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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第十一章 川越決戦
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武田軍の鉄壁

 四月二十六日。



 激闘とは言えない小競り合いから一夜明けて再び川越城の天守閣に登った氏照の目に、風林火山の旗が留まった。


「信玄本隊ですか」

「やっぱり短期決戦だろう。長引けばこちらが有利なのをわからん信玄ではない」

「こちらの援軍は」

「兄上が次々と兵を集めているが、まだ四、五日はかかる。佐竹や佐野、里見と示し合わせているとなると小田原から持って来ないとまずいからな」

 実際にそうしていると言う証拠はない。

 だが実際にそうだった場合、下総や下野、東相模及び北武蔵の兵は動かせない。

「その方向はどうなのです」

「来ていると言う便りも来ていないと言う便りもない。武田がどれほど連中を当てにしていたかも正直わからん」

「わからないからと言って兵を駆り出せば隙を窺っている連中を本当に動かす事になりかねませぬからな……」


 虚か実か、その判断ができない。その事がどうにも気持ちが悪い。

 だからこそ相手の状況を読んだ上で対策を取るつもりだが、いい加減仕掛けてもらいたいと言うのも本音だった。


「こちらから仕掛けますか」

「やめておけ。こちらが動いて混戦に持ち込まれると損なだけだ」


 結局は。そうとしか言いようがなかった。武田にとってはそれが一番困るはずだと言うのが氏照の考えであり、氏規も憲秀もそう思っていた。



 そして案の定、武田はその思惑に乗って来なかった。


 こちらがおとなしいのをいい事に城に近づき、どんどんと迫って来る。

 実に整然とした隊伍を揃え、我が物顔で歩く姿は確実に北条軍の兵の心を痛めつける。

「武田軍が迫って来ます!」

「やはり来たか、今日は城から出るな。ゆっくり構えていればいい」

 もちろん氏照も腹が立っているが、それでも強引に仕掛けてくれたことが嬉しかった。

 目一杯短兵急に仕掛けて来い。そうすればこっちが勝つのだ。

 その自信に満ちた声が川越城に響く中、知った事かと言わんばかりに風林火山の旗が迫って来る。兵たちが緊張する中氏照は鷹揚に声をかけ、自らも弓矢を握る。


「川越城の諸将よ!お前たちは包囲されている!早々に城を明け渡し小田原城へ帰れ!さもなくば命の保証はないぞ!」


 そんな氏照に向かって飛んでくる妙に若い声。見れば二十代半ばぐらいの、髭もたいして生えていないような男。


「何を言うか、昨日の戦いであの高坂の軍勢を相手に我々は勝った。その事をまるっきり忘れてまた喧嘩を売りに来るなど、自殺願望でもあるのか?」

 氏照も当然の如く言い返すが、武田軍は前進をやめない。

「射程距離まで近づいたら一斉にやれ」

 それだけ言って自らは弓を下ろし、じっとにらみつける。

 前進をやめようとしない風林火山の旗を穴だらけにすべく、兵たちもじっと身構える。


 しかし、一定距離まで来ると急に武田軍の足が止まった。

 怖気づいたと言う訳でもなく殺気を保ったまま、じっと構えている。

「鉄砲は」

「一応ございますが」

「やれ」

 一応銃撃させてみたが、案の定届かない。もっともこっちが届かないと言う事は向こうも届かないと言う事であり、その点に対しては問題ない。

「ですがあれは!」


 問題なのは、武田軍が陣を作り始めた事である。

 射程距離ぎりぎりから走れば十数分の地に陣を作られるのは気分的に面白くないし、戦略的にもにらまれ続ける事となる。下手に仕掛ければ同数で受け止められ、残る兵で守られを繰り返されては最悪援軍が無駄になる可能性もある。



 それでも、氏照は冷静だった。


「……行け!」

「行け?」

「わしにはわかる、あれは信玄ではない!



