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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第二章 浅井長政の答え
13/159

織田信長の殺戮

「ああああああああ……!」


 家康の死から、わずか十日後。信長が家康の死を知ってからわずか七日後。



 粗末な砦が、阿鼻叫喚に包まれていた。



「助けてくれぇ!」

「逃げ、逃げ……!」

「ガホッ、ガホッ……!」


 砦の住人たちの叫び声や咳が鳴り響き、さらに矢玉が襲い掛かる。

「やられる、前に……!」

 逃げ出そうとしていた兵もまた織田軍の矢により戒名を求める身となる。そうでない人間は火に包まれた砦の中で焼け死ぬより先に呼吸困難で倒れ、そのまま燻り殺される。

 矢から逃げたとしても弾が来て、弾から逃げたとしても次は槍だった。その全てから奇跡的に逃げ切った所で精神力と体力は尽きてしまい、倒れ伏して背中に槍を突き刺される。


 こんな事が、伊勢長島一帯で起きまくっていた。

 成人男性のみならず、一揆に参加した坊主俗人男性女性成人老人少年少女問わず、ただひたすらに無慈悲に殺された。

「この子だけでも!」

 と我が子を差し出そうとした母親をその子供もろとも刺し殺し、赤と黄色の池を作って水葬させた話は三つや四つではない。


 まるで一年前はるか西の比叡山で起きたそれとほぼ同じ事を、この場で死のうとしている人間たちのどれだけが気付いていただろうか。

「まさか、武田……!」

 そう叫んで死んだ農兵は、おそらく織田が武田への意趣返しのようにこんな真似をしていると思った。



 そして、それは半分だけ正解だった。



「一益。わしはおかしいと思うか」

「まさか。殿はただ比叡山と同じ事をしただけかと」

「違う。あの時は比叡山の売僧たちに裁きを下してやっただけだ。今回は違う」

「まさか徳川殿の……」

 徳川と言う言葉をぶつけられた信長は決まり悪そうに東に目を向けた。


「信玄は徳川殿の器を見抜いた。何があっても殺し、そして次世代の勝頼のために楽をさせようとした」

「……」

「余はかつて織田の人質であった徳川殿と遊んでいた。あの時から竹千代殿は従順ではあったが卑屈ではなく、勇猛ながら粗暴ではなかった。こうして魔王のようになっても変わらずに付いて来てくれていた…………」

 ため息を飲み込みながら信長は多くの魂を燃やした火をにらみ、その火を旗印とした男をにらんでいた。


「やはり、武田信玄……」

「そうだ。わしは信玄を甘く見ておった。自分の家の事しか見ていない、目の前の戦しか取れない力が強いだけの田舎侍だと。だが違った、あれは文字通りの虎だ、餓えていないのに餓虎になれる虎だ」


 ある時まではその見立てが正しかったはずだ。だが急にそれが変わったと言うのか、あるいは見落としていただけなのか。

 後者だと思いたかったが、前者にしか思えて来ない。


「何かが信玄の心を揺るがしたのだろう、それでこの信長しか見えていなかった所に視野が広がり、それゆえに……」

「これは徳川殿の弔い合戦であったと」

「まあな。信玄めがこの連中を当てにしていない訳でもあるまい、まあ一応老人もいたしな」

「残念ながら確認は取れておりません」


 この大規模出兵、と言うか殺戮の名目は「武田信虎討伐」である。

 かつて信玄により甲斐を追われてから流転を続け、この伊勢長島一揆の軍師となっていたと言う情報を得た—————事にして一斉攻撃をかけ、「信虎をかくまっている」連中を皆殺しにしたと言う訳だ。

 実際問題、信虎の所在はわかっていない。もう八十近いながら死亡はしていないようだが、それでも殺戮を正当化できるわけでもないはずだった。


「しかし兵たちもよくやっておる」

「お館様のお気持ちが伝わったのでしょうな」

「フン……中には武田信玄が悪いとかわめいていた兵もおったがな、まあそれはどうでもよかろう。

 この織田の真似をするか、天台座主め。よかろう、どっちがふさわしいか決めてやらねばなるまい……」


 東に強引に徳川家康を磨り潰した男あらば、西に罪のないはずの一揆衆を二度も焼き殺した魔王がいる。どっちも同じ事だ。天台座主とか言う仏教の責任者を名乗るのならばこの仏敵をやって見せろと内心から凄みながら、信長は焦土と化してい伊勢長島に背を向けた。




