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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第十一章 川越決戦
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上杉景勝の苦悶

 一月末日。


 未だ雪深い春日山城内は、雪溶けを複雑な気持ちで待つ人間たちでいっぱいになっていた。



「農民たちの懐具合は」

「租税を抑えたので豊かではありますが何せ……」


 上杉家当主、上杉景勝は頭を抱えるしかなかった。


 寒いと言うより寒々しい城内の大広間に集う家臣の数は、去年の同じ時期の三分の二になっていた。


 それに去年は雪の中だったので集められる人数だけを集めたが、今年はほぼすべての重臣を動員してこの有様なのである。


「弥三郎(色部顕長)様は体調不良に付き静養中で惣七郎(色部長実)様が参られ、さらには新発田因幡守(重家)様や本庄様、山浦様、さらに柿崎和泉守様や斎藤乗松様も」

「そうか」


 小姓の樋口与六が道すがら名前を唱えれば唱えるだけ、景勝の心は余計に冷える。



 色部長実と新発田重家はいいとしても、山浦国清の父は武田信玄により領土を追われ謙信に救いを求めて来た村上義清であり、その無念を晴らせぬままちょうど一年前にこの世を去ってしまった挙句謙信まで同じ場所に行ってしまったのだから実にやるせない。

 それで柿崎和泉守こと柿崎晴家は景家の息子で川中島にて景家と一緒に討ち死にした祐家の弟であり、乗松こと斎藤景信はやはり川中島で死んだ朝信の息子である。



 いや、そこまではまだいいとしても、本庄繫長である。




 繫長は五年前に謙信に対して反乱を起こして許されたものの、当然ながら冷や飯食いだった。

 当然川中島の戦にも加わっていなかったが、逆にそれ故に存在が大きくなっていた。


 言うまでもなく昨年の川中島で、上杉家はあまりにも多くの損害を出した。

 その欠員を補うために晴家や景信他戦没者たちの弟や子などの親族をかき集めて無理くりに世代交代を行わねばならず、当然ながら兵も大幅に不足している。

 去年一万五千の兵を注ぎ込めたのに、今では一万ですら怪しい。


 挙句上野にいた北条高広は、上杉も北条も捨てて武田に走ってしまった。謙信が死ぬほどに打撃を受ければわかる話だが、それでも不愉快な事に変わりはない。



 とにかくすべての不愉快な感情を抑え込みながら春日山城の大広間にやって来た景勝に対し、人数も平均年齢も下がった一同が頭を下げる。

 正月と末日と言う違いはあれど佐竹家のような疑似的な連帯感もなく、ただひたすら寒々しい空気だけが立ち込める。

 多数置かれていた火鉢など、何の役にも立たない。


「さて……この雪もほどなく溶けてしまうだろう。そうなればこの上杉はもはや風前の灯火だ、その風前の灯火を守るために何が必要か、誰かいい案はないか」


 景勝は溺れかけのような声で家臣たちに諮った。


「武田は来るのでしょうか」

「来る。こんな弱り切った我々を襲いに来ないはずがない」

 楽観論を吐く長実に、景勝はなおさら仏頂面になった。

「父上はおっしゃっていた、信玄が川中島に難渋するのはその先の越後が目的であり、川中島は通り道に過ぎぬと」

「では駿河を得た以上この越後はそれほど」

「駿河の海にしかできぬ事もあれば越後の海にしかできぬ事もある。何なら佐渡を攻めても良いのだからな」


 雪がなくなれば武田が来ると言うのは、もはや景勝の中では確定的だった。

 そして、今の上杉に守り切れる力はない。

 奥州の伊達輝宗とかに援護を頼もうにも、ほとんど没交渉で繋がりようがない。



 ————————————————————かと言って、織田に頼るなど論外だ。



 確かに足利義昭を殺したのは信玄だが、そもそも義昭を戦場に駆り出したのは織田信長だ。謙信にとっては信長も信玄以上に許しがたい存在であり、その家臣もまた自分に服するか罪人として断罪されるかのどっちかでしかない。

 今越後の隣国の越中は織田家臣の柴田勝家がその影響力を急速に拡大させており、当然だが上杉にはそれを阻止する力などない。

 越中の次は言うまでもなく越後であり、最悪の場合越後は武田と織田の第三の戦場と言うか草刈り場になりかねない。

「飛騨は」

「三方向と一方向では訳が違いますし、それ以上に抵抗する意味があるのか……」

 飛騨では自称姉小路の末裔を名乗る三木自綱が勢力を拡大していたが、織田から見ても武田から見ても文字通りの雑魚でしかなく、そんなのを当てにする意味は全くない。織田が本気になればあっという間に従うか滅ぶかしなく、少なくとも上杉の有効な味方には全くならない。

「いっその事武田に頭を下げて」

「悲観論が出るのはわかるが、それでは不識庵様や七郎(景虎)様、父上たちはどうなる。それに山浦殿」

 当然こんな意見も出て来るが、当然の如く却下された。

 それでは謙信たちにあまりにも申し訳が立たないし、何より今更降参するぐらいならもう少し早く頭を下げねばおかしい。

「ああ、それこそこのままでは父上も死に切れぬ……と言うか大体、前年は徹底抗戦の構えだったはずではないか」

「そうだったな。だがどうしても弱気になってしまう。どうかご容赦ください!」

「わかっている……だが正直私自身とんとわからぬのだ……」


 景勝もまた、迷っていた。



 本来なら言うまでもなく、徹底抗戦すべきだった。


 だがそうした所で武田を討つ力などないし、織田を受け止める力もない。

 かと言って積極策を取ろうにもどっちに進んだ所で弾き返されるか打ち砕かれるかなのがオチであり、雪が溶けてから来た相手を受け止めてまた雪が降るまで籠城するなどまったくの絵空事である。それに織田はともかく武田は雪の恐ろしさを知っているから、そうならない前に自分たちを殲滅しに来るだろう。




