武田信玄の降臨
話をもう一度十時間前に戻そう。
二千の真田勢に対し上杉軍六千が攻撃をかけるが、兵の質の差もあり方円の陣への攻撃はうまく行かなかった。
景勝にしてみればこんな少数の軍勢に足止めされたくなかった以上、真田軍の左右を抑え込んでいる間に回り込み、側面及び背面から叩こうとしたわけだった。
そこに現れたのが、親の仇である武田信玄だったのだ。
「おのれ信玄!」
「真田を黙ってやらせるほどわしも人が良くないのでな。ちょっとばかり手助けをしてやろうと思って」
「貴様は兵を何だと思っているのだ!」
連戦に次ぐ連戦で疲弊している兵を連れ回し、さらに人殺しをやろうと言うのか。
いや人殺しそのものは自分たちだってやっているし、今の上杉軍が普段兵役に付かないような人間まで無理矢理駆り出しているような軍勢だから大きなことも言えないが、いずれにしても単純に信玄のことは許せなかった。
「川中島を屍山血河の地に変えたのはなぜだ。我が父を討ったのはわかる、だが一万三千もの兵を亡骸に変えたのはなぜだ。まるで小バエ一匹逃さぬかのように毘沙門天のしもべを狩ったのはなぜだ」
「文句ならば信長に言え。文字通りの根切りが一番有効な術だと教えてくれたな」
比叡山焼き討ち、伊勢長島一揆焼き討ち、さらに朝倉義景討滅戦。
信長はそのいずれでも、敵対勢力を徹底的に叩いた。義景討滅戦は浅井長政の寝返りと言う現象あってこそだが、それでも敵対勢力の兵士を大将から雑兵まで分け隔てなく降伏か死かの二択を迫り、幾多の理由で前者を選ぶ余地のない人間たちを後者と見なして次々と亡骸にした。
「優秀な敵は少ない方がいい。確かに優秀な敵が優秀な味方になれば大きいが、それでも上杉と言う土壌にはよき実は生らん。ならば更地にしてしまっても良いと思ってな」
「それは一体誰の責任だ!」
「謙信のじゃよ。あれは武田にも北条にも織田にも喧嘩を売りまくり、いずれにもなびかない民を育てた。大将の信仰もいいがほどほどにせんと昭烈帝を失った蜀漢になるぞ」
昭烈帝とは蜀漢の太祖、劉玄徳の事である。
自らありとあらゆる人材を情ではなく理によってかき集めた曹操、江南・江東の豪族の連合体の長として君臨した孫権と違い、劉備は劉備のカリスマによって人をかき集めた。その結果諸葛孔明以下劉備譜代家臣団が生きている内はまだ良かったが、孔明が死んでしまってからは劉備の志だけが独り歩きした集団に成り下がってしまった。この点はかき集めた人材の一人である司馬仲達に簒奪された魏や豪族連合のバランスを失って崩壊した孫呉も大きなことは言えないが、蜀漢はその劉備の志のためだけに暴走して滅亡したのもまた事実だった。
「謙信は確かに偉大だった。だが謙信はもうおらぬ。謙信ではない上杉を作るべきではなかったのか」
「ほざくな!」
「だがまだ余力が残っていてはまずい。成都がその後もそれなりの土地で居られたのは民が戦意を失い厭戦気分になっていてくれたからだ。
此度もまた、根切りにするとするかね」
根切り。
つまり、皆殺し。
「オンベイシラマンダヤソワカッ…………!」
この戦の敗北はこの場にいる六千の全滅、いや上杉家の滅亡。
そんな事だけは絶対に認めぬとばかりに、父親と同じ言葉を唱える。
「毘沙門天よ、今、我々に……力をっ!!」
景勝は、この日が初陣となる一本の刀を抜く。
銘は、姫鶴一文字。
川中島で失われた父親の愛刀を模して作った、上杉景勝の愛刀。
「やれやれ、謙信と言う神の名にあくまでもすがるか……好きにせよ。わしも好きにさせてもらうからな」
その愛刀の輝きも毘沙門天の名も聞き流す信玄に向けて、景勝は人生で最大の大声を出しながら突っ込んだ。
「そこをどけ真田!信玄を今こそ討つのだ!」
「進め!謙信公のために!」
「謙信公万歳!」
川中島に散った男たちの子ども、斎藤景信や柿崎晴家。
彼らもまた、景勝に続く。
景信や晴家だけではない。
色部長実も、本庄繫長も、新発田重家も。
すべての上杉軍の兵たちが、信玄の首級ひとつを求めた。
実に美しく、甘美で、一体感に満ちていた。
—————だが彼らの芸術は、一人きりでは完成できなかった。
「では、後はよろしくな」
血しぶきを流して散るべきだった悪役・武田信玄が、あっという間に後方に下がってしまった。
その前方を守るのは、悪の手先のはずの武田軍。
いや、真田軍と、見慣れぬ旗。
「やいやいやいやい!ここまで来いってんだ!」
そこに飛んでくる、チンピラそのものでしかない声。
行ってやろうじゃねえかと言い返すには、やけに甲高い。
いずれにせよ、あまりにもこちらの覚悟に不釣り合いな声。
「何のつもりだ信玄!」
