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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第十一章 川越決戦
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武藤昌幸の脱皮

「兄上も本当に大胆だな」

「大胆を通り越しております……」



 武藤昌幸が意を抱える中、信廉は苦笑いしていた。




 十歳児がいっちょ前に馬に乗り、軍配の代わりのように木の枝を振るっている。




「目を爛々と輝かせ、まるで今が真っ昼間であるかのように元気にまあ……」

「兵たちもまたかなり早く寝かせていたから同じだろう」

「それにまあ、源三郎は源三郎ですのに」

「兄上の権力を甘く見るな、そなたならわかるだろう」


 信幸などと言う名前を与えたのは、信玄である。

 武田の通字である「信」に父親の「幸」を取って信幸だと言う理屈だが、正直あまりに重い。まあ昌幸の兄で信綱の「信」から取ったとも言えるが、昌幸にはそんな風に思えなかった。

「と言うか実名をあんな風に名乗るなど……」

「織田信長も羽柴秀吉も至って健康らしいな」

「しかし我々は」

「本願寺がどうなったか知らぬとでも申すのか、お互い様とは言えこれだから三男坊は」

「なっ……」


 必死に食い下がる昌幸に対し、信廉は笑いながら背中を叩きにかかる。どうしようもない属性で攻撃をかけて来る信廉をにらもうとする昌幸だが、相手が同業者のせいか次の言葉が出ない。


「そなたはまだどこか甘えているな。本願寺がほぼ壊滅状態であることを知らぬ訳でもあるまい」

「それは……」

「天台座主たる我々武田の意見はそのまま仏教界の意見となる、これまでのやり方を旧弊墨守した本願寺の二の舞を演じる気か」


 本願寺は昨年の敗戦によりほとんど戦力を失い、頼みの雑賀衆もほぼ壊滅状態。織田が今まだ雑賀衆への攻撃に専念しているとかで生かされているだけと言うに等しく、降伏か滅亡かの二択になるのも時間の問題らしい。どっちにしても仏教界での権力はほぼないに等しくなり、その分だけ信玄の権力は大きくなる。謙信は死に加賀の一向一揆も潰れた以上、もう信玄を止められる存在は仏教界にいなかった。

 

「もちろん武藤家の事とか心配事は多い。だが上州の小領主の三男坊など、世間的に見ればそこいらへんにいる田舎侍と言う程度だ」

「羽柴秀吉と渡り合わせる気ですか」

「なますをすすってあつもので火傷するは大馬鹿でも、あつものに懲りてなますを吹くは笑いごとで済むと思うか。確かに真理ではあるがそれだけでもない。金山に行って大根を拾って帰って満足できるか」

「でも」

 大物だと思っていたら小物でがっかりしたと言う話をしたいのだろうが、それでも今の武藤昌幸は真田家の三男坊ではなく武田の親族の武藤家の当主であり、「源三郎」はその息子である。

「なんなら二人してそなたの兄の子にして真田姓にするか、さもなくば武藤家の名前をどこかにやってそなたがただの三男坊の真田昌幸に戻るか、答えはそんなに複雑でもないと思うがな」

「逍遥軒様もやはりご隠居様のご兄弟ですな、あるいは今は亡き典厩様も年かさになれば同じように」

「兄上はこうはならん、良くも悪くも汚いことは兄上任せだったからな、父上のせいで」

 実は昌幸は三男坊と言っても下に男が二人おり、末っ子どころか真ん中っ子である。ついでに言えば信廉は三男どころか五男であり、兄二人は夭折しているから名目的に三男となっているに過ぎない。それはともかく次男だったはずの武田信繫は信虎から信玄を差し置いて跡取り候補だと寵愛されていながら信玄の重要さを認め付いて行くと決断したほどの人物だから非常に真っ正直な人物である。


