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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第十一章 川越決戦
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武藤昌幸の困惑

武藤喜兵衛でもないなー、と思って。

 天正二年二月三日。



 隠居人となった武田信玄は、小姓頭と共にゆっくりと茶を啜っていた。


「遠州の民はどうだ」

「白き猫でも黒き猫でも、鼠を取るのが良い猫です。所詮徳川もまたにわか君主、さほど問題はないようです」

「上野は」

「北条は我らになつききっておらず、そのためまだ国情が安定しているとは申せませぬ」




 先祖代々の甲斐。

 信玄が二十年かけて取った信濃。

 今川義元との同盟を破棄してまで奪った駿河。


 そこに、この二年で徳川から奪った遠江。

 織田から奪った美濃半国。

 そして此度北条高広がこっちに尻尾を振り始めた事により舞い込んで来た上野。




 武田家は、拡大と言うより肥大化とでも言うべき速度で膨れ上がっていた。



「織田は律儀ですな」

「喜兵衛、お前もだ。もういい加減小姓頭ではなく武田家当主の家臣となればいいのに。いや、武藤昌幸」


 喜兵衛こと武藤昌幸は、あくまでも信玄の家臣だった。

 息子たちが既に信勝の家臣になっている中、いつの間にか所属が分かれていた。


「それにしてもなぜお主は武藤家にこだわる。逆にやりにくいだろう」

「お館様、いやご隠居様はそれがしに山県様にでもなってもらいたいのですか」

「まあそんな所だ。武藤と言うのはかえって重いからな」

 武藤家は喜兵衛の養父の信堯は信玄の生母の大井の方の兄弟であり、養子とは言え昌幸は信玄のいとこ同士と言う事になる。言うまでもなく源三郎・弁丸と信勝も遠縁ながら親族と言う事になり、色眼鏡で見られかねない危険性もある。

「我が子ながら源三郎もずいぶんと……」

 これまでは良くも悪くも有象無象の坊や扱いで居られたが、あそこまで存在を見せてしまうともうそうは行かない。素人そのものの指揮で北条勢を叩いた去年の戦いを消しようがない以上、何とも難しい。


「ようやく雪も溶け往来も自由になったとは言え、まだ農兵たちにはさほど余裕はございませぬ。このあたり武田は織田に比べ不自由でございます」

「信長もずいぶんと必死よな。まさか石山本願寺まで飲み込むとは思わなんだわ」




 そして、それ以上に深刻なのは織田軍の伸張だった。


 昨年晩秋に本願寺を圧倒し、雑賀衆をも織田が殲滅したと聞かされた時は信玄でさえもさすがに目を剥いた。

 顕如の長男の教如と下間頼廉が入滅、さらに雑賀衆の鈴木重秀と土橋守重が討ち死にと言う壊滅的打撃を前に、本願寺はもはや形骸化したと言わざるを得ない。


 雑賀衆も主力を失い、紀州最南端の十ヶ郷まで追い込まれている状態で北紀州は既に織田領になっているとも言われている。

 こんな状況だから丹波も安泰にはほど遠く、北の丹後・但馬もいずれは攻められて織田領になるだろう。いや既になっているかもしれない。


「織田はこの一年で北近江・越前・加賀・能登・越中・飛騨・伊賀を手に入れました、さらにここに和泉・丹波・但馬・丹後ともなれば六分の一衆どころか三分の一衆ですぞ」

「尾張・美濃・伊勢・志摩・南近江・山城・若狭・摂津・河内に、それだけ加わると言うのか…………ハッハッハ、何ともはや、北条みたいだな」


 信玄はあくまでも余裕の構えを崩さない。

 この北条は小田原の後北条ではなくかつての鎌倉幕府の得宗家であり、元弘の乱の直前には三十ヶ国もの守護を独占すると言う暴挙に出た事を言っているのだろうと昌幸にもすぐにわかったが、さすがに悠長すぎだ。

 単純に名前を出した国だけでも十九ヶ国だから三割だし、さらに紀州や播磨、淡路が加わればそれこそ三分の一衆である。


 もっとも、織田の勢力拡張と比すれば武田の伸張などただの埋め立てぐらいにしか思えないが、それでもその伸張を実現させるだけの力が織田にはあった。雑賀衆が崩れた紀伊は得る物が少なそうなだけでいつでも攻められそうだし、足利義昭の妻は播磨の赤松家の家だからその方向で行けばできなくはない。淡路など文字通りの小島であり、織田の船団をもってすれば一ひねりだろう。


「だが我々は将軍殺しの家だ。そこでさらに罪を犯せば民を完全に敵に回す」

「織田領への出兵はできぬと」

「ああ、そのためにも我々も拡張せねばならぬ」

「また出兵なさるのですか」

「そうでなければ武田はなくなる。今は正念場なのだ」


 織田はもう、武田を捨て置くことはない。本願寺まで盛大に叩いた以上、織田の脅威はもはや武田でなければ毛利ぐらいしかない。毛利がどこまで武田のために粘るかはわからないが、全力でぶつかられればおそらくは織田が勝つだろう。ましてや織田には、両面に当たるだけの力がある、と言うか備わる。


