北条氏照の違和感
「松田軍は良くないようだな」
北条氏照は冷静だった。
川越城の本丸から戦況を見下ろす氏照の目は、正直冴えない。
「大将は」
「松田にはほどほどの所で逃げろと申し付けてある。どうせ武田の狙いはこの城であって松田ではないからな。だが少し熱くなりすぎるとまずい。高坂もあくまで露払いに過ぎぬのだから」
松田がそこまで単純ではないのはわかっていた。股肱の臣であるし、それ以上に歴戦の雄だった。
「兄上、憲秀は武田にそれ以上の憤りを感じているかもしれませぬ」
氏規もまた甲冑姿で氏照と共に並び、同じように見下ろしている。
いざとなれば真っ先に出る立場の割に悠長な弟に少しだけ不安を感じた氏照だったが、それでもあわてるような事はしない。
「氏規、俺にはまだ子はいないしお前だって同じだ。だがお前だって知っているだろう、憲秀の息子の事を。
その事に対して俺は兄上を責めた。いくら何でも他にいなかったのかと」
だが憲秀の立場からしては激昂するのも仕方がないのも氏照は知っていた。
昨年の浜松城での戦で、氏政は氏照のついでに憲秀の次男の直秀を援軍の副将に据えた。誠意を表向きだけ示してこれ以上強引な真似をするのなら考えさせてもらうと言う半ば嫌味のつもりでの人選であり、氏照もまた信玄に渡した援軍の文書を知っていた。
「此度の義挙、北条も一枚噛ませていただければ幸甚でございます。つきましては我が弟と共に北条の次代を担う松田尾州(憲秀)の次子を副将として遣わしますゆえ、どうかありのままの姿をご覧になった上思うがままにお使いくださいませ」
まだ十歳になっていない直秀を見た上で副将として使うとか言う頭のおかしい事をするなら武田家の悪名は一気に広まるぞと言外に含ませておいたのに、信玄は直秀を平気で一軍の大将扱いした。
その挙句戦場にて血だけでなく火まで見せ、織田軍の攻撃まで見せた。
その上、側にいたのがあの武田勝頼と来ている。
「松田殿は申しておりました、勝頼の暴れぶりは何らかの薬でも飲んだほどだと」
「その時はまだだったのか、それとももう服用していたのかはわからん。だがおそらく勝頼は相当に乱暴に戦ったのだろう。信玄とは別の意味で」
直秀はそれ以来すっかり引きこもってしまい、夜尿の後戻りを起こし母親に必要以上に甘えるなどすっかり幼児退行してしまった。これで武士としてやっていく事ができるのか、とても自信が持てない。
「兄上、いやお館様はなんと」
「父上の事を信じられなくなったそうだ。父上は死に際にどうしても武田と組めって遺言したらしいがな、こんな危険な奴を取り込むなど恐ろしくてできないって」
「普通の感覚でしょう、まあ普通の感覚ではないから父上はこの北条をここまで大きくできたのでしょうが」
氏規もまた、武田には元から好感を抱いていない。
氏規は氏照の三つ下の弟だが母の縁からか幼少期を今川家で過ごし、今川家の下で元服した。桶狭間の少し後に北条家に戻った以上織田家に好感を抱いていないのは当たり前だが、義信を死に追いやり今川家を強引に滅ぼした信玄の事もよく思っていない。氏康の事はもちろん尊敬していたが、勝頼すら死に追いやったらしい信玄を尊敬するなどとても無理だった。
「もちろん好き嫌いとお家の都合は別です。しかし先代様が在世だとしてもこの信玄の暴挙はお見過ごしになられなかったでしょう」
「父上は自分の予想の上を行く汚らしさを読めなかったんだな……」
氏照はあからさまにため息を吐く。
歴戦の勇と言うのは、これまでいろいろ自分の想像を上回る存在によって痛い目に遭っている。だから自分の予想を上回る可能性について深く考え、ゆえに負けても傷を抑える事ができる。だが逆に考えをめぐらすに当たって自分の予想より下回る事態については考えず、すぐさま排除する。「考えるだけ無駄」だからだ。
「私もそう思います。それでは御免」
氏康がその流れに陥ってしまったと感じた氏照に同調した氏規は、兄に背を向けた。
「出るのか」
「しっかりと防衛を頼みますよ」
「ああ、ちゃんと帰る場所は残しておくぞ」
氏規は三浦半島の三崎城や伊豆などの担当で武蔵にはいない。それでもこの危機的状況に際し川越城と言う大事な城の防備を任され、さらに武田がこうして出て来た以上、やるべきはやらねばならない。
