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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第十章 近畿の絶望
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本願寺教如の歯ぎしり

「なんという、なんという……!あれなら放火された方がよっぽどましだ!!」


 もはや後戻りのできない所まで踏み込んだ羽柴軍への全ての感情をむき出しにしながら、若き僧は叫んだ。




 ————————————————————事もあろうに、赤子の尿を本願寺の僧の亡骸にかけさせるなど!




(武田の長男、いや後継者も尿意をよく覚えるとか言うが、それはあくまでも自陣内の話ではないか!)


 信頼性の薄い筋からの情報だが、信玄の孫の信勝は信長と対面している時も自ら戦の打ち合わせをしている時もしょっちゅう尿意を口にするらしい。それが策なのか本気なのかはともかく、決してよそ様にそんな事はしない。

 防衛戦において住人の糞尿を使う事は多々あるが、この場合は話が違う。違い過ぎる。

 二歳児とは言え敵将の尿を浴びに来る兵士が、どこにいると言うのか。それこそ人間としての尊厳を破壊する行いであり、言語道断とか言う話ではない。




 そして、別の意味でも気に入らない。


「まさか信長め!耶蘇教かぶれが!」




 信長は宣教師から雑談の一環として、四百年ほど前の「ごどぶろわ二世」なる男の話を聞いていた。



 その彼はまだ二歳でありながら当主であったその男は戦を行うに当たり戦意高揚のために木に駕籠で吊り下げられていたが、ちょうど尿意を覚え目を覚ました際に下を通った敵兵に向けて放尿、これにより彼が率いた軍勢は勝利したと言う古い講話を信長は気に入り、ある種の笑い話として織田に広めていた。かなり受けたせいか京や堺にも広まり、本願寺の僧たちの耳にも入っていた、




 まさか、足利義信なる赤子をそのなんとか二世とやらにする気か!


「行け!ここで負ければこの国は耶蘇教に乗っ取られるぞ!」


 耶蘇教と言う言葉に僧兵たちは腹に力を入れているはずだが、形勢は全くこちらに傾かない。

「雑賀衆は敵前逃亡したぞ!」


 重秀は来ず、守重は敵前逃亡と言うか護送されて行く。

 その現実が腹に入れた力の数倍の打撃を与え、僧兵たちを絶望に包み込む。


 仲間の死体に小便をかけられると言う屈辱さえも忘れたかのように僧兵たちはひるみ、次々と極楽浄土へと旅立って行く。


「重秀を呼べ!事ここに至ればグズグズしている暇などない事に気づくはずだ!」

「は、はい!」

 あわてて後方にいたはずの重秀を呼びに行かせた。守重が何を起こしたのかはともかく機能不全状態になってしまった以上、もはや他に頼る相手もいない。


 それこそ最後の救いを求めるように、後方を振り向く。




 だが、この時鈴木重秀はそれどころではなかった。




※※※※※※※※※




「どうやら正面の形勢が良いと見て一気に反撃をかけて来たようですな!」

 苦虫を三匹ほど嚙み潰したよう顔色の顕如の側で、重秀は銃を西側に向けていた。

「ここで茨木城の軍に出て来られたら本願寺はおしまいかもしれんぞ!」

「そうですね、何としても防がなければなりません!」


 茨木城に籠っていた兵が、本願寺軍に対し反撃を開始したのだ。


 元々茨木城には二千五百の兵がおり、三千の本願寺軍の攻撃を凌ぐのは全く難しくなかった。もちろん雑賀衆の力があったため反撃はできなかったが、それでも友軍優勢の報が伝われば動きたくもなる。

「南側の城門が開きました!」

「仕方がない、南側に軍を集中せよ!」

「俺たちは敵が来ないように弾幕張っときますんで」

 重秀は東門に向けて数発の射撃を飛ばさせながら、ゆっくりと南東方向へと動いて行く。その間に顕如軍は南門へと向かい、敵軍を阻止する。

 さすがにそこまでは無理だろうとしても茨木城から真南に行けば、そこは本願寺である。

 よって西や東はともかく、南側には向かわせる訳には行かない。

 そのため西側にいた軍までかき集めて正面防備に当たらねばならず、この時点で茨木城包囲網は瓦解したも同然だった。


 ちなみにこの時茨木城の大将となっていたのが荒木村重であり、その副官が高山右近である。村重はそれほどでもないが右近は熱心な耶蘇教徒であり、その右近が南門から出て来た軍の大将だった。当然仏教徒、と言うか神の名を唱えて暴虐を成して来た本願寺への当たりは強く、普段の理知的な面がいい意味で抜けていた。

「神を真に信じるのであればすべき事はこれではないだろう!」

 右近の刃が僧たちを襲う。千五百相当の兵によりいっぺんに形勢は傾き、本願寺軍は防戦一方になった。

 雑賀衆も必死に防備に回るが、実は本願寺軍は元からけん制になればよしと言う事でまともな強さの兵を置いておらず、ここにいたのは老僧や腕っぷしに自慢のない学僧たちだった。