 あれはおそらく、武田信廉だ!」




 ——————————武田信廉。信玄の弟で、信虎の三男。

 四十七歳と言う年齢からして貫禄はあるし、立場だってそれ相応にあるはずだ。



 そして何より、信玄にそっくりだった。


「信玄はここではないどこかにいる。もちろん躑躅ヶ崎館かもしれぬが、いずれにせよ信玄ならば一気呵成に攻め込んで来るはずだ」

「そうですか…」

「とにかく信廉を叩かねば面倒くさい事になる。信玄軍でないだけやりやすいだろう、今のうちに陣を阻止しろ」


 そう考えれば、昨日の攻撃がどこか迫力不足なのも納得が行く。

 どんなに顔と血筋が似ていても、才能まで同じはずがない。


 早速、氏規軍と松田軍が攻撃に出る。

 正面である西門からではなく南北の門から飛び出し、一気に突っ込む。

 もちろん氏照とて黙っている訳ではなく、矢を放たせ銃を撃たせる。さらに自ら天守閣を降り西門を開けさせる。


「来たぞ!」

 武田軍の迎撃に応えるかのようにこちらも援護射撃と共に突っ込み、切りかかる。

 武田も正確に受け止めるが、氏照も負けじと押す。

 その間に氏規と憲秀が思惑通りにやって来て三方向から武田軍、いや信廉軍を襲う。

「このまま一気に信廉軍を押せ!」

 三方向からの攻撃に期待も膨らむ。

 やはり築陣は高坂軍の担当のようだが、少なくとも手を焼かせるぐらいのことはできるだろうとばかりに北条軍も殴りかかる。


「ばれてしまったのならば仕方がない……だがそう簡単には壊れんよ」

 だが信廉軍は三方向からの攻撃を読んでいたと言わんばかりにしっかと受け止め、前進こそしないが後退もしてやらないとばかりに腹に力を入れて踏ん張る。

 さらに兵たちも信廉の言う事をよく聞き三軍全てを真っ正面から受け止め、不意打ちされる事もなく戦っている。

「なんだこの爺!」

「まだ四十七なのに爺呼ばわりか、確か北条の殿様は三十七だったな。つまり殿様もあと十年もすれば爺か」

 信廉の信玄めいた言い草に氏照は憤慨するが、憤慨するだけでどうにかなる訳でもない。



(確かに陣さえ出来上がればこの戦は勝ちだ、だがいくらなんでも消極的すぎやしないか……)


 信廉を含め、誰も積極的に斬りに来ない。あくまでもこちらをいなす事だけに集中し、こちらがくたびれるのを待っている。

 高坂勢をちらちら見るが、誰も助けに来ない。まるで子供がケンカをしているのを無視して仕事をする大人のように、ただ整然と築陣に集中している。


(ああくそ、読まれていたか……!)


 信廉は猛将ではないが、智将だった。接近、築陣すれば必ずや妨害が来ると読み、さらにその上で信玄がやって来た積極策とやり方が違うから信玄ではない誰かが指揮官だろうと読んで動く————————————————————そこまで把握されていたのだ。


 信玄ではないと言う油断も相まって北条軍は押しきれず、武田軍は元気になって行く。

 さらに言えば、兵士たちが思ったより元気だった。信廉が元気なのはわかるが、それでも疲労度はこっちの方が圧倒的に低いはずだ。

「うむむ……!」

 唸った所でどうにもならない。氏照自ら攻撃しようにも前が塞がっていて出番が回って来ず、こっちが死なない代わりに相手も死なない。



「ああもう、意気地なしどもの相手は疲れるわ!やめだやめだ!」



 結局、完全な捨て台詞と言うか負け惜しみと共に、北条軍は引き返すしかなかった。撤退の際もきっちり退却戦を演じたが、誰一人武田軍は追って来ようとしない。壁と言う役目を果たす事に徹し、決して欲張ろうとしない。



「勝ち鬨は」

「挙げられるわけがないだろうが……」


 負けたとも言えるし、負けなかったとも言える。

 ほんの少しばかり大将の軽口はあったが、後はもうただただヤーだのターだのの声もまともに上げずに防御に専念していた。

「徳川家康を殺した時もああだったのかもしれぬ。山県や馬場などで徳川の武将たちを徹底的に固め、その間に信玄本隊が浜松城諸共家康を焼いた……と」

「まったく絵空事みたい話だが、実際にこうしてやられてみるとな……!」


 三人とも本丸御殿で気持ち悪そうに口を押さえる。


 一昨日は川越城まで十里あったのが、一里もないと言うのはどうにも気持ちが悪い。

 文字通り城壁が迫ってきているような話であり、そう考えるとなおさら気色悪い。

 もちろん長引けば勝手に崩れるとは言え、城壁は城壁である。


「これはもう築陣はあきらめるより他ないな……」

「その上で完全に籠城し、援軍を待つよりないと」

「まあそうだ…」



 そこまで話がまとまろうとしていた所で、氏照がいきなり刀を天井に投げ付けた。



「兄うっ……!」

「落ちつけ!忍びだ!」

 忍びと言う一言に三人が息を呑むと同時に、四人目の男がやって来た。



「風魔小太郎でございます」


 氏照が刀を投げ付けた場所の九尺ほど横から飛び降りて来た男の名前に、三人とも肩を撫でおろした。

「すまぬ、つい武田かと」

「先刻承知ゆえお気になさらず……代わりに座布団でも」

「要りませぬ」


 小太郎は氏照に誘われて着座し、深々と頭を下げるが、追いかけるように氏照も頭を下げる。


「ちょっと」

「ちょうどよかった、風魔よ、この状況を打破するにはそなたの力が要る。何か名案はないか」


 確かに籠城を決め込むのは悪くないつもりだ。

 だがそのままでは面白くないし、それ以上に目の前の敗戦が腹立たしい。例えこのまま逃げ帰らせたとしても、領国を荒らされるだけ荒らされて行くことは明白だった。その事についてうんたらかんたら言おうにも、先に同盟を破ったのはそっちだで言い返されて終わる。


「この戦には大勝利が必要……」

「そうなのだ小太郎、何かないか」

「実はすでに手を打っております。

 まず、上杉殿は我々に付き、上野からこの武蔵を目指しております」

「えっ!」




 そんな氏照たちに対し、小太郎はいきなり爆弾を投げ付けた。




「兄上は……!」

「もちろん存じております。しかし正直川越と越後との距離もあり上杉と言う字面ほどには期待せぬようにと……」

「そうか、だがとにかく上杉が味方と言うのは大きいな!」


 上杉家が味方となれば、武田との因縁からして全力で戦ってくれるは必至。

 元から謙信率いる精鋭軍団だけに、味方となれば心強いことこの上ない。




「そしてこちらの方が重要ですが」


 そんな風に浮かれていた三将の心に重石を付けるように、小太郎は先ほどの十数分の一の高さの声で囁く。







「武田信廉、いや武藤昌幸は、二人の子どもを連れ込んでいます」

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