最後の役者の登場
「もう本願寺は…!」
「ああ、もう駄目だ。おしまいだ」
土橋守重は覚め切った声でつぶやいた。
「重秀もなんであんなのにしがみついたのか。織田家、と言うか羽柴秀吉に勝とうなんて土台無理なんだよ、力が違い過ぎる」
「しかし今更こんな」
「今ならば全てを終わらせられる。もうこれ以上は無駄だ。
それにだ、ここで功績を上げればなんとかなるかもしれんぞ。織田信長はあの浅井長政を許したんだから」
守重に付き従う兵たちは真顔で銃を向けている。ついさっきまで織田を倒すとか言っていた人間たちが、簡単に守重と言うか秀吉に毒されている。
その上に浅井長政と言う免罪符が乗っかっていたから裏切りに対する障壁は低くなり、次々と坊主頭に向かって銃弾を飛ばし出す。
「このっ!」
「血迷ったか!」
「血迷ってなどいないが……」
諦めと言うより悟り。
決して将軍様の忠臣ではないはずなのに、将軍様を従えている存在に歯向かった自分がものすごく矮小で罪深い存在に思えて来る。
普段から御仏の徒とか言っておきながら、閉鎖空間と言うべき紀州の山奥に暮らしていた中で頼れるのは自分たちだけになり、祈っても祈っても救ってくれない御仏に対する信仰は摩耗と言うか変形していた。
(本願寺は強い。御仏の強さってのがそこにあった……はずなのに!)
紀州の隣国は、実質和泉と河内しかない。当然そこにいる存在は紀州人にとっては重くなる。本願寺が戦国大名にも負けぬような力を身に付けたのを見た守重にとって、信仰の礎は力だった。
力をもって理不尽を跳ね除け、世の中に平和と道を示すのが本願寺のはずだった。
それが幾度の出兵でなかなか織田信長を破れず、最近は明智光秀やら羽柴秀吉やらに押されまくっているのだから信仰はゆっくりと失望に変わっていた。
「もう本願寺には御仏の教えを守る力はない。むしろ敵対行為を為した二人の男性を抱え込んだ織田の方がよっぽど慈悲深い。慈悲だけでなく力もあり、その慈悲を実現できる」
—————どんなに口が回ろうとも、実現できねば意味がない。
そんな真理に目覚めてしまった守重に取り、もはや本願寺は古い器でしかなかった。
そんな古い器を捨てる事など、もはや何の執着もなかった。
※※※※※※※※※
「馬鹿な……」
教如はそう言うしかなかった。
雑賀衆の裏切り。
しかも、あれほどまでもったいぶっていた鈴木重秀ではなく、自分と一緒にいたはずの土橋守重。
「無理やりにでも突破するしかありません!」
「わかっている!」
顕如は裏切り者の土橋守重に向けて、一斉に槍を向けさせた。
だが整然とした射撃の前に次々と死者が増え、守重に刃を付けられるようになるまで三度の射撃を許していた。
「気でも触れたか!」
「黙れ!あれほどまで大言壮語しておきながらなぜ織田家に勝てぬのだ!」
「天命未だ我らになし!されどそれは我らに未だ試練をお与えになっているだけであり!」
「もうこれ以上待てないんだよ!」
雑賀衆と言っても全員が鉄砲隊ではなく普通の兵もおり、それらは決して弱兵ではない傭兵である。負傷した僧兵たちには荷が重く、次々と死体が増える。
雑賀衆の人間たちのやる方ない憎しみと憤りが織田ではなく自分たちにぶつけられ、亡骸が増えて行く。
当然後方からは羽柴軍が迫っており、このままでは挟撃だった。
「道は前にしかない!」
教如は必死に兵を焚き付けるが、その度に壁にぶつかって命が減って行く。やがて壁をぶち破った人間が出た所で、それまでに流した血は消えない。
「重秀だ!重秀を呼べ!」
「言うまでもなく来ております!」
「裏切り者を撃てと言え!」
一体何がどうしてこうなったのか。
強引に出兵した自分が悪いのか?それとも最初から織田の手の中だったのか?
