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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第十一章 川越決戦
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風魔小太郎の胸襟

「甲州に攻め入る際、それがしは配下の忍びに甲州の会議を探らせました」



 文字通り背中を預けながら景勝に問いかける小太郎は、景勝との対比もあるが実に小さく見えた。

「その際、躑躅ヶ崎館にてあまりにもお粗末なそれが行われた事を知ってしまい、どう報告するか迷い、何もわからなかった事にしてしまったのです」

「何もわからなかった事にした?」

「ええ、策か素か判断しきれずに」

「ううむ……」

 景勝の口から唸り声が出た。

 いくら生で聞いた訳ではないとは言え、信勝とは風魔忍びをもたばかるような敵だったと言うのか。

 もちろん信勝本人だけとは思えないが、それでも信勝の比重はけっして軽くない。

「その結果、北条家は見事に策にはまり、拙者自身も小山田信茂めを狙いましたが失敗、次に出て来た武田太郎信勝の軍勢の前に退くより他ありませんでした…………」


 元々小声だったが、最後の方は消え入りそうになっていた。

 目一杯感情を抑え込みながらも、悔しさを噛みしめている。


「それで大道寺殿は」

「ええ、小山田信茂めの手により、いや武田信勝の手により」

「ふうむ……すると信玄が逝っても武田は安泰であると」

「そう拙者は見ております。あくまでも拙者個人の視点ですが」


 小太郎の話がひと段落したのを悟った景勝は改めて小太郎自身の見解を求め、その答えに満足した。


 客観的に見ても、主観的に見ても、公的に見ても、私的に見ても、武田信勝と言う存在の恐ろしさは明白だった。

 その上さらに織田信長や北条幻庵とも互角以上に口で渡り合ったと言う話が事実である事を改めて認めざるを得なくなり、なおさら背筋が寒くなった。


「北条はこの上杉の力を求めるか」

「北条家ではなく、この風魔小太郎は求めております」

 小太郎が頭巾を軽く外すと、景勝は左手の拳を右手のひらに叩き付けた。

「武田に対する個人としての恩讐か」

「いかにも。忍びとして、単純に許しがたき真似をされて来ました。ああ、上杉にとって聖地であるこの場所に侵入した事については、拙者自身面の皮の千枚張りであり深くお詫び申し上げます」




 景勝が構わぬと声を出そうとすると、風魔小太郎の背中は消えていた。




 残ったのは三枚の真っ赤な葉っぱだけであり、よく見ると正三角形に切り取られている。まるで、北条の家紋たる三つ鱗を示すかのように。


 そして、なぜ真っ赤なそれなのか。


「その時から……」


 景勝は葉を持ち上げる事なく見下ろし、葉が真っ赤だった時の事を思う。

 葉が赤くなるのは十月初旬から十一月上旬、越後に比べれば相模は温暖だが、それでも冬になればこうなるのは同じはず。

 北条と武田の戦は九月、おそらくその時か近いうちに取った思われる葉っぱ。


 さらに言えば、紅葉。


 こうよう。


 ————————————————————つまり、甲陽菱!


 景勝がそこまで思い至った所で葉を拾ってみると、見事なほど正確に斬られている。




「……………………」




 全てを感じ取った景勝は三枚の葉を布に包んで拾い、刀を差しながら毘沙門堂を出た。


「殿……もうですか」

「気にするな、有意義な時間であった」

 予想よりかなり早く出て来た主君に兵たちがひるんでいたようだったが、それでも景勝は自分なりに上機嫌だった。

 こんな所まで風魔小太郎の侵入を許したのに対しても、先の敗戦による兵の質の低下だからしょうがないと和やかに割り切れていた。


 結果一刻どころか四半刻もしない内につい大広間に戻ってしまい、必死に気持ちを落ち着けるべく筆と紙を取り出して二通の文面をしたためる事とした。

 不思議なほどに頭が冴え、まるで謙信在世の頃のように手が動き出す。どうしても乱文乱筆になってしまうのをこらえながら、幾たびも深呼吸をする。



 やがてそうしている間にもう半刻が経ち、手紙を置き去りにして広間へと赴く。

 定刻よりかなり早くやって来たにもかかわらず揃っている家臣団たちに、景勝は改めて表情を引き締めながら着座する。


「さて、改めて皆の意見を聞きたい」


 景勝が先ほどと同じように家臣たちに諮ると、家臣たちが大広間を歩き出し左右に分かれた。

 景勝はじっと家臣の動向を見守り座が再び落ち着くのを見るや、上杉一族となった山浦国清に目配せする。

「我々は殿が心を静謐になされるまでの間自分なりに議を行っておりました」

「それでどうなった」

「北条に救いを求めるべしという意見と東北に逃れるべしと言う意見で対立しております。そしてそれがしは北条を頼るべきだと考えております」


 国清の側には本庄繫長と新発田重家が座り、一方逆側に色部長実と柿崎晴家と斎藤景信がいる。年齢から見ても国清はともかく大御所と若手と言った風情で、それぞれの立場がよくわかる。