「今のうちに力を付けよと、ですが狙いは越後ですか伊豆ですか」

「伊豆ごとき小国を得て何の意味がある。それに越後を今攻めれば上杉は徹底抗戦するし最悪織田が干渉して来る。

 狙いは武州よ」


 武州————————————————————そう、武蔵。


 確かに、伊豆よりもずっと大きく、越後と違い織田の干渉を受ける見込みもない。


「されどなぜ上州ではなく、兄上たちがいると言うのに」


 だが武蔵より上野の方が治めやすく、明らかに奪いやすいはずだ。上野には武田に走った北条高広がおり、現在は昌幸の兄二人がその平定に向けて動こうとしている真っ最中である。まだ兵が疲弊している上に収穫前なので表立っては動けないが、そこに兵を注ぎ込めば上野全土に甲陽菱の旗を立てる事はさほど難しくないはずだった。


「上野を抑えた所で北条は参ったと言わん。我々は何としても北条に参ったと言わせねばならぬのだ」

「しかし小田原城がある限りは」

「勘違いするな、武蔵は佐竹や佐野にくれてやってもいいのだ」


 それを承知の上で、信玄は武蔵を攻めると言う。

 しかも、領国を得る気はないらしい。



「そんな」

「上杉は関東の諸侯からしてみれば頼れる存在だったが、北条はそれこそ仇敵だ。力が落ちたとなればこぞって叩きに来る。そう思わせるのが大事だ」

「しかし上杉が北条と手を組む可能性がございます」

「お主もしつこいな。詰まる所どんな答えが欲しいのだ」

「ですから、武蔵のどの辺りまでを」

「川越城だ」




 川越城と聞いた昌幸は腰を抜かした。




 川越城と言うのは武蔵の中でもかなり東であり、移動距離は半端な物ではない。

 甲州街道を無視して強引に山地を突っ切ったとしても、半月はくだらない。もちろん信濃及び上野から行く事も考えられるが、北条高広にまだ信用がないし、明らかに読まれる。


「何をおびえている。わしはおぬしより二十六も年上だぞ」

「では自ら」

「何を言うか、わしはもう用済みの隠居人だぞ。どこへ行こうが勝手だろう」

「だとしても、まだ信勝様には大殿様が」

「お前がいるだろう」



 その挙句こんな風に言われたものだから、昌幸は白目をむきそうになった。



「わしは幸運にして寿命を延ばされているが、もうそれも限界に近い。戦場に立てるのはいい所あと三度ぐらいだろう」

「その三度で北条を黙らせ、さらに……」

「ああ、信長をも叩いて武田に二度と手出しをできないようにする。それでこそわしも安心して眠れるという物よ」

「やはり、そうですか……!」


 小姓頭であった昌幸は無論、信玄の病状と言うのを知っている。それこそ労咳を必死に抑え込んで前線に出ていたような状態であり、それが急に元気になったと言うのも公平に考えておかしい。

 だからその内止まるかもしれないとは昌幸も覚悟していたが、まさかその事実上の跡目が自分とは思いもよらなかったというか、思いたくなかった。


「先ほど邪魔だとか言った口で何だが、いざとなればその家柄で残った者たちを黙らせてくれ」

「でもうんたらかんたら言う人間がどれだけいるのやら」

「手厳しいのう、だがわしは本気じゃぞ。ご当主がいかに立派になろうとも、それを支える者たちが未だ整っておらぬようではな」

「山県様や馬場様は」

「彼らは皆わしとそう変わらん。皆の息子たちにも期待はしておるが、蒲生とか森とかのようにな」



 二十八歳の昌幸は、確かに明日の武田家を支える存在と言えるかもしれない。

 それでも中核に立てと言うのはなかなかに酷だし、ましてや若いと言っても蒲生や森のような十代の家臣などと同じ事は出来ない。もちろん源三郎や弁丸ではいくらなんでも幼すぎる。

「なんならこの前遠江で見つけた十四の少年をそなたの手で育ててみぬか?なかなかに面白いぞ」

「遠江と言うと、徳川の家臣では」

「織田の五男坊をしつけたそなたがよく言うわ」

 必死に食い下がる昌幸だったが、信玄は全く立ち位置を変えない。

 当初反抗的だった織田御坊丸も、昌幸の下で信勝や息子たちと遊ばせて心を解きほぐし織田との戦いにさえ駆り出す事もできるようになったのだからと言わんばかりに、徳川に近しいはずの家の存在の面倒を見ろと言ってくる。


「わかりました!ご隠居様には敵いませぬからな!」

「やれやれ、そんなにいきり立つ事もなかろう。なんだかんだ言ってそなたもまだ若い。血気に逸る事もあろう、まあそういう所が人間臭くて良いのだがな」


 信勝の行く末を見守るのが自分の仕事だと、わかっている。

 だがもし信勝が、この目の前の隠居人のように育ったら。


 素晴らしいし立派だとは思うが、同時に空恐ろしい。




(毒を食らわば皿まで…………か…………)





 あまりにも力強過ぎる主君を前にして、武藤昌幸はただ首を縦に振る事しかできなかった。

「真田より重い名前になってるんだが」

「それはそれ、これはこれ」

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