全てを追い出すかのように、若き僧は手綱を握りしめた。
「おいおい、あいつ一体何を血迷ったんだ……」
「そんな事は後で考えましょう!」
「はいはい…………」
その重秀もまた、裏切り者を討つべく前進していた。
(征夷大将軍様ねえ……そんなもんが何をしてくれたのか俺は知らねえ。けど俺らに取っちゃ、そのお名前だけでひざまずくに値するもんだったからな……まさかあの秀吉が本気で守ってたとはな……)
先にも述べたように、紀州は情報の伝わりが悪い。今でも征夷大将軍様と言えば源頼朝であり、足利尊氏及び義満だった。そんな存在が頭にあれば、当然名前は重くなる。
その名前と羽柴秀吉とか言う男がどうしても結び付かないと雑賀衆の誰かが言っていた事を、重秀は今更ながら思い出していた。
京や堺の側だった上に鉄砲とか言う最先端な武器を扱っているくせに閉鎖的で、よく言えば一致団結悪く言えば排他的だった。
重秀は若い時流浪した際に秀吉と出会いその後も何となく交流を続けてきたが、正直その事をよく思わない存在が雑賀衆内にいるのを知っていた。
重秀は、物腰は軽めながら芯の弱い男ではない。さらに言葉は軽いが仲間内に嘘を言いふらす事はめったになく、言ったとしても決して他人を不快にさせる嘘は吐かなかった。
短躯、猿顔、おどけ上手、頭はいい、武勇はない、妻の尻に敷かれている。
重秀が雑賀衆の中で言いふらした秀吉像は正直小悪党と言うか使い走りのそれであり、とても征夷大将軍様を凌駕するそれではない。重秀でさえも秀吉がどうやって足利義昭を懐柔したか詳しくは知らない以上、どうにも印象の改めようがなかった。
「秀吉。お前がどうやって将軍様をなつかせたのかについてとやかく言う気はない。でも今の俺はお前たちの敵だ。悪いけどやるしかねえんだよ」
重秀は守重らの後方にたどり着き、銃を構える。
あくまでも本願寺の友軍として、すべき事をせねばならない。
「撃て」
なるべく感情を抑え込みながら、引き鉄を引く。
当然ながら人が死ぬ。
ついさっきまで仲間だった存在が。
「貴様ら…!」
「それはこっちの台詞だ!」
らしくもない声を張り上げる。
(お前がすげえのは昔っからわかってたつもりだよ。でもここまでとは思わなかったぜ。もしこれがお前の絵図面通りだって言うんなら、俺こそもろ手を挙げて降参したいもんだよ)
もしかしてこの展開さえも秀吉の思う通りなのか。
期せずして教如と同じ事を考えていた重秀だったが、その事を教如たちに伝えられそうにない現実もまた迫っていた。
硝煙の匂いを嗅ぎ、血の臭いを必死に受け止める。そうする事でしか、精神を休ませる事ができない。
(ったく、同じ死ぬんならあんな女に抱かれて死にたいもんだね……)
その上でこの前抱いた女の事を思い出しながら、あれが最後の女になるのかもしれないとか言うどうでもいい事を思ったりもする。いつ死ぬかわからないからこそ派手に遊んでいるはずなのに、まだ遊びたいとか思ってしまう自分の未練がましさに、重秀はまた笑った。
「茨木城は!」
「どうやら凌げたようです!」
顕如はわずかな兵と共に淀川へと向かっていた。淀川を渡れば二つの砦を経て本願寺までは勢力圏内であり、とりあえずは安泰である。
茨木城の軍勢は顕如が必死に一点集中に務めた事によりどうにか追い払う事ができた。
だが残る顕如の軍勢はおよそ二千しかなく、うち三分の一が負傷兵だった。戦死者以上に教如が持っていた兵が多く、それ以上に雑賀衆の離脱もあった。
「それでも川向こうの野田砦・福島砦には兵が残っております。もちろん本願寺にも」