「大水が 襲えば笑う 高堤 日照りの中に 雨を振りまく」

「そなたらしくもない」

「その程度に私も正体を失っているのです!」

 文学的素養なんぞない昌幸らしからぬ三十一文字でいら立ちをぶつけるが、信廉はまるで信玄かのように相変わらずの顔色だった。

「備えあれば憂いなしと言うより、備えある事を示したいだけでは」

「わかるか。こうして備えておくことがいかに重要か」

「ええ……」


 昌幸は観念したかのように、後ろの駕籠の方を向く。



 小さくて雑な、輸送部隊が荷物を運ぶのに使っていた駕籠。



 武藤源三郎改め信幸は、信廉軍の後ろで隠れていた。


 と言うか、ずっと寝ていた。

 真田忍びの配合した眠り薬により、寝息を立てながら昼間を過ごしていた。


 我が息子ながらいいご身分だとか毒と言うか愚痴を垂れる気もないが、その結果が結果だけに口を挟めなくなって来る。



「川越城の城壁が次々と燃えております」


 次々と放たれた火矢が川越城を襲い、城門にまで燃え移ろうとしている。

 反撃と言うか消火も行われているが、手数が正直違う。

 たまに火の付いていない矢が飛び、あわてて消火に走った兵を撃ち抜いたりさらしたりする。



「なぜこんな暗闇の中で皆弓矢を持てる」

「暗闇の中とは言えあそこまでこうこうと松明が焚かれているのだ。何とでもなろう」

「乱暴な」

「陣の大きさを見ていない訳ではあるまい。三千でもその気になればあっという間に陣は作れる」

 実は昼間陣作りに勤しんでいたのは高坂軍六千の内の半分でしかなく、残り半分はこの時のために休んでいた。もちろん寝ていたわけではないが、それでも激しく動こうとせず疲れない速度で動いていた。

「何せ修羅場を生き残ってきた兵士たちだからな、顔つきが違うわ」

「去年は修羅場しかありませんでしたが」

「そういう事だな」


 どうにもこうにも必死になってしまう昌幸自身、自分が存外と子供っぽいことに呆れもしている。信廉言う所のお気楽な三男坊であり、適当に兄たちに反抗しても許されてきたかもしれない立場ゆえなのか。



(四郎様だって本来なら……いや、もはやすべてが繰り言か……)


 だがもう、そんな立場ではいられない。

 今の昌幸は真田家の三男坊でもなければ小姓頭と言う信玄に乗っかっていればいい立場でもない。


 武藤家の当主であり、次期当主の側近候補だ。



「信幸に命ぜよ、攻撃を細くてもいいからやめさせるなと」



 そのために何が必要か思い立った昌幸は使者を呼びつけ、息子の下へ行かせた。

 実際、攻撃が本当に皆無なのと一矢存在するのでは全然違う。

 それに城門が燃えている限りは消さないと北条は武田の夜襲が成功と言う結果を与えてしまう事になる。闇夜に鉄砲とか言うが、そんな状況で僅少でも成果が上がれば武田は面白いし北条はつまらない。それだけでも士気に関わる。

 

 だが源三郎は何も答えない。


 そして、昌幸もそう言ったきり何もしない。



 親として、今の立場として、じっと見守る。



(猪突猛進も華と言われてしかるべきはずの年でも、こんな立場をやらされる人間はいるのだな……)


 まだ二十代でも、宿老と言うのは武将とは違う。


 いや山県や内藤、馬場とも違う。


 こうして後ろでふんぞり返り、指示を出す役目。なんとも嫌な役目だが、それでもそれぐらい冷静と言うか冷酷でなければいられない存在。



 それが、自分に与えられた立場。


 信玄が幼い主君を守るべく与えた立場。檄を飛ばす必要もない立場。

 暗闇の中なりに、火矢たちをじっと見守り敵の実情を掴み、そして途切れる攻撃にほんの少しだけやきもきし、すぐさま飛ぶ矢の音に安堵する。

(まったく、あるいは説教臭い男ってのはこの役目には似合いかもしれぬな……若いと言うか子どもたちの面倒をずっと看て行くのがわしの役目か……)

 実はこっそり自分も作っていた矢羽根が無駄にならずに済みそうで、その点で安心してしまった。

 だがそれもまたそれなりに傲慢である事を、昌幸は認めねばならなかった。

 年下と言っても十も違わないどころか年かささえいそうな兵たちの奮闘にため息を吐き、そして彼らの働きに感謝するべき自分の立場を思うにつけ、新たなる宿老になる運命を与えられている事を感じ、飲み込むしかない定めに敗北宣言をするしかなくなる。




 武藤昌幸はこの時、ようやく源三郎と弁丸から子離れできた。ようやくと言うにはあまりにも早すぎるが、それでも本人からしてみればようやくだった。


 矢音の中で、昌幸は暗闇に安堵の表情を浮かべていた。










 なお話は飛ぶが武田軍の将兵がこんなにも体力が早く回復した事については、信玄がある切り札を切ったからに過ぎない。



 それは、温泉である。



 普段は隠し湯とでも言うべき信玄以下お偉いさん専用の湯を平侍はおろか農兵たちにも全面開放し、出兵のない間に疲れを癒させたのだ。

 そのため旧年中、とりわけ兼山城東から甲州街道まではそれこそ隠し湯が隠し湯でなくなるほどに盛況であり、当地の湯もみ係が倒れそうになってしまったほどだった。

 ついでに秋葉街道の戦いの後も多くの将兵を同様に入浴させており、そのため回復が他の大名の予想より数倍早かった。


 信玄が温泉を派手に開放したのは、一番無責任な言い方をすれば織田信長の責任である。

 信長があまりも高速で用兵を行うのに疑問を抱いた信玄は、自分なりにその高速の用兵を実現しようと兵たちの慰労を兼ねて自分の手持ちの資産、温泉を使ったのだ。

 ただ、それだけの事である。

あの大震災から明日で12年かよ、ったく……!

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