「ったく、信玄を叩いておけばこんな事にはならなかったのに……!」
城門の後ろまでやって来た氏規は父親への不満を口にしながら、門を開かせた。
「さあいざ松田勢を守れ!」
氏規軍が門を飛び出す。
ちょうど数に任せて包囲を図っていた高坂軍の側面を突くべく全速力で駆け出す。
だが、高坂軍は氏規の動きを見切ったかのように閉じようとしていた左翼軍を開き、氏規軍を受け止めにかかる。
「援軍到来!」
この間に松田勢は勢いを取り戻し体制を整え、氏規軍は高坂軍に襲い掛かる。
「松田殿!もうそろそろ引き時ではないか!」
「いやまだいけます!」
「高坂だけならともかく武田本隊が来たらどうする!」
確かに松田勢の働きは確かだった。だがそれはあくまでも高坂勢だけであり、武田本隊が来たら数の差が物を言い出す。
「それにこのまま信玄坊主が来るのならば望む所で」
「馬鹿、信玄を殺してもまだあの小僧がいるのだぞ!」
小僧と言う言葉と共に、松田勢がゆっくりと後退を始めた。
「逃げるのか!」
「もう北条の強さは十分に示した!」
「そうですな!」
「いいかお前たち、北条の領国を犯せば次に待つのは死のみだと思え!」
高らかに吠えながら、松田勢から背中を向かせる。
高坂勢にもそれなりに出血させたし悪くはない結果だと思いながら氏規が笑顔を浮かべると、すぐさま高坂勢も反撃に来る。
「これ以上好き放題にさせるか!」
それでも氏規自ら乗り出し、槍をうなるほど強く降ると数人の兵が落馬し、一気に勢いが失われる。その間に次々と兵たちが向きを変え、川越城へと走る
「逃がすな!」
当然高坂昌信は叫ぶが、戦場で待てと言われて待つ人間はいない。
迫って来る度に氏規や側近たちが取って返して追い払いを繰り返し、そして最後には氏照の放たせた矢が来た。
「最後の一人が逃げ切るまで構えを崩すな!」
氏照の声と共に高坂軍の動きは静止し、氏規勢も松田勢も無事死者以外は逃げ切った。
「よし、勝ち鬨を上げよ!」
「エイ、エイ、オー!」
城門を閉めきるや勝ち鬨を上げさせ、右手を上げさせる。
とにかく、少なくとも負けではない結果を叩き出した以上、その結果を素直に噛みしめさせねばならない。
負傷者の手当てや食事その他を副官たちに丸投げし、三人の将は本丸へと入った。
「やれやれ……」
そこまで来て三将はようやく力が抜けたかのように座り込み、甲冑を脱ぎ出す。
「一応、勝ったとは言えましょう」
「まあな、だが武田が負けたとも言えない」
「兵たちには勝った事にしておりますが……」
確かに高坂勢にも打撃は与えた。だがそれにそれほどの価値があるのか、三人でさえも分からない。
「正直、長引けばこちらが有利なはずなのにどうも攻撃が緩いのです」
「それだから助かっていたのかもしれませんな……どうも血気に逸ってしまい申し訳ござらぬ」
「良い良い。そなたの奮闘がなくば勝利する事は出来なかったのだから」
氏照はなるべく鷹揚に振る舞うがそれでも違和感が抜けない。
なぜ武田本隊は来ないのか。
確かに自分たちの退き戦がうまく行っていたとしてもあまりにも悠長すぎる。
「武田はさらに援軍を呼ぶ気でしょうか」
「かもしれぬ。あるいは小田原城を攻めているかも」
「まさか」
「信玄がここにいるとしても、躑躅ヶ崎館にはあの信勝がいる。小田原はともかく甲相の国境まで兵を出すぐらいの事はしかねぬ、昨年の意趣返しのように」
「しかし武田の兵は」
「わかっている。いくら半年の空白があったとは言え武田の兵は疲弊している。あるいはあれが全力なのかもしれん」
去年だけで四回の大戦を行い、死傷者とも半端ではないはずだ。
それなのにこんな真似をして来たと言う事は、武田はぎりぎりでありもはや戦える兵士などいないのではないか。
いくら追い出そうとしても浮かんでくるその楽観的な連想が、どうにも現実味を帯びて来る。
「そう言えば昨冬から、いやもっと以前から農兵たちがどこかに消えていたと言う話が」
「まさか伏兵とか埋伏の毒とか」
「いや、武田の本領である甲信でですが」
憲秀からそう言われた所で、正直氏照にも氏規にも心当たりがまるでない。
「とりあえずは決して油断せぬように兵たちに言い聞かせておくか」
氏照は、そう話を強引に締めくくるしかできなかった。