「ちょっとこれあっさり押され過ぎじゃ!」

「信仰心に裏打ちされた軍勢は強い事は知ってるだろ」

 重秀は敵軍を褒め称える余裕を見せながら銃を構える。

 取り繕っている訳ではなく自然に、決して余裕を崩すまいとしながら。




※※※※※※※※※




 もっとも、余裕を気取る事ができたのは重秀だけであり、教如にとっては知った事ではない。


「茨木城の軍勢が出撃!住職様は鈴木殿と共に防御に当たっており」

「ああくそ!」


 考えられる事態を述べられた所で、こうやって憤慨する事しかできない。

 その間にも戦況はさらに悪化し、頼廉の軍勢は中央まで押し込められている。その分だけ秀吉直属軍は前進し、三か所での戦いが二か所になっている。

 このまま押し潰されるか、それとも逃げ帰るか。いずれにしてもまともな結果ではない。


「御仏は我らを見放すと言うのか!」

「そのようなはずはございません!」

「ではなぜだ!なぜ羽柴は勝って我々は負けるのだ!こうなれば私自ら!」

「ここであなたが入滅すれば完全におしまいです!」


 こうなれば自ら行くしかないと吠えようにも、たかがまともな武装もない坊主一人突っ込んでも形勢は変わらない。変わればそれこそ奇跡か事件であり、そんな事が起きるのならば本願寺はとっくにこの国を制覇している。

「では後退するしかないのか!」

「徐々に下がり、そのまま本願寺へと逃げ込むのです!淀川まで行けば本願寺から援軍も参りましょう!」

「うむむ……!」


 後方からの援護も期待できない以上、それが最善だとわかっている。でもこのまま、ほぼ一矢も報いられず負けるのではあまりにも悔しすぎる。

(父上が正しいのはいい、だが私について来た僧たちがこうして無下に入滅するのは許せん……!私のせいだと言えばいい、されど私を推してくれた……)


 本願寺内部には、ずっと強硬論があった。


 いつ出兵するのかと顕如を焚き付け、信長なり久秀なりを討つべきだと言う存在がいた。

 彼らが力を持ったのは一年前、徳川家康の死の頃からである。


 家康と言う同盟者を失った信長に対し信玄に続くように一斉攻撃をかけ、潰してしまおうと言う算段だ。だが顕如は決して大規模な出兵を許さず、二度にわたる京への出兵も小規模だった。口では片一方に集中するともう一方がとか言っていたが、もっと兵を注ぎ込めば落とせたはずだと言う意見がどんどん膨らんでいた。

 その肥大した強硬論を受け取っていたのが教如であり、父親にさんざん家内世論を考慮してくれ和らげてくれと訴えていた。だが顕如がいくら言おうとも武田の伸長に伴う便乗意識と織田の増強に伴う危機意識の増大が止まらず、もはやどうにもならない所まで行ってしまっていた。


 そんな教如の所に、いきなり一頭の蝶が飛んで来た。


「揚羽蝶……」


 晩秋にしては珍しい生き物の存在にようやく心を落ち着けようとしていたが、急にその揚羽蝶が顔に迫って来た。何だ何だと思いながら蝶を見つめていると、いきなり蝶が教如の目の前で激しく羽ばたき始めた。




「申し上げます!羽柴軍の東にさらなる援軍が!」

「やむを得ん!退く!」




 ついに、教如は退却を決意した。


「もはやこの戦いは負け戦だ!逃げろ!命を守れ!」


 教如自身はゆっくりと下がりながら、退却の使者を送る。

 どれほどの人間が生き残れるかわからないが、一人でも多く帰ってくればそれでよかった。


「敵軍は池田か!」

「そうです!池田です!」

「やはりか!」


 なるべく大声でやはりと言う単語を口にする。


 何とかして士気を保たせるべく、自分にはわかっていた事を証明する。


「池田とてわかっていれば問題はない!揚羽蝶が教えてくれたのだ!」


 揚羽蝶と言うのは池田家の家紋であり、実際池田軍は今現在揚羽蝶の旗を掲げている。


 あの揚羽蝶は天啓なのだ。


 自分に後退する機会をくれた聖なる生き物であり、命を守ってくれたのだ。



 その勢いに乗れたか多くの僧兵がうまい具合に向きを変え、こちらに向かって来ている。

 もちろん無傷の兵は少ないが、それでも数そのものは十分だった。


「この勢いのまま茨木城の連中も突っ切るのだ!」


 まだ元気だろう池田軍が残っているからその数ほどは残れないだろうが、それでも構う事はなかった。


 このまま逃げ切っても負けだが、それでも少しは留飲も下がるし不満も解消されたと言うか平穏な形で終わる事ができそうだ。


「茨木城が大きくなって来ます!」

「こちらが押されているか!だが我々が加われば形勢は逆転する!いざ行け!」


 どんどんと茨木城籠城軍と本願寺軍の戦場が近くなって行く。どうやら本願寺軍非勢のようだが、それでもいざとなればこの数を投入するまでとばかり。


「何とかして淀川までたどり着け!さすれば援軍が……!」







 ようやく光明が見えた所に、また例の音が鳴る。



 後ろを振り向く教如だったが、刀剣も振れてないのに倒れる人間はいない。



「どこだ……」



 馬を走らせながらもその音の行方を捜した教如だったが、一向に心当たりが思い浮かばない。

 あるいはとどまっていた仲間たちを羽柴軍が射殺したのだと思い、すぐそう思い込むことにした。

 

 なんとかして彼らの仇を討つ。そのために今は逃げる。




 しかし、また銃声が響く。




 しかも、近い。


「誰だ……!」




 誰だと言う言葉に呼応するかのように、第三の銃声が飛ぶ。




 ————————————————————前方から。


 まさか!







「土橋守重殿!謀叛!」




 すべての希望が儚く消える音声、いや音と声が晩秋の摂津に鳴り響いた。

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