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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第十一章 川越決戦
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松田憲秀の意地

 二か月半後の四月十五日。




 武蔵の川越城は揺れていた。

「あれほどまで出兵しておきながらまだ体力が残っていたとは……!」

 守将の北条氏規も唸っていた。



 —————武田軍、川越城に迫るべく進軍中。



 その報告を受けた時には、本気で自分の頭を心配したくなった。


 一昨年末に遠江と美濃への遠征を行い、その上に昨年だけで浜松城を焼き兼山城東で戦い川中島と甲州街道で防衛戦を行いと、どう考えても限度を超えているはずだ。

「そんな事より小田原に援軍を求めなくては」

「わかっている。それでもこの川越までたどり着くにはまだ時間があるはずだ。その間に防備を整えよ!」

 広照としては、ありきたりな事しか言えない。


(小田原城でも武田を警戒していないはずはないのだろうが……それでも武蔵など本来なら狙わないはずだ。佐竹とかと示し合わせていたのか?)

 だが防備を整えると簡単に言っても、どうしても東北に目が行く。

 常陸の佐竹義重は言うに及ばず、下野の佐野宗綱は十五歳ながら父親譲りの胆力の持ち主で油断はならない。もちろん武田の連中がやって来る道中の城から兵をかき集めるなど論外だし、小田原城から援軍を求めるより他ない。だが、それでもまだどこか現実感が湧かなかった。武田の兵と言うか民は、本当に疲弊していないのか。犠牲者それに対する慰労その他で相当な被害があるはずなのに、本当に大丈夫なのか。

 となれば佐竹や佐野と示し合わせていたと考えるのが自然なはずであり、そうなるとそっち側の軍は動かせない。




 だが、それ以上に理解できない問題もあった。




「上杉家は北条と共に、謙信公及び四郎様の無念を晴らすべく武田と戦う事を決めた。この武蔵など上杉にとって小田原城の数倍来やすい場所ではないか」



 上杉家が武田と言う巨敵を前にしてかつて氏規の弟・上杉景虎こと北条四郎を送り出した時の様に手を組む事になったが、だからなおさら越後からすぐそばの武蔵を攻めるのは明らかにおかしい。北条から遠い上野ならともかく、だ。




