浅井長政の語る事実
上杉謙信の死は、遠い近畿にも衝撃を与えていた。
幾度も律儀に上洛していた謙信は近畿でも有名人であり、単純な斬り合いに置いてこの国で一番強い存在は謙信だと言う人間もいた。それが戦場にて討ち死にしたと言うのだから、一体どこの誰がどうやってやったのだと大騒ぎになっていた。
その騒ぎはほどなくして沈静化したが、その分だけある人物に対する憎悪も深まっていた。
言うまでもなく、武田信玄だ。
「信玄は足利幕府などどうでもよく、私利私欲のために謙信を殺し部下も無惨に殺した。川中島にいた上杉の兵の内生きて帰って来られたのは十人に一人」
—————だいたい間違っていない。
信長や秀吉がそう京を含む近畿圏に流布していた事もあり、元々将軍殺しの悪名を背負っていた信玄の名前はますます悪くなっていた。
さすがにこの圧勝ぶりをいぶかしむ人間もいたが、そこは信長が越中から勝家を経て駆り出した人間たちによりすぐさまその言葉は薄れて行った。
偽物の噂はその気になればすぐばれるが、真実は礎があるだけにばれても打撃は少ない。
信玄自体が三千八百の貝を一万五千だの二万だの言わせて五千の兵があれば二万とも思ってくれるとうそぶいたように、小を大と言うのはその気になればさほど難しくない。ましてや今回の場合大を大にしただけなので、説得力はかなり高かった。
もちろんそれとは別に謙信の死は反織田勢力に衝撃を与え、二カ月の間に、播磨にまで噂は届いた。
「もはや織田に抗う事ができるのは武田信玄だけなのではないか」
その論旨が広まると同時に、
「信玄に支配されるぐらいなら織田の方がいい」
と言う論旨も広まった。
そして、羽柴秀吉である。
足利義昭は頼りない将軍だったが市井の人気と言うか同情はそれなりに買っており、義昭を殺すではなく降伏させ庇護していた秀吉の人気はその方向からも高まっていた。ついでに言えばその義昭を殺した方向でも当たり前だが信玄は不興を買っている。
「秀吉は母と妻を長浜城に入れているが。その二人とも最後の足利の種を守っている」
「母は厳しくも優しく息子たちを見守り、妻は夫を彼女以上にしっかりと支えている」
義昭を守った秀吉の名に続くかのようになかとおねの名前もいつの間にか上がっており、そんな女性がいるのならば出世もごもっともだなと説得力を与えている。
そして今、その長浜城にいる第三の女性こそ最大の問題だった。
(まさか、秀吉が赤松家の娘を庇護したってのは本当だったのか……!)
赤松政秀の娘で織田信長の養女、そして、足利義昭の妻。
その名は、さこの方。
当然のように秀吉に庇護されていた事にようやく気付いた教如は二つ引き両の旗から逃げまいとばかりに、必死に旗をにらみ付ける。
だが、声が出ない。
ついさっきあれほどまで怒鳴っていたはずなのに、急に声が出なくなった。
「先の征夷大将軍様が羽柴筑前殿に自らその身を投じられたこと、満天下の事実なり。それこそ先の覇者たる足利家が織田と共に歩むことを決めた証であり、羽柴を認めたと言う事の意味である」
朗々とした長政の声が戦場に響き渡る。
まだ三十路にもならぬ男には、秀吉にはない膂力とそれを下地とした迫力がある。久政と義景の下ではくすぶっていたその力を解き放つかのように演説する長政は、摂津の中央で輝いていた。
「されど、幕府はとうに滅んだ!今更そのような旗に!」
「幕府は滅んでいない」
「真面目に物を言え!」
「いや、少なくとも征夷大将軍ではあったぞ」
義昭は秀吉に降伏しただけで、征夷大将軍の地位を返上した訳ではなかった。
ほぼ名目的ながら最高権力組織として活動していた幕府の権能を完全に織田家に移譲しただけで、言うなれば幕府が織田家の下部組織のような状態にあった。
「その程度の権威!」
光り輝く男に水をかけたい小坊主は右手を振り、自らがかき集めた異世界の刃を叩き付ける。
「この破戒坊主めが!」
もちろん長政も蜂須賀軍と共に突き進み、一向宗と再びの殺し合いを再開する。
「全軍は危険かと!」
「何だと!」
「この機を逃す秀吉ではございませぬ!」
「ええい頼廉をやれ先にぶつけに行くその間に我々は蜂須賀と浅井を討つ!」
