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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第十一章 川越決戦
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上杉景勝の挑戦

 ここで話は十時間ほど前にさかのぼる。




 十時間前、すなわち四月二十六日の未の下刻(午後三時ごろ)毘沙門天の毘の字の旗を掲げた軍勢六千が、上野の国を進んでいた。



 大将は言うまでもなく、上杉景勝。

 それに色部長実や柿崎晴家が付き従い、今の上杉の主力総動員と言った風情である。


「ずいぶんと寂しい数ですな」

「数だけで戦が決まる訳があるか」

「……」

 将たちが今のうちにとばかりに雑談をし、景勝が無言で駒を進める中、将兵はただひとつの事だけを考えていた。




 ————————————————————全ては、不識庵様のために。




 幾たびか反乱を起こされるほどには適当に人望のなかった謙信だったが、それでもその死により却ってカリスマ性は高まったと言うか固定された。

 「武田信玄の卑劣な策により殺された」と言うのも悲運の英雄としての人気を高めさせ、残った軍勢は一体となっていた。


「春日山城には三千の兵しかおりませぬ。それも弱い所のみ」

「今更何を言う。与六よ、武田は春日山を突く力があると思うか」

「ございますまい。おそらく今年度の出兵はこれ限り。例え兵が元気であったとしても先立つものがなければ出兵などできませぬ」

 上杉だって、将兵だけでなく米や馬を川中島の大惨敗で失いまくっている。次に遠征できるのは来年か再来年だろう。勝ち戦ばかりだった武田家でさえ青息吐息のはずだから、余計にこの一戦にかける思いは強い。

 この時春日山城を守っていたのは、前関東管領上杉憲政の息子で還俗していた三宝院憲重である。父親の憲政は謙信の死により心身ともに平衡を欠き、憲重が家督を継ぎ守将となった。と言っても戦闘経験などまるでない名目的大将であり、信玄が本気で攻めれば必死に抵抗はするだろうが結局は落ちるのが目に見えていた。


(あまりにも暴走……ただただ暴走……その暴走を読み切れなんだ事が父上の失態だったとでも言うのか…………?)


 景勝は内心ため息を吐く。

 武田の昨年の四度の出兵における死者は五千とも六千とも言われている。負傷者はその倍以上であり、駿河・遠江込みだとしても領国から出せるはずの数などとっくに越えているはずだ。甲州防衛戦から半年で一万五千を出すなど狂気の沙汰のはずだ。

 景勝は景虎より先に謙信の養子になった甥と言う名の血族であり、謙信の影響を強く受け、後継者教育をされた人間だった。当然、その過程で兵法書を読み将としてふさわしい兵法も学んで来た。その上で謙信が軍神と呼ばれもてはやされる中、謙信のような存在が世の中にほとんどいない事も気付いていた。



 —————偉大なる父は、本当に偉大なる父である。同じ存在は二人といない。



「この戦いは、諸君らの奮闘にすべてがかかっている。必ずや武田信玄を討ち破り、上杉の名に一切の瑕疵なきことを見せつけねばならぬ」



 景勝は、謙信になる事をやめた。

 出陣前にこう宣誓しながら頭を下げた景勝に、家臣たちは上杉の打撃の重さと景勝の本気ぶりを改めて思い知った。

 軍神ではなく、上杉家の棟梁としての勝利を求めている。景勝本人の出兵を来塩田動機としては個人的に恥をさらすほどに胸襟を開いた小太郎に同心したのもあったが、それでもそうなったからには家臣たちを目一杯頼る気だった。

「与六、いざという時は何でも言え。今は一人でも味方が欲しい」

「ありがたきお言葉でございます。お館様のため、この命使います」

「頼むぞ。ったく十五、いや十三がせいぜいだろうに、なぜまた武田は……」

 十五歳の小姓、樋口与六も景勝の隣に座る。ほぼ初陣のさわやかな青年をも戦に巻き込む運命に景勝は嘆き、同時に武田信勝や武藤兄弟とか言う十にもならぬ幼児を戦場に出す信玄への逆恨みを募らせた。


 その間にも日は高さを落とし、影ができ始める。

 未の下刻と言えば初夏とは言え夕暮れがそろそろ見え隠れする時間帯であり、行軍にせよ開戦にせよ時間切れ一歩手前と言ったところだ。


「敵は」

「見えませぬ」

「とは言えもうそろそろだな。ほどなくして陣を張り、備えよ。明日には厩橋を攻め、その勢いで武蔵に入る。駄目ならば不覚ながら厩橋を叩くだけで我慢するしかない」


 それに上野には当然ながら武田も進出している。上野の北条高広は既に武田に付き、上野の本城と言うべき厩橋城に入っている。昨年の間にその点は既に事情は上杉も北条も把握済みだが、上杉も無論北条も甲州遠征の失敗で反撃力に乏しく、関東の勢力の攻撃もあり上野にまで兵を向ける力はなかった。



「申し上げます!敵が来ました!」



 —————そしてそれを頼みにしたか、前方に敵軍が姿を現した。


「旗は」

「六文銭です」



 六文銭。



 あの昌幸と、あの兄弟の実家。



「武藤喜兵衛、いや武藤昌幸の実家の真田でしょう」

「真田はこの辺り、沼田の人間だったな。敵将は」

「真田の兄弟のようです」


 そして大将もやはり、真田信綱、昌輝の兄弟。


「一気に突っ切るか」

「残念ながら時間切れだ。今日はもうこの辺りに留まり、真田を迎撃する。とりあえず、真田を血祭りにあげて満足しよう。一日二日ならば北条殿も許してくれよう」

 景勝はどこか寂しげに、ひそかに歯を食いしばりながら陣を組んだ。


 武田ではなく、真田に足止めされる自分と言う存在に対する悔しさが歯ぎしりをさせていた。


 数はおよそ二千との事だが、今の上杉軍からすれば決して少数ではない。

 防戦に専念されれば、夏至の遠くない時期とは言え日没時間切れぐらいには持ち込まれる危険性がある。そうなれば今や上杉は三分の一の真田さえも倒せないと言う事になる。同じ駄目でも防衛戦ならまだ面目も立つ、それが現実的な落としどころだったとも言える。