 だがこうして氏規が混乱している間にも、武田軍は兵を進めていた。




※※※※※※※※※




 四月二十五日。


 北条氏規が武蔵に入った武田軍の存在を関知してからわずか十日の間に、武田軍一万五千が川越城から十里(約四十キロ)の地に着陣していた。

「お館様……」

「ご隠居様と呼べ」

「しかしご隠居様、抵抗がなさすぎませんか」

「昌幸も心配性だな、放っておいて前線が崩れたら一気に襲い掛かる方が効率が良いに決まっておる」

 実際に武蔵に入ったのは二万であり、五千をこれまで後方の城を守るために分散して来た。

 確かに理屈としては総大将の言う通りだが、それでも後方から一気に襲われたらすべておしまいと言う事になりかねない。


「川越城の防備は万全なのだろう」

「はい、守将であった皆川広照に変わり北条氏照が大将となり、副将に皆川と松田憲秀。数は一万との事です」

「高坂様は既に陣を構えております」


 武田軍の先鋒は高坂軍六千で、武田軍本隊は九千である。

 高坂昌信と言う事で部下の兵たちは信用があったようだが、昌幸はまったく落ち着きがない。高坂軍の背中ばかり見て、必死に呼吸をしている。

「どうしたというのだ」

「どうもこうも、私の気苦労をわきまえていただきたい!何が悲しくてこんな年でこんな心配をしなきゃいけないんですか!」

「ああもう副将のお前がそんなだと兵が動揺するぞ」

 一人っきりで騒いでいる昌幸だったが、気持ちとしてはわからないでもないと言う兵も多かった。

「源三郎も弁丸もどうかおとなしくしてもらいたいのだが」

「その点は拙者が何とかいたしますので」


 真田家から来た唐沢玄播に守られる十歳児と八歳児。


 信玄だって孫と一緒に来た以上部下が大きなことも言えないが、それでも親としては気が気ではない。


「私たちとて武士の子です」

「……だな……ああ、どうにもぜいたくになってしまっていかん」

「二人とも、これから先の戦場はとても凄惨じゃ。血潮は飛ぶし首も舞う。その事をよくわきまえる事じゃ」

「はっ!」


 綺麗な返事が、昌幸の心をさいなむ。

 出来る事ならば犠牲なしで終わらせたいが、そんな事ができるはずもない。


「決してあわてるな。この戦は北条に抗っても無駄だと言う事を見せつけるためであり決して敵を殲滅する事ではないのじゃよ」

「ですが」

「まったく世話の焼ける。おい高坂に申せ、この心配性の権化をおとなしくさせろと」


 まるでその気のない答えに深くため息を吐きながら、昌幸は鬨の声を聴いた。


「川越城は北条に取り小田原城に比する城。ここを失えば北条の力は半減したも同じ」

「忍城はどうなのでしょう、あれはかなりの堅城です」

「堅くとも小さすぎる。川越城を失えば兵糧攻めで終わる」


 昌幸は必死に前だけを見据えた。

 目の前の難局、齢二十八にして幾度目かわからぬ難局を乗り切る事に集中すべく。



 果たして。


「敵軍が出て来ました!」

「よし、我々は高坂軍を補助すべくゆっくりと前進!」


 ある意味望みを叶えるかのように、本格的な戦いが始まった。

 こうなったらもう腹をくくるしかないと、家臣に守られる二人の童子を忘れて昌幸も前進した。




※※※※※※※※※




 士気だけで将の価値が決まるのであれば、松田憲秀は武藤昌幸よりずっと有能な将だった。

 そう言って差し支えないほどに、松田軍の鼻息は荒かった。

「者ども、我々はこれ以上武田にもてあそばれたいのか!」

 憲秀の声と共に、兵たちが一斉に駆け出す。

 武田軍に負けじと編成された騎馬隊が先陣を切り、その左右には弓隊が並び、いつでも合図あらば発射できると言わんばかりにしっかと武器を握っている。

 さらに鉄砲隊も数名だがおり、信玄や高坂などの狙撃も狙っていた。



 だが、松田軍の相手は武藤昌幸でもなければ、武田信玄でもない。



「来たぞ!」

 武田四名臣の一人・高坂昌信の檄と共に、高坂軍六千も一気に攻撃をかける。

 武田らしい騎馬の突進を受け止めるべく松田軍も弾幕を放つが、落馬した数は十にも満たず、正面衝突が始まる。

「やれ、やってしまえ!」

 憲秀の声と共に、北条軍もいよいよとばかりに本腰を入れ直す。

 お互いがお互いに命の奪い合いを始め、あっという間に場が赤く染まる。刀剣が折れるだけならばまだましで、首どころか手指まで平気で舞う。

 さらに言えば人間だけでなく、馬の首まで舞う。

 教育に悪いとか言う次元を通り越した空間であり、逆にある意味英才教育に向いた場とも言える。

 時々血の臭いに硝煙の匂いが混ざり、耐性がなければ見るまでもなくその臭いだけで嘔吐してもおかしくないほどになる。

 お互いがお互いの命を奪い合い、命を落とさなくとも傷を負って退却を強いられる兵が続出する。


 そして四半刻(三十分)もしない内に、松田軍が非勢になった。

「ええいやっぱり数の差か!」

 三千対六千と言う数の差がやはり響いたか、松田勢が押され出す。

 鉄砲隊を出そうにも、数もなければ練度もない軍勢ではさしたる意味もなく、さらに言えばこの時実は高坂軍にも鉄砲隊はあった。


「あうっ……!」

 銃声と共に側近が倒れた時には一瞬誤射かと思った憲秀だったが、攻撃が前方からであったのに気づき顔をしかめるしかなくなった。


「ああもう…!お前たち、所詮敵軍は疲弊している!長引けばこっちの勝ちだ!」


 憲秀としては、こう叫ぶしかなかった。

 確かに直近の甲州街道防衛戦からは半年近く経っているが、それでもあそこまで連戦に連戦を重ねた以上人的損害は多大だろうし、新たに加わった兵の練度も知れている。今はまだ大将の格と気合でごまかされているがいずれはぼろが出る。いやたとえ歴戦の兵だとしても負傷や連戦による打撃が体を襲い、いずれ体力切れを起こす。ただでさえ甲斐や信濃から来た時点で疲弊しているはずであり、長期戦はどう考えても武田に不利なはず。

 少なくとも武田本隊を動かすまでは粘ってやる。そのつもりで憲秀は軍配ではなく薙刀を握り、自ら突っ込む事も辞さずにいる。

「わし自ら出るぞ!」

「いやまだもう少し!」

「皆の者!大道寺殿の無念を晴らせ!」

 その上に口でも必死に督戦し、武田に殺された仲間の名前を叫ぶ。

 兵たちも期待に応えるべく得物を振り立ち向かい、高坂軍を押し返す。


 将の言葉を信じ、松田軍は戦う。

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