北条氏照の困惑
「よく視点が入れ替わるな」
さて、話を戻す。
信玄が上野にて上杉景勝と対峙した十時間後、子の刻から丑の刻に変わった時(午前二時)。
小太郎が武田本陣に潜入、襲撃に失敗してからおよそ二時間後。川越城に逃げ帰って来てから、一時間半後。
北条氏照は、甲冑姿のまま深くため息を吐いていた。
「まったく、何本武田に矢があるのだ……!」
一時間半もの間、武田は切れ目なく矢を撃っている。
数分に一本とか言う事もあったが決して止む事はなく、終わったと思うと羽音が響く。当然兵たちは眠れず、それこそ夜通しと言うか徹夜で消火作業に当たらされている。
「兄上……」
「お前は寝てろ氏規、片方だけで十分だ。ああ松田は寝てるのか」
「はい」
「それならばいいが、連中はどこかおかしいのか」
「おかしくなければ攻めないでしょう。城門の一枚や二枚建て直せばいいだけなのに」
氏規の言う通りではある。
夜通し攻撃をかけて小さくない川越城の城門一枚と言うのは、小さな戦果ではないが大きな戦果とも言えない。これと言った延焼も起こっておらず、正直不可解だった。
「だが問題は敵があの小僧だと言う事だ」
「小僧が大きな力をもらって調子に乗っているだけでしょう。さほど危惧するには値しますまい」
「それはない。あの小僧がたとえただの小僧だとしてもあれの後ろには父親がおり、武田信廉がおり、さらに言えば信玄がいる。だいたい、風魔小太郎さえもはめたような連中に隙があると思うのか」
「ではどうせよと」
「それでもまだ小僧は小僧だ。自分の作戦の成功に酔う程度の小僧だ。とにかく防衛に徹する。
武田は守る時は派手に、とにかく一歩も前進しないと決め込んで守る。徳川家康を殺したのもそのやり方らしい」
優秀であればどこのやり方でも構うものかと思い切れるのが、氏照と言う将だった。
「城内への侵入を許そうが本丸さえ守れれば別にいいのだ。兄上たちもいつか来る」
耐久戦になれば遠征軍は脆いのは常識だ。それも今回はほんの数日である。
その上に攻城戦とか言うが攻城には十倍の兵力が必要なのが常識であり、武田軍一万五千に対し北条軍は九千である。
「攻勢に転じるのは奴らが逃げるしかなくなってからで良い。石垣を焼こうとか言うのであればそれこそお笑いの種と言う物だ」
「石垣を積ませた成果があると言う物ですか」
「正確には金に飽かせた先人たちがだな!」
この時代、石垣づくりの城は少ない。末端の小城などは文字通りの板葺きであり、火でもかければあっという間に燃える。梅雨の直前のこの時期など乾燥しきっており、その気になれば簡単に灰になる。だが川越城は武蔵の要であり小田原とまでは行かないにせよかなり堅固に改修されており、文字通りの石垣積みの城であった。
「もしかしてその石垣を焼き、城を燃やすとか」
「それはまた面白い発想だな、出来るかどうかは別として」
と言っても小田原のようにしっくいの塀が乗っかっている訳ではなく、矢玉が届かない高さまで石を積んでいただけであり、石さえ熱くすれば木を燃やすことはできない訳ではない。だが燃える物のない火などあっという間に消えてしまう物であり、これまで何本の火矢が無駄撃ちとなって消えたのやらと言う話である。
「ですが問題はやはり」
「兵の疲労か。明日は三食たっぷりと与え、その上でゆっくり休ませねばならぬ。武田はそんなこと考えていないのだろうか」
「薬かもしれませぬが」
「薬?矢でも生えてくる薬か?松田が言っていた薬ならそれこそ一挙に突っ込んで来るはずだぞ」
もちろん直秀が兼山城東で見て来た戦とその時に使われていた「だろう」薬の事は二人とも知っている。痛みも疲労も感じず死ぬまで暴れられると言う人道にもとるどころではない狂気の存在とその上での戦いぶりを聞き少し戦慄し、その上でそれとは違う事もわかっていた。
実は兼山城東でも川中島でも甲州街道でも、武田はあまり矢を撃っていない。その分刀剣の消耗は増えたが、川中島も甲州街道も勝ち戦だったので使える物を回収して打ち直したり清めたりして適当に支給していた。さらに信玄は甲信の民たちに租税を減免する代わりに矢羽根を作らせ、冬の間に矢に加工していた。その矢が今こうして川越城に飛んでいる、と言うだけの事だった。
「だいたい夜襲にしても筋が悪すぎないか。夜襲により寝不足を誘おうとか言うのならばそれこそ毎日毎日わずかな攻撃をかけ、相手に読ませまいとするのが常道だろう。まるで今日一日で決着を付けるかのように……」
それにしても、信幸の攻撃は乱暴だった。
まるでこの城、と言うか城門一枚を親の仇かのように責め立てる有様と来たら文字通りの子供の喧嘩だ。
「兄上、武田はここ以外のどこかを攻めているとか」
「馬鹿を言え、川越城に敵が侵入したなら気付かんはずがない。それにこんな時間帯にどこの城を攻める気だ。まさか武田の兵だけ夜なのに昼のように物が見えるとんでもない力の持ち主だとでも言うのか」
