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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第二章 浅井長政の答え
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浅井長政の逡巡

「あーっはっはっはっはっは……!」



 越前の一乗谷城。


 そこで品もなく笑う男。


 それこそ、朝倉家当主朝倉義景だった。


「全くですな、あの織田の犬であった徳川家康が死ぬとは!」

「これで本当の孤立無援ではないか!」


 将たちも酒をあおりながら笑うばかりで、越前一国の主の威厳はどこにもない。


(まったく、あんな若造にひるんでいたかと思うと恥ずかしいわ……!あんな頭がおかしいだけの小僧が!いい気味よ!)


 二年前の姉川の戦いで、朝倉・浅井連合軍は織田・徳川連合軍と戦っている。

 そしてその際、浅井軍は大軍であった織田軍をかなり押し込んだのに対し義景は少数の徳川軍のせいで敗軍の将になった。長政も敗軍の将だったが、それでも言うまでもなく浅井長政の名は上がり、朝倉義景の名は下がった。


 義景からしてみれば、家康の存在自体がおかしかった。


 遠い三河の地からわざわざやって来て、なんであそこまで張り切れるのか。そのせいで自分たちがやり損ねたのかと思うと、織田よりも腹立たしい存在だった。

 義景とて、人並に兵法書は読んでいた。姉川での戦いはまるっきり織田と自分たち朝倉・浅井の戦であって徳川はほぼ他人でしかないはずだ、確かに金ヶ崎で攻撃を受けた時には織田だけでなく徳川勢も攻撃したが、今と同じように東に武田と言う大敵を抱えているのにわざわざ復讐に来たと言う時点で理解不能だった。

 理解不能と言うのは、単純な強敵よりも恐怖心を掻き立てる。相手が強い人間だとわかっていればともかく、ほとんど関係のないはずの戦で執念深く攻撃する家康は義景にとっては別の国の生き物だった。



「とは言え、出兵はいつ頃できるか。そして本願寺は本気なのか……」


 そんな中でも朝倉景鏡はある程度冷静だった。酒を一口二口お義理のように飲みながら、遠江よりずっと寒々しい越前の空を見やる。


「景鏡よ、一向一揆の事か」

「いかにも。今年も我が朝倉領への攻撃は止みませぬ。今は織田と言う大敵を目の前にして争っている場合ではないと言うのに」

「加賀一向宗にしてみれば今更後に引けぬのでしょう」

「しかしあくまでも弱っているのは徳川であって織田ではなかろう。それに武田に余力があるのか?」

 景鏡とて、家康を恐れていることに変わりはない、だがそれだけに、家康を殺した武田軍の事を心配していた。


「武田にどれほどの損害が出たと言うのだ」

「死傷者六千とも」

「アハハハ、それはさすがに盛りすぎでは」

 景鏡は確かに、そう聞いていたのだが、他の誰も真剣に受け取ろうとしない。つまらない戯言を肴に、酒を飲むばかりである。


「となると我々の出兵も難しいか、武田に二の矢がないとなると」

 一応義景だけは真摯に聞いていたが、それでも積極的に兵を動かそうという発想はない。元々越前と言う北は海、西は小国の若狭、南は小国分立状態の近江と言う環境であり、敵はほぼ東にしかいなかった。さらに北東の加賀は一向一揆と言う名の大将のいないつかみにくい軍勢であり、美濃の斎藤氏は義景が長じたころには道三と義龍の家督争いなどで西に向けてちょっかいを出す余力は乏しかった。

 そんな環境の中で育った良くも悪くも生まれながらのお大名様だった義景にしてみれば、野心と言う概念自体がほとんどなかった。



 ————————————————————要するに、動きたくないだけなのだ。


「織田はそれでもいずれ参ります」

「いずれとは」

「武田が疲れている今こそ」

「確かに織田のような非道な輩ならやりかねぬだろうな、まあとりあえず、公方様と本願寺にもその旨をお伝えせねばなるまい。ああそれから教如と言うのはどの程度の若者だ」

 一応動いてはいるが、あくまでも味方を焚き付けるだけ。自分は積極的に動こうとしない。自分は偉いから最後の最後を締めくくってやればいいとか言う傲慢な考えではなく、面倒くさいのだ。


