鈴木重秀の最期
「若君様まで来られるとは……」
「口だけなのでございましょう」
「半兵衛は手厳しいのう」
秀吉は苦笑いしていた。
浅井長政、足利義信以下一万数千もの軍を率い本願寺軍を殲滅した立役者のようにされているが、その実はまったく信忠の傀儡でしかない。
「わしはずっと孫市に手紙を送り続けてた訳じゃない。一体何通が若君様の書だったのか」
「筆跡がありませんからな」
竹中半兵衛の言葉はいちいち容赦がない。秀吉は知恵は桁外れだが知識がなく、基本的に字は書けない。それこそいわゆる口述筆記であり、書体なぞ統一のしようがない。もちろん花押ぐらいあるが、信忠が部下である秀吉のそれを利用するのはさほど難しくない。
「しかしそれでもまさか雑賀衆が壊れてしまうとはな」
「奥方様や御母堂様が触れている義信殿はただの赤子なのでしょう、そして殿たちもそれに魅了されて」
「わしもいい加減自分の子を抱きたいんじゃがな……」
なかやおねからしてみれば、足利義昭だろうがなんだろうがただの赤子。そんな存在を丁重に扱わない道理はどこにもなく、自分なりに必死に面倒を見ていた。
言うまでもなくこの場に連れて来たのは義信でも何でもないただの農民の子で、文字通りの影武者でしかない。それこそ馬子にも衣裳で、適当に駕籠を見繕い兵で囲んだだけである。ただし赤松祐高は本物であり、長浜にいるさこの方も本物であった。
「わしには雑賀衆が足利の御旗で転ぶとは思えんかったがな」
「殿は情報ひとつを血眼になって追いかけるのを美徳としております。ああ織田様もそうですが、そんな環境にいると閉鎖された空間にいる存在はわかりにくいのです。陸奥や薩摩の情勢をご存知ですか」
「それはただ、その家に立派な人間が生まれただけかと」
「彼らには京の情報など遠い世界です。南部も島津も旧来の権威を重んずる人間たちによって支えられています」
東北はまだ混乱状態だが、九州では島津・大友・龍造寺による三国時代のようになっている。このうち旧来の守護大名上がりなのは島津だけで、大友は元から守護大名が二度の内紛で崩れかけたのを立て直して現在の地位を得た家であり、龍造寺はそれこそ隆信一人で成り上がったような家。
と言うのはさておき、京から遠い陸奥や薩摩では、まだまだ旧来の権威は生きている。
征夷大将軍しかり天皇しかり、彼らの名前はまだまだ有効だった。
「もっとも、征夷大将軍とか言うだけで簡単に手のひらを返すような人間など必要はございませんが。と言うより殿が征夷大将軍様を配下にしている事に気づかぬ、いや認めぬような存在など」
「相当に衝撃的な報だったはずなのにのう……」
その上で半兵衛の言う通り、知っていたはずなのに受け入れられなかったと言うか認めようとしなかった人間たちには容赦をする理由はなかった。
「なあ、若君様は皆殺しにせよと言ったが、わしは少しでも助けたい。できるかはわからんが、投降すれば命は安んずると伝えてくれぬか」
「それが殿の美点でございます。まあ若君様も圧倒的な勝利を見せるだけ見せればもう満足するでしょう」
「頼む」
今更間に合うかはわからない。
それでも坊主たちがもし、本来の役目を果たしてくれるのならば。
(わしは本来、田畑を耕して暮らすはずじゃった。されど故あってこんな血生臭い所に置かれておる。そんな奴は一人でも少ないに越したことはないじゃろう。別に坊さんが侍の真似事をしてもええとは思っとる、わしだって似たようなもんじゃからな。されど、できれば坊さんとなったからには坊さんの事をやってもらいたい、兵になりたいなら兵になれば良いだけのはずじゃろうに……)
信長はあの比叡山焼き討ちの時、僧が本来の役目を忘れているからこそ手を下したと言った。それをもし本来の役目に戻るのならば問題はないと受け取ったのが秀吉であり、有言実行するのが秀吉だった。
※※※※※※※※※
「やれやれ……もはやこれまでって事かね…………」
鈴木重秀は柄にもなく絶望していた。
土橋守重の裏切りにより雑賀衆は動揺、織田信忠の攻撃により挟撃状態に陥り、重秀たちはかろうじて西側へと流れている。
「秀吉殿の事ですから降れば助けてくれるのでは」
「あいつならな。だがあの織田の若殿様は許してくれねえだろ。思うんだけどさ、あの手紙の大半は秀吉じゃなく信長かあの奇妙とかって若殿様なんじゃねえかって」
「織田の若殿?」
「ああ、最初から俺たちは織田の若殿様に踊らされてたのかもしんねえ」
あまりにも時期の良すぎる乱入。
もし羽柴軍だけなら逃げ切れていただろうし、池田軍がいてもまだ何とか逃げ切れたはずだ。
そこに東から信忠がやって来たせいで完全に士気を失い、逃げ切れるはずの兵が死体になった。いや、秀吉だけならば最初から投降を許されていた兵たちも多く死んでいたと言えよう。
「でもまだ、俺はもうちょい生きたいね。住職様は本物の坊主様だから、そんな存在を守りたいもんだね」
