく成熟しているのかもしれないが、自分から言わせればまだ子どものはずだった。




「子守で終わる人生もありかもしれませぬな……」

「ずいぶんといい人生ではないか。天寿を全うして畳の上で死ぬなど、武士にとって最高のぜいたくであろう」




 信廉と昌幸は、この先の事に既に思いを馳せていた。


 信廉の言うように、最高にぜいたくな時間の使い方をしていた。



 そのぜいたくな時間に、上質の茶が運ばれたのは、ほんの二分後の事である。

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