「もちろん浅井にも伝えておけ。いずれ織田を討ちに向かうと。あああの妻の事ならば気にするなと伝えておけとな」

「はっ……」


 酒宴でこんな重要な事が言える程度には緩いのが朝倉家であり、義景だった。その義景の方針が移ったからか民の忠誠心は低くなかったが、それでも強いのとは訳が違う。



 もし信長がこの席を見ていたら、戒めのように剣を抜いていたかもしれない。

 そして孫子がかつてそうしたように、軍規違反とか何とか理由を付けて誰かを斬り、このだらけた雰囲気を正そうとしたかもしれない。


 景鏡にはそんな気力も、発想も、権威もなかった。




※※※※※※※※※




「やはり、な……」

 老人と呼ぶにはまだ若い男もまた、小谷城にて笑いを噛み殺していた。言うまでもなく、徳川家康死亡の一報である。

「あれは元からどこかおかしい。ただの人好しと言うにはあまりに青臭く、そして粗暴と言うにはあまりにも忠実すぎた。信長め、飼い犬を失ってさぞ悲しかろう……」


 —————その男、浅井久政もまた家康を理解できなかった。


 他国の応援など、本気でやる物ではない。真っ正直にやって大損をして他の家を潤わすなど、正気の沙汰とは思えなかった。それこそボロ布のように使いまわされ、養分となって溶けて行くかもしれない。

って言うか家康が死んだ後の跡目には信康と言う名の信長の娘婿しかいない以上、実質そうなるのが確定ではないか。


「おい誰か、あの馬鹿息子に言って来い、気に病む必要なんかかけらもないとな」


 久政はそう側近の男に言いつけると一人っきりになった京極丸で、笑った。



「フッフッフッフッフ……ハッハッハッハッハ……!」


 城中に響き渡るほどの笑い声に、邪心はあっても憂いはなかった。







「……そうか」

 長政はそれ以上何も言わない。

 実は久政より二刻早くその事実を知っていた長政は信玄により家康が死んだという報を受け、じっと信長の事を考えていた。


「父上はどの程度徳川と武田の損害を知っていた」

「徳川は三割の兵を失い、武田も一割近く死んだと申し上げました」

「実際は」

「武田はほぼ同数の兵が負傷、都合五千以上の被害が出ております」

 その情報を久政に伝えたのは、朝倉でも武田でもなく長政の配下の間者だったのだ。

 久政は隠居人に過ぎず、あくまでも家督は長政。多少の問題はあったにせよ、長政の言う事は聞いても久政には従わない人間はその逆の数倍いた。


「徳川の被害はおよそ三千と言う事になるが」

「ですが石川とか言う男以外が死んだという話を聞きませんでした」

「家臣団は健在と言う事か……」


 長政は徳川の家臣の名前も規模もある程度覚えていた。

 石川以外に、酒井、大久保、大須賀、本多。そして二か国でだいたい一万。

 そこから石川と三千の兵が消えたとして残りは七千。


 —————自分たち浅井より上ではないか。


(ぐらつきこそすれど倒れるようには思えんぞ……)


 最近の浅井家の情勢は、まったくよろしくない。


 何より、家臣の数が減りすぎていた。

 昨年佐和山城を失った際に磯野員昌が織田に降伏、新庄直頼も丹羽長秀の傘下に入ってしまい、遠藤直経・浅井政澄は姉川で討ち死に。

 さらについ最近、横山城を攻めていたはずだった宮部継潤が逆に羽柴秀吉に調略されて寝返るというありさまで、残っているのは足許定まらぬと評判の阿閉貞征と既に五十九歳の赤尾清綱ぐらいしかいない。