「でもそうでもなければ説明が」
「では聞くがどこの誰だと言うのだ」
「上杉ではないでしょうか」
上杉。
確かにこの戦に合わせて北条に援軍を寄越すと明言した家。
潰す価値のある存在ではある。
だが、氏照の顔色は氏規と違い松明を通してもひとつも変わらない。
「今の上杉を潰すならひと月前、いや何なら昨年中にできただろう。数こそ無理矢理一万近くそろえたようだが謙信も鬼小島もいない今の上杉はほぼ名前だけの存在だ。わざわざ援軍として来る事がわかってから兵を差し向けるか」
「その隙に春日山城を狙うとか」
「武田が春日山など気にするか?」
「えっ」
「武田が恐れているのは景勝だけだ。景勝さえ残っていれば上杉はいくらでも生き延びられる、いや蘇れる。景虎ばかり気にしていたが、景勝は謙信の血族らしい男だともっぱらの評判だ」
北条からしてみれば、景虎の出生とか以前に景勝よりずっと景虎は扱いやすかった。
謙信と言う超一流の武勇と溢れかえる正義感の持ち主は北条にとってこの上なく面倒くさい存在であり、その意匠を丸ごと継ぎそうな景勝は厄介な敵のまんまだった。良くも悪くも優等生な景虎は親族とか以前にわかりやすいが、景勝は敵は無論味方でも計算のできない暴走の種になりそうだった。
「確かに上杉をおびき出すためと言うのはわかる。だが我々は上杉がどこまで来ているかわからない。期日としては一応今日だが、上野への目をそらすためにこんな場所まで来るか?普通は忍城か、もっと西の城辺りだろう」
「ですが」
「お前もくどいな。景勝は逃げ帰る事だってできる。それに上杉だって春日山城をあきらめる事ができる。と言うか、武田は春日山なんか落とせない。ましてや景勝健在なままならばなおさらだ」
確かに春日山城と言う名の本城を失うのは上杉にとって果てしない打撃だ。だがもし今景勝不在の状態で武田がうかつに春日山城を落とせば、武田は越中の織田方勢力と接敵し、織田と、中越・下越に逃げ込める景勝と、武田になつきようのない地元住民を相手にせざるを得なくなる。それなら景勝一党を殲滅して完全に抵抗力をなくしてからでも遅くはない。
「しかし……」
だとしても、氏規の懸念は消えない。
その懸念を補強するように、矢音がまた飛んでくる。既に焼け落ちた正門を潜り抜け、城の内部にまで攻撃をかけられているのかもしれないと言う気になり氏規の体がすくむ。
「落ち着け、そんな事になれば誰かわめく!さっきの矢音を聞いただろう、石垣に刺さっているだけではないか」
「兄上、なめられていると思わぬのか!」
「なめられている?なめられているのならば好都合だ、なめきっている相手を討ち果たすことほど楽しいことはないぞ。いつも六分が最高十分は最低とか抜かしている信玄坊主の鼻を明かしてやるのもまた妙味だ。今からでも人力の盾だけでなく自ら兵器にでもなってみるか」
確かに正論だったが、耳に届くほど氏規の心は動いていなかった。
正直な事を言えば氏規は眠かったし、本当ならあくびの二つか三つでも氏照にぶっかけてやりたかった。だが氏照と言う元気一杯な兄兼総大将の存在を前にして、いつの間にか眠気も吹き飛んでいた。
「兄上こそお休みを」
「この調子だとお前は無理か、じゃあ仕方がない。俺が出るぞ」
それでも決定的なやる気が出ない氏規に業を煮やしたかのように、氏照は背を出撃の二文字を口にした。
「ちょっと兄上!」
「何、目を覚ましている連中は十分な数がいる。もちろん狙撃などされぬように矢玉を少し交わして来るだけだ。案山子から反撃されれば連中も肝を冷やすだろう」
氏照の人の悪い笑顔を前にして、氏規は全てを納得するしかなくなった。
いや正確には氏政よりも将としては優秀だと父から言われていた兄の言葉の重みに抗する事が出来るほど、今の氏規は強くなかったと言うだけの話だった。
(氏規の危惧もわかる。そしてなめられっぱなしなのが好都合と言うのもわかる。だがこのまま調子に乗らせていてはわしの腹の虫が治まらんし、それ以上に最悪の事態が到来しかねん!)
氏照の考える最悪の事態とは、余力を残したままの武田の撤退宣言である。
このまま武田にそっぽを向かれれば、武田の無駄足と言う責め以上に一方的に叩かれた北条と言う悪評が広まる。こうなると損なのは遠征軍ではなく防衛軍であり、求心力の低下は何としても避けねばならなかった。
弟の前では威勢のいいことも言ってやったが、現実としてはにらみ合いから氏政軍到来の方が都合が良かった。
「ああ大将様!」
「大丈夫かそなたら、これより……」
その調子で休んでいた兵たちの所へ向かった氏照だったが、いきなりその鼻孔に変な物が侵入した。
氏照はその侵入者の存在を感知すると同時に小屋を見渡すが、侵入者の存在は見えない。
どこだと後ろを振り返ると同時に、侵入者の姿が判明した。
「……火事だっ!!」
次回はまた上杉景勝サイドです。