 景勝はじっと隊を組み、先ほどの数分の一の速度で進む。敵の前進を期待しながら、道を進む。

 動かない真田勢に少しじれながら、目に映る六文銭の旗を大きくして行く。




「上杉か、こんな所まで何の用だ」


 やがてお互いの顔が見えそうな位置までたどり着いた所で、まず一撃を放って来たのは真田だった。

「ほざくな、真田め!よくも我が父を死に追いやったな!」

「戦の上での死に何を執着している?」

 川中島で真田兄弟により自害した斎藤朝信の子景信が食ってかかるが、真田は平然と答えるばかりである。

「我々は北条と共に武田を討つ。そのためにここまで来た」

「上杉憲政殿は北条にその身を追われたと言うのに」

「北条から来た我が義兄弟を殺めたのはどこの誰だ!」

 その流れで上杉側からも景勝が出て来たが、相変わらず真田兄弟は平然と言い返すのみだった。景勝の気持ちを引き取るように景信が前に出ながら叫び、槍を振る。


「信玄の前にそなたらを血祭りにあげてくれる!」

「やってみせよ!」


 その言葉が合図となり、両軍が激突を始めた。



 そして案の定、真田軍はすぐさま防衛一点張りになり、真っ正面からぶつかりに来た上杉軍を受け止めにかかった。

「うるさい!そんな方円の陣もどきで!」


 —————方円の陣。この時の真田の陣形を例えるならばそれに当たるだろう。


 文字通り円形に陣を組み、四方八方どこからの攻撃にも対応できる強力な防御の陣形である。ちなみに上杉軍は魚鱗の陣であり、先頭が斎藤景信、前列に本庄繫長と新発田重家、後方に下がった上杉景勝に色部長実と柿崎晴家となっている。

 魚鱗の陣は攻撃に向き、特定の個所を攻めるには絶好の陣形である。一方で方円の陣はどこからでも攻撃を受け止められる代わりに、一点集中には弱い。

「真田め!こんな陣形に何の意味がある!」

 どう考えても上杉が有利なはずだった。



 だが、衝突の寸前に方円の陣の先っぽにいた真田兄弟の次男・昌輝の軍勢がいきなり後退した。


 それにより円形から前方だけギザギザ状になり、そこに突っ込めば三方向から攻撃される体制になってしまった。


「お、おのれ!」


 罠と知りながらも止めきれなかった斎藤軍が昌輝の部隊に衝突。さらに玉突き衝突のように本庄軍と新発田軍もギザギザの先っぽにぶつかってしまい、一点集中攻撃ができなくなってしまった。

「落ち着け!敵は二千を八つに割ったから二百五十だぞ、こっちは千だ!」

 景信は数の差を示しにかかるが、三方向包囲状態でその差を生かすのは難しい。あわてて後退した隙を突こうにも、信輝軍は強固で簡単には崩れない。

「一刻も早く突破せねばなるまい!」

 繫長や重家も自ら挑みかかるが、中央の斎藤軍が横撃に使えないため打撃力は低く、やはり四分の一しかいないはずの軍勢を一蹴できない。

 真田軍が上杉軍を追い返す見込みも薄いが、長引けば勝ちなのは真田である以上上杉は面白くない。


「下手に面が少ないせいで一気に押し切るのも難しく……」

「むむ、このままではまずい……」

 景勝と与六の十代の主従がうなっていると、別の馬蹄の轟きが起こった。

「色部軍出ます!」「柿崎晴家、父たちの無念を晴らす!」

 ここぞとばかりに二人の将が飛び出す。



 だが、隙間がない。


 仕方なく横側から正面の出っ張りを狙うが、今度は左右側の軍勢がゆっくりと向きを変えて来た。

 当然の如く彼らが両軍の相手に回り、横撃を封じにかかる。


「この……!」

 五千を千二百五十で防がれている上杉軍はいきり立つが、それだけでどうにかなる訳でもない。言うまでもなく上杉軍は大半が川中島で失われた代わりの新兵であり、川中島を生き残って来た真田軍とは訳が違う。

 おまけにさらに回り込もうにもまだ三部隊残っており、どうにも膠着状態でしかない。



「こうなれば!」


 戦いにじれた中央の斎藤軍が敵攻撃の緩さに任せて突如半数を信輝軍に回し、右側の先っぽを新発田軍共々突きにかかる。

 この数ごり押しとも言うべきやり方に、方円の陣が動いた。

「後方の部隊が向きを変えました!」

 まだ残っていた左右斜め後ろの軍勢が向きを変え、正面に向き出した。本来なら総力戦と言えなくもないが、その瞬間景勝の顔が躍った。


「よし今だ!回り込め!」


 後ろからの守りが薄くなった以上、そこから突けば横撃が可能になる。しかも回り込みを阻止する部隊は前方の味方に抑え込まれている!

 景勝はここぞとばかりに、左側から方円の陣を抜けにかかった。


 切歯扼腕しているであろう敵軍に並び、一挙に向きを変える。



「行くぞ!」

「わしも混ぜてくれんかね」

「何を……!」



 だがいよいよと言う所で、すべての緊張感をぶち壊しにする声が飛んで来た。



 あまりにも悠長そうな、それでいて重みのある声。







「やあ、謙信の息子か。父親に似て真面目そうな顔だな」







 紛れもなく、武田信玄だった。

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