それでも重秀は、明るく前向きな男だった。
決して過熱する事なく、冷静に物事を見られていた一人の男。
結果的に息子たちに呑まれてしまったものの、その場においても何が必要かわきまえていた男。
「では大坂湾に」
「ああ、あっち側から野田砦を目指す」
目的を見つけ、そのために動ける。
それが、鈴木重秀と言う男だった。
未来の希望、それから守るべき存在。
重秀の顔に希望が蘇り、活力が戻って行く。
重秀一行は西へ向け、大坂湾を目指して走った。
さわやかに男の体が舞い、重苦しい戦場が消えて行く。
—————そして、銃声も遠くに消えた。
「もう、諦めろ」
せっかく希望を見出したはずの重秀の耳に侵入する、諦観に満ちた声。
「守重……」
「俺たちは将軍様に喧嘩を売っちまったんだ。もうこの国中の人間が俺らの首を取りに来る。こうなれば何とか将軍様の保護者様に取り次いでもらわなきゃ、俺らは生きていけない」
「だから、か……
胴にめり込んだ鉛玉とそこから流れる血を気にする事なく、重秀はうつ伏せになっていた体を起こす。
「お前の首差し出して、俺は生きる。一生奴隷みたいになっても、上様たちに許してもらう。あの浅井長政すら許されたんだからな。俺らだけでも雑賀衆を守る」
「ならそれでいいよ」
あまりにも自由過ぎたゆえに、仲間の思いを理解できなかった。
そんな自分の罪を嘆くように、重秀は爽やかにかつての仲間に答える。
「だがな、秀吉にすがれ。秀吉なら……」
だがそこまで言った所で、また銃弾の雨が降った。
言うまでもなく目的は裏切り者の土橋守重であり、あっという間に蜂の巣になった。
「重秀殿……」
「ああ、たぶんあの坊ちゃんも副官様も入滅しちまったんだろう。後はもうお前らに任せる。どうしようが俺は気にしねえ、よ……」
口から血が出て来る。
もう、これまでだと言う証の液体。
「我々は筑前守に降ります!」
「悪いけど俺達は顕如様に……」
「ああ、任せたぜ…………」
重秀の運命を悟った雑賀衆たちは二手に分かれ、そのまま重秀を置き残して去った。
血生臭さのない秋風が、大坂を行く。
「ああ、秋風ってこんなに気持ちいいんだな……」
秋風を身に受けながら、重秀は目を閉じ、そして二度と開ける事はなかった。
雑賀衆の棟梁・鈴木重秀は、あまりにもあっけなく死んだのである。
※※※※※※※※※
「お認め下さいますか」
「無論だ」
信忠の口から出た三文字に、秀吉は涙目になりながら胸をなでおろしていた。
「しかしなぜまたよりによって……」
「薬が強すぎたのかもしれぬ。されど裏切り者がそれらしく死んだからな。少しは留飲も下がろう」
秀吉は真新しい棺桶に入った親友の側で、俯きながら首を横に振った。
死ぬのはともかく、よりによって味方の裏切りで死ぬなんて。
戦場の儚さとか言う気もないが、あまりにもありえない死に秀吉のみならず恒興や長政さえもため息を禁じ得なかった。
それとは別に秀吉の投降勧告からほんの数刻の間に、羽柴軍は三千もの降伏者を得ていた。
彼らの話いわく、逃げ切ったのは顕如軍を除けば千五百から三千。
秀吉が直に戦ったおよそ一万五千のうちの、少なくとも一万二千が失われた事になる。
「本願寺教如、下間頼廉を討ち取り、その上で我々の被害は千どころ八百もない。
まったく諸将の働きには頭が上がらぬ」
「お褒めの言葉をいただき感謝しております。されど問題は」
「わかっている。本願寺はもう、戦う気のある人間がどれだけいるかわからんだろう」
本願寺は要塞と言っても差し支えないほどの存在になっているが、それとて兵が伴わなくてはいつか落ちる。
それに雑賀衆も鈴木重秀や土橋守重が失われ、鉄砲衆も逃げ散るか死ぬか降るかであり、少なくとも淀川を越えていた存在はほぼ全滅した。
「このまま一気に攻めるのですか」
「それより今は、とりあえず戦死者の供養と休息を取ろう。それからでも何も遅くはない」
信忠は為政者の顔をしながら、秀吉、一益、恒興、長政の順に手を握った。
そして鈴木重秀の棺桶に向かって手を合わせ、深く頭を下げた。
そしてこの後滝川軍は伊勢へと戻り、秀吉は頭の上がらない女たちのためにひとしきり鈴木重秀の棺桶に取りすがってから、長政と共に長浜へと向かった。
「勝三郎殿……」
「やはり……………………」
そして織田信忠はこの場に残り、人のいなくなった本願寺を囲ませる計画を恒興に語った。
「この近畿全土を、織田に染める。そのための戦いは、まだ始まったばかりなのだ」
信忠の力強い言葉に、父親と大差ない年齢の恒興は気合を込めた右手を上げた。
まるで、織田の若君の前途を祝福するかのように。
そしてその若君に応えるように夕焼けがひるみ、秋晴れが粘り腰を見せつけていた。
羽柴秀吉「すみません、キリが良いので二日ほど休ませていただきます!」
織田信忠「次回は3月1日!」
羽柴秀吉「話はここで一挙に半年以上進みますがどうかご容赦のほどを!」