※※※※※※※※※




「ふざけるのも…………ふざけるのも…………大概にしろ!」


 もちろん、石山本願寺にこの悪逆非道が伝わるのに二日も要らなかった。

 比叡山に続く魔王の乱行に、僧たちの憤りは一挙に膨らんだ。


「住職様!今こそ織田信長を!」

「もうやっておるだろう。幕府、浅井、朝倉、後どれだけの勢力が我々と共にある」

「雑賀衆を!」

「もちろんそうだな。だが大和の事を思うと派手に動けるものでもない」

 摂津を本拠とする石山本願寺だったが、その隣にある大和の国の主である松永久秀と言うのが、それこそ絶対に本願寺と手なんか組めないような男だった。

「では伊賀の事を踏まえたうえでまず大和を」

 かつて征夷大将軍足利義輝を殺したのはまだ目をつぶれるとしても、大仏殿を焼いたのは許しようがない。仮に信長と敵対するとしても、いいとこ呉越同舟であっていつでも背中を撃ちますがとか言われてもお互い何も言い返せないほどに不仲だった。


「それも良かろうと言いたいが、松永はともかく筒井まで潰す気か」

「えーと……」

 だが半ば簒奪のように大和を支配している松永久秀はともかく、その久秀に政権を奪われている筒井家は僧兵の家柄で、本願寺としては織田の手先だからの一言で討滅するのは難しい。

「教如、何が一番大事かわかるか?いや言い方を変えよう、何が一番許せぬ?」

「それは御仏の徒を殺め続けた織田信長でございます!」


 口ごもった息子と言う名の人身御供に向かって顕如は舌を振るい、数珠を鳴らしながら迫る。


「ならばそのために動け。さもなくばその前に足元をすくわれるぞ。織田信長のみを敵と思え。信長に与せねば全て味方だと告げよ」

「はい…………」

「聞こえんぞ!」

「はい!」


 顕如の叫び声と共に僧たちは蜘蛛の子を散らすように去り、後には顕如だけが残された。



(耶蘇教徒を信長は気に入っているのか?いや違うな、朝鮮はおろか明よりも遠い国からここまで来るなどなまなかな存在ではない。そのなまなかでない存在を好いているだけに過ぎぬ。もし拙僧が仏の徒の中の頂点でなくば、ためらいもなく耶蘇教徒になってしまうような、な)

 少し前に九州の方にやって来て、最近この京の付近までやって来た耶蘇教とか言う教え。大日とかヤエスとか言う神を頂点とした仏の教えと似ているようで似ていない新たなる勢力の登場は、ある意味信長よりも大敵だった。

 だが信長を倒すのが最優先ならば、その存在も味方にせねばならない。


「信長の配下の耶蘇教徒ならばよし。されど信長の味方ならぬ耶蘇教徒まで敵にすれば戦いは長引く。そうなれば笑うのは信長のみ…………」


 顕如は残虐なる行いをやめない信長を自力で征伐できないどころか異教徒の力まで借りねばならない自分を不甲斐なく思い、同時にその事を教えきれるか分からない自分にも腹が立っていた。







「父上、いや住職はずいぶんと気弱になってしまったものだ」

「あくまでも織田信長めが第一と言う事でしょう」


 家康の死からちょうど十五日が経過したその日。本願寺から一万四千の僧兵が出陣を開始した。

 大将は本願寺住職の長男教如、副将は坊官の下間頼廉、それに雑賀衆の鈴木重秀が加わっている。

「目標は茨木城ってかい?」

 軽い調子で作戦目標を口にする重秀を血の気の多い十五歳の教如は見下ろすが、頼廉は冷静だった。

「鈴木殿が我々と仲深き故、住職様から聞き及んでおいでのはずですが」

「ああ、僧にはできない事をするのだな」


 この重秀と言う人物は人並みより少しだけ酒好きであり、人並みより大きく外れて女好きだった。酒と女こそ僧侶が一番避けてしかるべき存在であり、その方向であるいは重秀を嫌っている僧もいた。だが顕如は自分たちにない物を持ち合わせているとして重秀を好み、その力を最大限に当てにしていた。