 と言うか、浅井家の石高は二十万石少々しかなく、兵力としては五千程度しかない。




 家康を失ってなお、徳川家は浅井以上—————。




「少し京極丸へと向かう」


 長政は、ゆっくりと立ち上がった。

 まるで戦場に向かうような顔で慣れ切ったはずの城を歩き、歩を進めた。




「おう長政か!」

「あの、父上……」

「今日は朝から祝杯よ!お前も飲むか!」

「話がまとまったら……」

「そうかそうか、それはめでたい!アッハッハッハ……!」


 京極丸の主がとっくりを転がして笑っているのに少し辟易しながら、長政はゆっくりと座を組んだ。


「で、だ。相変わらず辛気臭い顔をして何の用だ」

「朝倉殿はご存じなのでしょうか、徳川家康の死を」

「無論だ、越前もまた美濃の隣国、美濃がどうなっているかなど分かっておるに決まっている、ああその美濃の尻をなめていた家康の有様もな、アッハッハ!」

 この上なく楽しい現実に踊り狂う父親を前にして、長政はなおも憮然としていた。

「ああそうかそうか、お前孫の事を心配しておるのか?大丈夫だ、織田は別に絶えるわけでもない、我が浅井の一部となって生き延びて行くだけだからな、アッハッハ!」

「その事なのですが、この機を逃すことはないと思います」


 有頂天になっている久政の自尊心をくすぐるかのような物言いに、久政はますますご機嫌になった。

「おおそうかそうか!ついに決心がついたか!」

「ですが浅井のみではとても数が」

「わかっておるわかっておる!お前は休んでおれ、はっきり言おう、織田の出でなければあれはいい嫁だからな、わしが自ら左衛門督(朝倉義景)様と共にやってみせようではないか!」


 織田に歯向かうと言うだけでこれだった。酒の勢いとか関係なく、久政とはこんな顔ができる人間だった。若い時はともかくある程度経ってからと言うもの最初は六角家、その後は朝倉家べったりで、自主独立の機運は薄くなっていた。

 そしてそれ以上に、にわか仕込みの織田家を嫌っていた。お市はそんな義父にもよく尽くしようやくある程度の歓心を得ていたが、それでも織田家全体への感情を好転させることはできていない。できていれば、金ヶ崎を織田が攻めた時に長政を焚き付けて後ろを付かせるような真似はしなかった。


「問題は期日と兵の状態です、あと何より雪です」

「雪か、まったく面倒だな。とは言え千載一遇の好機である事に変わりはない、わし自ら一乗谷に赴いて出兵要請をしてもいいぐらいだ!あんな仏敵など、いくら殺しても罰など当たりようがないわ、だろ?」

「あの、本気ですか、自ら出兵要請など」

「お主はさっきも言ったようにこの小谷に控えておれ、それが一番だ。わしは織田にとっては他人だからな、そっちの方が後腐れもないだろう、ハッハッハッハッハ……!

 おおそうだ、酒を持って来い」

「あの、さすがに」

「何を言うか、長政に飲ませるのだ!そうだろう!」

「頼む」


 最後の最後まで笑っているばかりの父親を説き伏せた長政は笑顔を作りながら、久政が持って来させた酒を飲んでいた。

 同じ酒を飲んでいるはずなのに、全然酔えない。別段酒豪とも思っていないが、それにしても頭が冴えまくっている。

(今さら後になど引けぬ……だが徳川がなおも戦えそうなのに対しこの浅井は……)

 今更あの義兄が自分を許すはずもない。だが同時に、織田信長と言う人物が果たしてどこまでの器の持ち主なのか。

 たとえ泥水をすすってでも、生かしてくれるのであれば。


 猪口の中に、徳川以上に力の衰えていない織田の刃がきらめく。

 自分が酔えないのはその刃のせいではないことを自覚しながらも、長政は酒をあおった。




 その刃が、ほどなくして唸ることを知る由もなく。

明日は全日本大学駅伝です。皆さん応援よろしくお願いします!

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