「やってみろ!」
教如は下間頼廉率いるおよそ五千の軍勢を秀吉軍にぶつけさせ、残るおよそ一万二千の兵で目の前の九千を殲滅すればいいとばかりに激しく手を振る。
だが言葉が早口なせいか迫力に乏しく、長政の五文字で簡単に打ち消されてしまう。
教如に従順な僧兵たちは主を侮辱するなとばかりに長政に飛びかかるが、屍が増えるばかりだった。
僧兵たちに比べ織田軍は練度だけでなく装備も強く、雑兵が持っていた刀が僧兵の薙刀を折る事も増え出していた。浅井軍と斬り合わない内から折れた刃が刺さって昏倒する兵までおり、数の多さが逆効果になっていた。
「このう!」
中には刃物でなく金棒を振り回す僧兵もおり、先ほど二本の薙刀を叩き折った刀を叩き割る事に成功した。
しかしその兵は折れた刀を冷静に投げ付けるとすぐに後退し、僧兵はその刀にひるんでいる隙を突かれて二本の刀剣を胸にもらってしまった。当然の如く金棒は地面に落ち、墓標のように摂津の地にめり込んだ。だが誰もそれ以上の反応をする事もなく、浅井軍は次々と押し寄せて来る。
「どうした!向こうの方が数は少ないんだぞ!」
確かに教如の言う通りだったが、秀吉と長政の影響で士気が上がっていた羽柴軍の兵を押し潰す事はなかなかできない。それに数の差を言おうにも秀吉軍本隊が来ればその差は小さくなる。一万二千対九千でも雲行きが怪しいのに一万七千対一万五千となればそれこそもっと怪しくなる。
「まず弱い所からだ!浅井を狙え!」
それでも数の少ない浅井長政を狙い戦況を変えようとするが、この時蜂須賀軍の正面にいた本願寺軍は既にいっぱいいっぱいに近く、余分な兵はあまり残っていない。悪いのは行き当たりばったりで兵の配分を決めた教如なのだが、本人は全く気付くことなく足りないはずの兵を求める。
長政自ら得物を振り、二人がかりで行けば二つの死体を作り上げる。単純な膂力では全くかなわない僧兵たちが、幾人も散って行く。
もし武蔵坊弁慶でもいればとか言う夢物語に溺れまいと必死に首を横に振るが、弁慶もいなければ数もない。数を注ぎ込もうにも戦場の広さに限りがあり、包囲攻撃をかける事も出来ない。
「本当に将軍がいるのか!」
「いるとも。十六代目征夷大将軍、足利義信公、いや今は摂政となっている赤松伊豆守殿が」
足利の旗を掲げているのは、赤松伊豆守こと赤松祐高。
義昭のただ一人の男子である義信の母の兄であり、この戦が終わり次第秀吉の配下として二万石を近江に得る事になっている。嘉吉の乱で没落の道をたどったとは言え赤松家は三官四職の四職の家であり、血統と相まって足利家の補佐としては絶好の地位である。
「羽柴筑前殿を先の将軍様が褒め称え、主君と仰いだ事は万人承知の事実のはず。それをきれいさっぱり忘れていたのか、それとも耳を貸す気などなかったのか。いずれにしても、その罪は軽くないぞ」
播磨の国生まれの祐高は父を十二歳で失い義昭の義兄と言う立場を生かす事も出来ず苦しい立場にいたが、信長が義昭を通じ働きかけていた所に義昭の挙兵と降伏の報が入りほぼ単身で上洛、その上に義昭の死、さらに謙信の死という報が入った事により完全に足利と言うか羽柴の家臣になる事を決めた。
「上様は最後まで武士たろうとして戦場に出る事を望んだ。俗人の頂点に立つものとしての責務をお果たしになられた!」
「それは所詮俗世の権威であろう!」
「所詮俗世の権威だと言うのなら、宗教界が俗世の権威に立ち入るな!そちらにはそちらの責務があるだろう!」
「それができぬからこうして出て来ているのだ!」
宗教界の頂点としての責務を果たせと言う言葉にひるむ事なく叫ぶが、それだけで形勢を覆す事は出来ない。
「こんな時こそ雑賀衆です!」
「そうか忘れていた!雑賀衆を呼べ!向こうが押し込んでいる今なら!」
それでもまだ使っていなかった切り札の存在を思い出して、教如は両腕を斜め下に突き出す。
しかし、来ない。
「何をやっている!」
教如の声に応えて放たれた銃弾は、わずか五発ほど。
そして倒れたのは、本願寺の僧兵ばかり。
「誰が味方に向かって撃てと……!」
そこまで言った所で、教如の時間が三秒ほど停止した。
そう、雑賀衆は俗人だったのだ。