 ————————上田を 残し下田を ことごとく 炎並ばせ 勝ちを取らせず




 こんな狂歌が川中島に立てられていたと言う話もある。


 上田・下田はうえだ・しもだではなくじょうでん・かでんと読み、要するに米が良く取れる田と取れない田と言う事だ。

 上田と下田は当然のことながら「比」較される、つまり、「田」と「比」を合わせて毘沙門天の「毘」、つまり上杉謙信と言う事だ。

 それに「ことごとく勝ちを取らせず」と言うだけでもなかなかに意地が悪いが、より問題なのは「炎並ばせ」と言う部分であり、「炎」が二つ並べば炎炎で「火」が「四つ」、つまり武田「ひし」であり、武田がことごとく上杉謙信のそれを破壊したと言う事でしかない。

 さらに言えば「取らせず」も「虎」とかかっており、「甲斐の虎」とも取れるがそれ以上に「虎千代」「長尾景虎」「上杉政虎」「上杉輝虎」と呼ばれた謙信に対して盛大に喧嘩を売っている。ついでに言えば「上杉景虎」も亡くなっており、死体蹴りどころの騒ぎではない。


「織田も武田も、決して手を抜くことはない。必要とあらば平気で皆殺しにする」

「なればこそいったんこの春日山城を捨てて上越にでも」

「それは無論考えた。だがそのままやった所で援軍がなければ先細りなだけだ。伊達や最上に頭を下げるのか、それでも一向に構わんが」

「上杉がどれだけの物を両家たちに与えられるか、と言う事ですか」

「だが奥州は正直まとまっていない。伊達も最上も、芦名もそれなりの力を持っているがそれなりでしかない。三家ともさほど仲は良くないのだろう」

「と言うより、ほぼ三国時代です」

 九州が龍造寺・大友・島津の三国時代だったように、東北でも三国時代をやっていた。九州に比べまだ細かい諸勢力は多いが、いずれこの三国のどれかに落ち着くだろうと言うのが見識だった。そこに上杉が加われば重宝されるかもしれないが、逆に言えばその勢力にこき使われて武田や織田どころでなくなる可能性も大いにある。万が一付く勢力を間違えれば共倒れだ。当然ながら上杉は芦名とも没交渉であり、それこそ飛び込みと言うか景勝自ら行くぐらいの覚悟がなくてはいけない。



「ああ、いったん休んでくれ。一刻後に再び招集をかける」



 結局何も決まらないまま、景勝は散会を宣言するしかなかった。


 謙信は、まだ自身の後継を決めていなかった、一応甥である景勝の方が優位であったが、景虎とか言う名前を寄越す時点で景虎もかなり気に入っていた。

 そんな状況だから堂々と後継者足りえる事もできないまま、競争相手すら失って当主になってしまった。


 正直、何をしたらいいのかわからない。信康や信勝のように保護者も持たないまま、十九歳にしてそんな責務を負わされた景勝は、勇猛である以前にただの青年だった。


「殿……」

「毘沙門堂へと向かう」




 こうなると景勝が頼れるのは、毘沙門天だけだった。


 一人で父が遺した毘沙門堂へと入り、じっと経を唱えて気持ちを落ち着かせる。

 底冷えさえも屈辱の炎でごまかしながら、毘沙門像に向き合う。

 父親と同じ位置に座り、横に刀を置き両手を合わせる。


「オンベイシラマンダヤソワカ……!」


 真言を唱えながら、必死に自分の中の怒りと迷いを抑える。


 この難局を前に、どうすべきか。


 己が疑問と、現実と向き合い、答えを求める。


 心を無にして……




「む!」




 それでもとっさに、刀に手が伸びてしまう。


 そして金属音が静寂を極めていた毘沙門堂に鳴り響き、景勝を戦場へと引きずり込む。




「誰だ!」

「風魔小太郎でございます……」




 そんな中、あっさりと侵入者はその身柄を明かした。


「風魔……!?」

「いかにも。どうか我が主の書状をご覧くださいませ」


 風魔小太郎は景勝から九尺ほど離れ、書状を床に転がす。

 景勝は闖入者に気を許すことなくじっと刀を握り小太郎をにらみつける。



「毘沙門堂に立ち入った事は全力で詫びます……されど今は前後の見境を述べている場合ではなく……」

「北条と組めと言うのか……!」



 北条と組むのは、案としてはもちろんあった。

 だが元長尾景虎が北条により所領を追われた上杉憲政を抱え込んで上杉政虎となった以上、景虎の事を加味しても北条と組むのは難しい。

「拙者の口からはなんとも」



 お茶を濁すと言うか丸投げに近い、忍びとしては何とも優等生的な言葉。



「……悔しさがあるのか」



 だがそれでも聞く者が聞けば、感情の奥底を読み取る事は出来る。


 小太郎が自分なりに目一杯感情を発露させた事を感じた景勝は、小太郎の答えを待つかのように刀を下ろした。







「武田の後継者、武田太郎信勝。

 北条は、いや拙者は彼にしてやられたのです」







 風魔小太郎は、毘沙門に懺悔するように景勝に背中を向けた。

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