「そうか……拙僧は息子たちの手綱を引き締めきれなかった。敵がいかに恐ろしき存在であると説いても、信徒たちの思いを受け止めきれなかった。拙僧は多くの」
「今はこれ以上お語りなさいますな!住職様はまだ若うございます!」
それでも何とか船に負傷兵たちを乗せ、自らは最後に乗る。
そして川の流れに乗り、必死に体を動かし、門をくぐった。
「住職様、どうか……」
「今更だがどれほどの僧兵が残っている」
「四千程度かと…」
「教如たちは無事であろうか」
「祈るより他ありますまい」
顕如は疲労困憊しながらも必死に座禅を組み、住職足らんとする。残っていた僧たちが顕如に向けて茶を渡し、体を拭き、袈裟を取り換える。
「元気な者は川を渡り砦に入れ。織田とて淀川の先までは来れまい」
「しかしこの本願寺は」
「もう羽柴秀吉に余力はない。確かにしてやられたがもうここまでだろう。残った者たちは東側に気を付けさせよ」
確かに秀吉は見事だった。
噂通り征夷大将軍足利義昭をなつかせ、遺児の義信をもきちんと庇護している。こんな所まで連れて来たとか言う話もあったが、そんなのは適当な赤子でも持って来ればいくらでもごまかせる。何ならその詐術さえも、恐ろしい以上に感心が先に来る。
「東と申しますと」
「松永めと示し合わせている可能性がなくはない。まあ彼奴もどうせ川を渡って来る力はなかろうが警戒だけはしておけ」
あるいはもう一つ、最後の手段として大和の松永久秀を突っ込んで来るかもしれない。そうなれば完全に包囲されてしまうが、それでもこの本願寺さえ守れば小田原城のように何とでもなる。
そのはず、だ。
いや、あるいはそれでも駄目かもしれない。
だが、なぜか許せてしまう気がする。
ただの知将ではない、不思議な将器。
(あるいは次の時代を担うのは…………)
「住職様!」
密かに裏切り者と同じ結論に達してしまっていた顕如のつかの間の平穏は、文字通りつかの間だった。
足を引きずりながらやって来た坊主の真っ青な顔色に反応して立ち上がり、あわてて付いて行った先で顕如は、東を向きながら腰を抜かした坊主たちの集団に囲まれた。
「何事だ!」
「斥候曰く、東から敵が!」
「松永か!落ち着いて構えろ!」
「いえ、その……!」
「誰だと言うのだ……………」
松永久秀については警戒させていたはずだと言うのに何をやっているのか。
確かに負け戦で落ち込んでいるのはわかるが、あまりにもひどすぎないか。
「旗は!」
「それが、瓢箪……」
そう思っていた所に飛び出した瓢箪と言う言葉で、一部の僧たちが完全に発狂した。
「ひいいいいい!」
「秀吉は御仏でも祓えない力を持っているのだ!」
「犬上川ではあっと言う間に陣の端から端まで移動したとか!」
「もう駄目だ……!」
「馬鹿を言え!ただの人間にそこまでの事ができるか!」
顕如は怒鳴りながら必死に目を凝らす。
さすがに旗そのものの存在は確認できないが、それでも気合ぐらいは感じられる。
松永久秀か。
だが織田家臣とは言えない久秀に羽柴の大事な旗を貸し与えるとはとても思えない。
「申し上げます!東からやって来たのは羽柴ではございませんでした!」
「そうかやはりな!では誰だ!滝川か!」
転がり込んで来た第二の使者に向かい、顕如は極力笑顔を作りながら答える。羽柴でなければ誰だ、伊勢の滝川一益か。何とかして言い当てて、くじけている兵たちを励ましたかった。
「木瓜です!」
だが使者の言葉は正確であり、残酷だった。
————————————————————そう、東からやって来たのは織田信忠だった。




