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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第十章 近畿の絶望
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浅井長政の奮闘

 越中の神保家と能登の畠山家との交渉がまとまった七月の七夕。


 もはや用件の済んでいた浅井長政は一乗谷へと戻り、しばらくぶりの休養を楽しもうとしていた。


「長政様……」

「市、いろいろ苦労を掛ける」

「大丈夫です、あの時を思えば」


 妻は実に和やかで、穏やかだった。

 茶々も初も、養子である恒政も父を出迎えている。

 万福丸については書状で届くだけだが、信忠や信康たちと共に仲良くしているらしい。


「あなた様は元よりこの方が良かったのかもしれませぬ。御父上様には大変悪うございますが」

「孫ができても変わらなかったお人が変わるのだろうか、今思うと……な」

「今思えるのは今生きているからでございましょう」


 お市の言葉に、ただ貞淑なだけでないそれを感じる。


 あの時死に掛けだった自分を生き返らせたのは信長であり、お市だった。いざとなれば容赦なく尻を叩ける程度には豪胆な妻であり、織田家の女性だった。その義姉である濃姫がどれほどの女性なのか、長政からしてみれば想像もしがたかった。



 そんなわけで三日ほど家族団らんの時を過ごした長政の下に、二通の書状が届いた。

「柴田様からですか」

 一通は柴田勝家で、加賀の平定と越中及び能登との交渉が順調ゆえしばらくは自分の出番はないと言う、威張っていると言うより不器用な待機命令だった。


 そして、二通目は女性からだった。

「いったい……あて先は市だが…………」

 勝家に正室などいない。あるいはまつかとも思ったが、書状の送り主は南から来ていた。

 濃姫かと思ったが、字体が少し荒い。どこか粗野と言うか、野性的だった。



「お館様からの伝言です」



 その一文で始まる文章を目にした長政の顔色が、急激に戸惑いに染まって行った。













「なぜまた、貴女の名前で」



 それからひと月少々後の八月十七日。



 浅井長政は、長浜にいた。



 まだ完成しきっていないとは言え小谷城よりずっと垢抜けた城構えに、目の前の女性とそう年の変わらないはずの長政は感心していた。


「夫だとあからさま過ぎます。お市殿に書状を出すのならば私が妥当でございましょう」


 この城の主の妻と言う名の送り主は、どこかぎこちない着物を身にまといながら頭を下げる。上座には誰もおらず、お市の向かい側にはかなり年齢の高い女性がいた。


「なかでございます。まったく、あの子もあの子なら嫁も嫁でございます」


 なかと言うその老女、秀吉の母は深々と頭を下げている。ついこの間まで農婦だった彼女は年の割に手足が太く、老婆と言うより中年女と言った感じだった。

「そう言えば」

「あの子はあえて町の普請をしております。今回浅井様を呼びつけたのはこの嫁ですから」

「ぶしつけながらどうかお願い申し上げます」


 なかもかなり強そうだが、それ以上に秀吉の妻だと言うこのおねも強そうだった。

 お市のように貞淑でありながら時に刃を抜くと言う訳ではなく、常にその機会をうかがっている。夫の利益になると思えば此度のように平気で越権行為じみた真似も行い、けっして恥じる事もない。


「それで…」

「ええ、ご覧になりました通り若君様が本願寺を討とうとなさっております。その行いに浅井様の力が必要であると」

「なぜまた、あの子のお友達なら前田様が」

「義母上、それではあまりにもあからさま過ぎるのです。前田様がやって来たとしても誰も驚きませぬ。相手が驚かないのでは策に意味などありませぬ」


 策。

 自分の存在が策になると言うのか。


「知ってるんだよあたしゃ、この前の美濃での大戦でも浅井様は駆り出されたそうじゃないかい」

「それは柴田様の配下としての立場に過ぎませぬ、旦那様が一豊や秀久を駆り出すのと同じです」

「同じって、この調子じゃどうせあの子も出るんだろ、一緒に行けばいいのに」

「旦那様の俊敏さはもうあまねく知られております。今更旦那様が来た所でああやっぱりでしかございませぬ」


 おねだけでなく、なかもしっかりとして物の味方をしている。


 決して口だけではない二人の女性。

 秀吉と言う存在を作り上げた存在を見るにつけ、自分がその役目を果たさねばならぬ気になって来る。



「それがしはおね殿からの請願に応じます」

「ちょ、ちょっと!それはお殿様からの」

「いえ、おね殿と、なか殿からの……」

「あた、いや私も!?」


 いささか混乱したなかに少しだけ笑みをこぼしながらも、長政は頭を下げた。



「ですがその、あの子は……」

「筑前様なら大丈夫です」

「いやその、戦場に共に行くなど」

「どうかご母堂様、ご子息様を信じて下さいませ」

 

 なかにしてみれば、自分はまだまだ同僚の部下ではなく自分とは身分の違うご立派なお武家様。


 そんな存在が遠慮なく頭を下げる事により主導権を握れたと言うらしくもない考えを抱き、自分の必要性と、秀吉の有用性を示す。


「あの子は私が手塩に掛けて来たのです。決して命を落とさせぬようにお願い致します」

「それは無論でございます」


 そして二人の女性からの了解を取り付けた長政は、こうして羽柴軍の旗を掲げて南下したと言う次第なのである。




※※※※※※※※※




「浅井長政……貴様は信長より非道だ」


 長政の存在を認めた教如が初秋から中秋とでも言うべき時期にしては冷たく、そして同じぐらい熱い言葉を吐く。


「なぜ父親を裏切った?いったん我々と共に信長と戦う事を決めながら、自分の身を守るために父親を捨て、朝倉左衛門督(義景)殿をも捨てた。そしてみっともなく命乞いを行い信長の手先となった。