 晴家と景信は親の代から武田のみならず北条とも戦って来たお家であり、それと手を組むぐらいなら東北勢の方がましだと言う事なのだろう。長実もまた同じと考えて差し支えない。一方繫長と重家はそれなりに年かさで、協力してくれるかわからない勢力より確実に武田の脅威を味わっている北条の方が話が通じやすいと見ている。国清については武田にはともかく北条にはさしたる因縁がないからだろう。

 

「さて、私の意見を述べよう。

 私は、北条に救いを求める」


 その瞬間繫長たちがしめたと言う顔になり長実が難色を示したが、景勝はまったく動じる事はなかった。


「百聞は一見に如かず。その強さを生で見た事がない存在には武田の恐ろしさは伝わらぬだろう。我が父は偉大なる君主であったが、その父でさえ征夷大将軍様が羽柴秀吉と言う織田信長の配下となっているという話を信じようとしなかった」

「それは」

「もし信じていればあのような事にならなかったかもしれぬ。無論たらればほど醜いものもそうそうないがな」

「要するに、武田に敗れたゆえに北条は上杉の気持ちがわかると」

「さようだ。もちろん三郎(景虎)殿の事もあるし管領様(憲政)の事もあるゆえ大きな事は言えぬが、私は北条と共に戦いたい。与六」


 言うべきことを言い切ったと見た景勝は与六に小さな徳利を持たせた。別に謙信愛用とかではなく、最近ようやく酒の味を覚えた景勝が使い始めた安物も安物の徳利。


 それを、いきなり景勝は大広間中央に向けて投げ付け、見事に叩き割った。土くれが大広間に飛び散り、将たちをして思わず身をすくめる。


「これが最終決定だ。この春日山城にだけ兵を集め残る兵は全て持って行く」

「されど、行先は」

「武州だ、これを見よ」


 景勝は、小太郎から投げ付けられた書状を開く。




「武田信玄は今年を激戦に続く激戦であった軍勢の静養に当てるであろう。されど、昨年上野に手を伸ばして来たように決して野心を失った訳ではない。

 織田信長は思ったより律儀で決して約定を破る事はないと読み、信玄は動ける範囲いっぱいいっぱいで動くだろう。もちろん貴国や小田原を狙うとも考えたが、今越後をせしめれば越中にて柴田と言う男と接敵すること必至、そうなればいつでも後方を刺される武田に利あらず。かと言って小田原が易からぬ事、自画自賛の意がある訳でもないが上杉殿ならばご承知でござろう。

 そしておそらく、信玄は織田との和議が切れ次第決戦に臨むべく、この北条を二度と武田の脅威にならぬようにせんと欲しよう。さすれば上州ではなく、狙いは武州である。この北条相州は、勝手にそう読んだ。もしこの拙劣な愚考に耳を傾けていただけるのであれば、幸せな事この上ない。共に甲斐の餓虎と小虎を狩り、不識庵殿の無念を晴らそう」




 確かに来年武田と織田の和議が切れるのであれば、武田は織田の事を考えねばならない。だが上杉に戦場の上とは言えとんでもない因縁を作り北条とも向こうがやったとは言え関係が切れてしまった以上、全力を注ぎ込むのは難しい。

 だが下手すれば十万でもおかしくないらしい織田軍に対し、武田は強引にかき集めても四万がいい所。もちろんだから負けるとか言う訳ではないが、後顧の憂いを絶たねばどうにもならないのもまた確かだ。


「この書状は」

「風魔小太郎殿だ。昨年、武田の跡目・信勝に出し抜かれた」

「申し訳ございませぬ!」

「いや、この状況では致し方がない。小田原からこの雪道を越えてここまで来たのだ。忍びだとしても生中ならぬ労苦であり、ましてや今の上杉の兵では探知も難しかろう」

 風魔小太郎と言う名の他国の忍びに入られた事に恐縮し平身低頭する家臣たちだったが、景勝はびた一文気にしていない。それより風魔小太郎自身の無念の念が聞けたことに喜びを感じ、決断をする事ができたのを喜んでいる。


「とにかくだ、これから人選については諮って行くが、我々は武蔵へ向かい北条殿と共に戦う事は決定だ。どうか、その旨を皆に伝えてもらいたい!」

「ははっ!」



 先ほどとは全く違う空気で、散会した。


(信玄、信勝……!この上杉の力、味わわせてやる……!!)


 一人きりになった景勝の胸に来居するのは、義父や義弟たちの悩み・苦しみ・悲しみ。

 その全てを晴らすべく、戦いの準備を整えるために立ち上がる。


 そして、その前には二通の手紙が必要だった。



「管領様にはご迷惑をおかけする……」


 先ほどしたためていた手紙、北条氏政への同盟承諾の願いと、上杉憲政への詫び状。

 とりわけ後者はどうしても自分の手で渡さねばならぬ。


 どこまでも律儀な叔父の血を、景勝は確かに引き継いでいた。

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