「鈴木殿、それで話は飛びますが耶蘇教と言うのは」

「遠い国の教えらしいですけどね、俺には興味ありませんよ」

「それならば重畳です」

 教如はこの点も気に入らなかった。

 顕如からこの数日で口が酸っぱくなるほどに聞かされ、本人も一応口では決して耶蘇教徒だからと憎むなかれ織田の配下ゆえに憎むべしと僧兵たちに言い聞かせているが、自分自身が納得していないのだから言葉に重みが加わるはずもない。


「鈴木殿は御仏の徒ではないのですか」

「教如様!」

「やれやれ、落ち着いてくださいよ。この国に御仏の徒でない人間などほとんどおりませんよ。ただご存じのように御仏の徒にもいろいろいる物でしてね」


 道中でこんな風に喰ってかかる程度には血の気がある指導者を必死にいさめる頼廉と笑顔でかわす重秀の前に、目的の茨木城が映り込んだ。



「特にどうと言う事もない城だな」

 重秀の感想はまっとうかつありきたりな物だった。


 ついでに言えば、城主は中山清秀、副将が荒木村重。数はおよそ三千。

「近隣にある高槻城の城主和田惟長は織田方も家中が紛糾状態ゆえ援軍は望み難しとの様子、しかし来ないと言う情報もございませぬ」

「それで織田の攻撃は」

「現時点ではございません。あくまでも現時点ではですが」

 どこか奥歯に物が挟まったような頼廉の物言いに、教如は正直いら立っていた。

「まさかと思うが、説き伏せる気とか言わぬだろうな」

「ええ」


 そしてその決定的な一言と共に、教如の頭は沸騰した。


「そなたは異教徒に情けをかけろと申すのか!」

「最優先は信長でございます。信長を倒せるのであれば耶蘇教徒でも何でも良いではありませぬか、それもまた住職様の」

「ああわかったいって来い!」


 その「いって」が「行って」なのか「言って」なのか、あるいは「逝って」なのかなど教如にはどうでも良かった。

 あまりにも即物的で必死すぎる父親のやり方に、教如は腹が立っていた。



「茨木城の将兵に告ぐ。織田信長は比叡山に続き伊勢長島でも無辜の民を虐殺した。これは天下を治める主として俗人の目から見てもふさわしからぬ行いである。今すぐ世のため人のため、虐殺を行った織田信長を討つべし。本願寺は御仏の徒であるが、耶蘇教徒を決して粗略にすることはないと誓う。もし齟齬があらば、この下間頼廉の御首をもって償う」

「御仏の総大将が何を言い出すかと思えば、それは本当に顕如の意思か」

「いかにも、愚僧は住職様より織田信長に敵する者であれば耶蘇教徒であろうと構わぬと申し述べておられます。僧兵たちにも乱暴狼藉を行えばすぐ破門すると」

 

 頼廉が荒木村重に向かって述べたこの口上は、まったく盛りも削りもしていない顕如の言葉だった。顕如は信長が二度にわたって行った大殺戮を踏まえ、あくまでも標的を絞るつもりだった。余計な人間を殺せば信長と同じになってしまう、だったら逆のやり方でやるしかない。


「ありがたき心づかい、されどここにいる者は皆かつての僧たちの自儘なふるまいを肌身で感じている者たちの集まり。顕如殿がその気になったとしても末端までその教えが受け継がれているとは信じがたき者たちの集まりゆえ、ありがたき思いながらご遠慮させていただく」

「なればお互い血を見る事になってしまうがよろしいか」

「いかにも、覚悟の上である」

「なればそうさせてもらう、惜しいかな中川、荒木……」



 で、頼廉が結局こんな調子で交渉に失敗して戻って来ると、教如は嬉しそうな顔をしていた。

「よく生きていたな」

 茶化す気もなく素直にそう言えるほど、教如はこの結果を喜んでいた。


「話は通じるのですが立場は変わらないようです」

「まあ別にいい。これで堂々と行けると言う訳だからな」

「勝利を貪るって欲に駆られちゃいけませんよ」

「わかったわかった、どうか援護射撃を頼む」


 若き総大将の手綱を必死に抑えながら、重秀は雑賀衆を城へと近づかせて行く。


「いざっ、織田信長の配下を討て!」



 青年の声とともに、大半が坊主頭の軍勢は動き出した。

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