 浅井軍とやら……かように醜悪なるな存在に付き従う道理などない。御仏の名に従い、我らに帰依すれば九族全て極楽浄土へ行けるぞ」


 教如の長広舌により、戦は止まっていた。

 無論その間にも本願寺軍はゆっくりとこちらに近づいている。


「どうした。あれほど暴れておいて今さら良心の呵責にでもさいなまれているのか?まあいい、ほどなくしてやって来る秀吉とか言う鼠男を斬れば許してやる」

「それは果たして顕如殿の意志なのか」


 演説に割り込む長政の言葉は丁重ではあったが、それ以上に冷たかった。冷静であると同時に冷淡であり、それ以上に冷酷だった。


「顕如殿が求めるのは安定した信仰の存続のはず。何人たりとも妨げられぬ信仰の保証こそ第一のはず。耶蘇教徒たちが海の向こうから来たとて、彼らを御仏の徒にする事はできぬとは限らぬはず。顕如殿もまた、唐国や朝鮮のみならず南蛮にも御仏のお教えを伝えんとしたいのではないか?」

「う、うむ……」



 長政の教如に負けず劣らずの長口上に対し、気圧される坊主の声が戦場に漏れた。


 およそ三十路、長政と同い年前後の坊主の声に、教如の頭は真っ赤になった。



「おのれ!口先で自分の罪をごまかすな!皆の者、浅井長政を阿鼻地獄へと送れ!」



 教如の叫び声と共に、再び雑賀衆による射撃が行われる。

 数百挺の銃声が鳴り響き、それと同時に三千相当の浅井軍に向けて一万以上の兵が突っ込んで行く。

「浅井長政!そのふざけた面を叩き壊してやる!」


 柴田勝家や羽柴秀吉と長政に決定的な差があったとすればそれは年齢や身分より顔だとか言い出す民もいた。言うまでもなく猿顔の秀吉と無骨と言う言葉を具現化したような勝家と長政では、その段階から決定的な差があったと。

 ともすればもてない男のひがみにも見えなくはない光景を前にして、勝者側の長政はどこまでも冷静だった。

「落ち着いて構えよ!」

 鉄砲の存在を認めた上で確実に射程圏外へと下がり、自分がそうだったくせに突っ込んで来た存在を討ち取る。堅実な戦い方だった。



「何だと……!?」



 さらに言えば、浅井軍にも鉄砲はあった。


 二十挺と言う雑賀衆から見れば馬鹿馬鹿しい数だから使わなかっただけであり、敵軍の一斉攻撃に合わせて使うのならば十分有効である。

 思いもよらぬ一撃に先鋒たちが倒れて将棋倒しを起こし、三ケタ近い損害が生まれる。

 それでも一万以上いるからと構う事なく突っ込んで行く兵たちを少数ながら射撃で討ち、兵たちに向けて槍を振る。

「ぬぐぐ……!」

 また一人の僧兵が冥土の住人となり、閻魔大王の裁きを受ける。すかさず埋める人員が来るが、有効打を与えられている訳ではない。

 単純な武力において、専門家と片手間の存在ではどうしても差がある。その力を盾に長政は突っ込もうとせず、徐々に後退して行く。あくまでも銃弾の的にならないために着実に後退し、あわよくば先ほどのように本願寺軍を弾よけにしようとしている。もちろんこのまま本願寺軍が押し切れればいいが、なかなか形勢が傾かない。


「何をやっている!一気に押し込め!」

「落ち着いて下され、まだ敵本隊が」

「うるさい!」

 教如がいくらむきになっても、浅井軍は下がるだけで崩れない。たかが三千の部隊に向けて全力を注ぎ込もうとし、取り巻きの坊主に止められても声を張るばかり。


「重秀殿!全軍を寄越して下され!」

「できませんよ、羽柴本隊が来たらどうするんですか」

「だからこそ一刻も早く長政を討ちその勢いのままに!」

 重秀も当然の如く首を横に振るが、それでも教如は吠える。

「鉄砲隊は速く前進し長政を蜂の巣にせよ!」

「ですから!」

「ああもう!岡殿!」

 教如は家利を頼ろうとするが、家利はすでに最前線にいて声が届くはずがない。


 とにかくなるべく、親殺しの裏切り者を無惨に殺さねば示しが付かぬ。


 松永久秀だけでない、悪の権化を一匹一匹潰して行かねばならぬ。



 ほんの一年前まで味方扱いしていた存在を、教如は憎み切っていた。



「なぜだ、なぜ重秀殿は……!」

「ですから、ここで疲弊したら危ないですって」

 重秀が呆れた顔で両手を上げると教如は手に持っていた数珠を重秀の前で鳴らした。

 自分が坊主でなければ殴っていたぞと言わんばかりの行いにも重秀は憎しみをびた一文出そうとせず、ただじっと手を上げている。


「何が危ないだ!敵など……」



「敵援軍到来!」


 そんな熱くなっていた教如の頭を冷ましたのはその声と、実際に飛んで来た鬨の声だった。




「羽柴軍です!本隊到来、数は一万二千!」




 いよいよ、戦いは緒戦から本戦へと進んで行く。


「重秀殿……!」

「ええ、ようやく本気で行けそうですよ」


 重秀も時は来たれりとばかりに軽口をやめ、ぐっと数の増えた千成瓢箪の旗をにらみ付ける。


 浅井長政が出番はひとまず終わったとばかりにゆっくりと後退して行く中、先頭に立ったのは相変わらず迫力のない体躯と顔をした小男。

 だがその名前を侮る存在など、もう誰もいない。




「秀吉…!」



「いやー、孫市、久しいのう」

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