「何のつもりも何も、わしはただ敵を討ちに行ってるだけだがね。とりあえず数は揃えておいたからしばらく遊んでおいてくれ」
ふざけた調子を崩さないまま、信玄は消えた。
「殺す……!貴様ら全員斬り殺す!」
景勝は闘志を入れ直すが、それでも信玄の姿はどこにもない。
目の前にあったのは真田と、見知らぬ旗と、そして当たり前のようにあった甲陽菱。
「恨みはこちらだってないわけではない…!」
若々しくも重みのある声が、いきなり割り込んで来る。
誰何の思いを抱く間もなく、武田軍が千人しかいない景勝軍に突っ込む。
しかも方円の陣の後方の軍勢を無視して信玄に突っ込んだため、景勝軍は挟撃の状態に陥ってしまった。
「武田めぇ!」
「ここでとどめを刺す!」
上杉軍の武将も真田軍を強引に突き破り、景勝軍の援護に回る。
信玄を討てればよしとばかりに、これまでの全ての無念をぶつける。
だが武田軍は冷静な上に、予想外に多かった。
「いったいどれだけ武田はいるのだ!」
「わかりません……!」
この時、武田軍は五千近くいた。
そして総大将は、武田信豊。
四度目の川中島で亡くなった武田信繫の息子。
謙信が謙信が景勝が言うなら、信豊にも同じ事を言う権利があった。
もっともこの場には見慣れぬ軍旗と六文銭と甲陽菱としかないから、景勝が信豊の存在を感知する事もない。信豊が成人してからは上杉との戦いはほとんどなく、前年の川中島にもいなかった信豊の声を知る兵士など上杉軍にはほとんどいない。
「ああもう!信玄直属軍とはこんな物か!」
信玄直属軍だと思っていた景勝はその強さに歯嚙みするが、それで形勢が傾くわけでもない。
上杉の将たちも真っ正面からぶつかるが、一向に形勢は傾かない。
「信玄を、信玄を……!」
景信も晴家も、武器を振るいながら壁に突っ込む。何枚だろうが全て食い破り、信玄と共に死ぬ。
その気だったのに頑強に受け止められ、これまでと違って反撃も来る。
信玄の存在が遠くなり、全てが無為になる。
「もはやこれまでかもしれませぬ!」
「繫長…!」
そんな中、本庄繫長は大声でつぶやいた。
「今ここで逃げればまだ間に合います!越後へお帰りなさいませ!」
「いったい何人死ぬと思っている!」
「これ以上長引けば逃げる事も出来なくなります!」
もし逃げられるとすれば、ここが最後の機会だっただろう。
まだ互角であるうちならば武田たって深追いする理由はないし、根切りが達成できるとは限らない。戦場で大言壮語しておいて失敗したとか言えば武田の面子に傷が付くし、上杉の名前もある程度は保たれる。
「何しに来たんだバーカ」
そんな所に飛び込む、明らかに場違いな罵声。
そう、先ほどと同じ甲高い罵声。
「お前を殺しに来たのだ!」
その一言で景勝は完全に頭に血が上ってしまい、撤退の二文字を根切りにした。
「逃げる事など許さん!全ての敵を殺せ!信玄に連なる者を全部殺せ!」
景勝の言葉に伴い、改めて本庄軍を含むすべての軍勢が正面の武田軍へと向かった。
が、その瞬間。
「お前たち、六文銭を払え!」
真田兄弟の軍が、上杉軍の後方に攻撃をかけて来たのだ。
「どうしてだ!」
「あわてていたせいで……!」
その次の答えはわかっている。将たちは景勝を支援する事が優先で殺すとか戦闘力を奪うとか考えておらず、そのため真田軍は後方を付ける力を残していた。
ここに、上杉軍は完全な挟撃体制となってしまったのだ。
「殿だけでも落とさねば…!」
そんな中でもひとりの少年、景勝の小姓・樋口与六だけは必死に戦っていた。
まったくの初陣にもかかわらず刃を振り、景勝の敵を討つ。
だがその与六の目に、小さな敵が現われた。
「そなたは景勝の小姓か!」
自分とほぼ同じ年齢の、背丈の大きな少年。初陣兵なのかやけに声が大きいが、見慣れぬ旗の下にいる事からそれなりの身分なのだろう。
「いかにも!そなたは!」
なればと丁重に挨拶した与六に対し、敵はこれが礼儀だとばかりに斬りかかる。与六も与六でなればとばかり襲い掛かるが、膂力が違った。
一回打ち合っただけで手がしびれる。
一応それなりに鍛えは入れて来たはずなのに一体どうなってるんだと思いながら必死に斬りかかるが。攻撃の速さが違った。
「そなたを取れば初陣としては絶好の手柄となる!覚悟!」
そして七太刀目に、相手の刃が与六の胸を突いた。
与六は口から吐血して大きくあとずさり、必死に刀を繰り出すが八発目で叩き落とされ、九発目の一撃が喉に突き刺さり、未完の大器を抱えたまま不帰の旅人となった。
「与、与六…!」
景勝の目に入ったのは、愛する小姓の亡骸と、その小姓を殺めた少年兵。
そして、上杉の落日だけだった。
また明日から氏照編に戻ります。




