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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第十章 近畿の絶望
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織田信忠の決断

 本願寺顕如が僧たちに押される形で挙兵を決意した五日前の八月十一日。





 織田信長は、岐阜城にて珍客を迎えていた。



「奇妙……」



 清洲城、と言うか岡崎城の守備を任せていたはずの信忠が、十数名の兵と共にやって来たのだ。


「父上……!」

「三河で何かあったのか」

 やけに血走った眼をして迫る息子に、信長はあくまでも冷静に言葉を紡ぐ。

「いえ、これまで通り武田への恨みつらみと一刻も早い出兵のための修練ばかりです」

 信忠が首を横に振ると、信長はその顔のまま身を乗り出して信忠の目を見つめた。

「ではなぜ」

「武田太郎の事でございます」

「…太郎?」

 太郎と言う二文字を強く込めながら頭を下げる信忠に、信長は今度は父親らしくひるんで見せた。


「父上…」

「いや何、奇妙。そなたは武田太郎が恐ろしいのか」

「恐ろしゅうございます。あくまでも又聞きでございますが、前田や柴田とも互角に、いや父上とも」

「将器だけならな。だが未だに満たされておらぬ。それを叩き壊しに行く気か」

「私は信玄、いえ晴信ではございませぬ」

「晴信、か…………そう言えば信玄坊主も俗名は武田太郎晴信だったな…………仮に武田義信がまともに育っておったらどうなっていたのか……まあ結局義信は、信虎に反抗する晴信の生き写しだったと言う事だ……」




 信長の信勝に対する評価は高い。




 だが、あくまでも信玄の代わりとして、だった。


「奇妙。信玄坊主は白き紙に自分の絵図面を好き放題描きたかったかのよ。真に純白な紙など存在せんことをさっぱり忘れてな……」

「信玄は自分をもう一人作ろうと……」

「そうだ。ずいぶんな口ぶりであったがあれは信玄を越える器ではない。信玄を越える事自体困難極まるのだがな…………。

 勝頼はそれをやろうとしていた。信玄はおそらくそれに気づき、勝頼を切り捨てた。子孫のためにいくら美田を買おうが子孫次第だと言う事を忘れてな……唐土の王朝もこの国の支配者も皆同じだ……」


 信長は織田家の繁栄よ永遠にとか考えるような人間ではない。これまでの数多のお家と同じく適当な所で消える物だと思い、後の事を信忠たちに任せるつもりだった。信忠が自分のやった事を全否定しようが、何も文句など言う気はなかった。


「されど、その時が来るまではせいぜいあがかねばならぬ。やるべき事をやったと思うようになるまでは必死にこの世にしがみつき、そしてそれからでも逝くのは遅くない……」

「必死にあがき、しがみつけ……」

「そうだ。だから父は逃げる事を恥とは思わぬ。武士は勝つことが肝要であって死ぬ事が肝要ではない。命を的にとか言う勇ましく甘美な果実に惑わされてはならぬ。

 ああ話がそれたな、信玄は百歳まで生きられれば生きるつもりなのだ。不可能だと言うに……」


 あがけもがけしがみつけとか言っておきながら、信玄を百歳まで生きるつもりだと嘲笑う自分の口に矛盾を感じなかったわけではない。だがそれが一番、信玄を説明するのに適当な形容だと思ったのも間違いなかった。


「確かにそうなれば武田はどこまでも膨らむ。だがその先にあるのは信玄でしかない、信玄には室町幕府以上の存在は作れぬ。いや、より進化した幕府を作るかもしれんが、それまでだ。それが悪とか愚かとかは言わぬ、織田も末には幕府の主になるかもしれぬしな」

「それは」

「だがそれだけでは元の繰り返し……無論古き故に尊きも卑しきもない。されどそのままではいかぬ。誰かが守る一方で、誰かが攻めねばならぬ。銃もない世界の兵法が現代に通じると思うか……?」

 武田信玄の古めかしさは、正直に言えば善でも悪でもない。古めかしいまま存在しているのならばどうでもよかった。

 だがそれでも時代は容赦なく変わっている、摂関政治はとっくに終わり、鎌倉幕府は歴史の一部となり、室町幕府も終わった。


「しかしそれは信玄を……!」

「不覚ながら認めねばならぬ。まさか信玄が謙信を討ち、太郎が北条をもしのぐとはな……どうせ国内とは言えずいぶんと手早く動いたものよ……」



 信長自身、信玄を軽視していた。

 古めかしく先の展望もないただの旧態依然。

 これまで幾度となく叩いて来た存在と同じ。

 それが下手に力を持ってしまっただけの存在。



 正直これまではそのつもりだったが、兼山城東で信勝と対峙して考えが変わった。


 さらに上杉謙信の死、北条と武田の騒乱と表面的和睦。



「太郎がいる限り武田は無制限に膨らむ。あくまでも己が身を守るために、いや純粋なる幕府の思想を守るために」

「その思想に織田まで付き合う必要はないと」

「そういう事だ。信玄とてそのつもりかもしれぬ、だが信玄を源頼朝や足利義満にせんとする人間は多い、そういう存在に要らぬ夢を与える」


 武田信玄と言う現在進行形の存在、武田信勝と言う未来の希望。

 信長が排除したい勢力からしてみれば文字通りの救世主。



「ならば…!」

「滅ぼしたいか?」

「毛利はおそらく武田とは話が通じぬと思います」


 毛利と言う言葉に、信長は目を細めた。

 室町幕府再興はもう無理としても、信長の勢力伸長を止めたい存在が武田に縋らぬ訳はない。その中で近畿の最大勢力が本願寺であり、中国の最大勢力と言うか統一勢力が毛利輝元だ。ごく一部では山名家以来の新六分一衆(周防・長門・岩見・安芸・備後・出雲・伯耆・隠岐・備中・因幡・豊前または美作)とかさえ言われている存在であり、織田が近畿を制した暁には次の敵となる事は必至である。


「毛利は武田と結ばぬと見るか」

「武田が何がしたいのかわからぬのです。元々上洛をしたいのであればもっと早く美濃に攻め込んでいるはずでしょう。信濃はまだともかく上野に何の意味があるのですか」

「そう、それこそよ」



 信玄に弱点があるとすれば、動機である。

 信玄が天下を治めて何をしたいのか、その行く先が見えない、というか見せていない。信長は幕府の復活と思っているが、自分に責任を擦り付けられるとは言え足利義昭を殺した男が今更幕府とか言った所で誰が信じると言うのか。

「毛利は武田と違い田舎者ではない。武田幕府なる物ができれば大内を始めとした旧勢力を打ち砕いて来た自分たちが冷遇され、と言うか旧勢力が織田よりましとして毛利を選んでいる以上、武田と言う存在が来ればそちらに傾く。この信長が少しばかり苛烈に締め上げたせいか、すがりたい物があればすがらずにいられまいからな。本願寺が駄目なら武田、武田が駄目なら毛利……彼らの依存先には限りがない」


 楽市楽座を始めとした信長の政策は確かに市場を活性化させたが、それは旧来の勢力を弱らせる行いでもある。言うまでもなく彼らは反発し、旧勢力の長である本願寺などに救援を求めて来た。

「しかしその依存先などことごとく潰して来たはずですが」

 だがその結果は芳しくなく、本願寺は伊勢長島の焼き討ちを止められず、朝倉は滅亡、浅井は服属、伊賀の国人衆も消され、加賀の一向一揆すら潰れた。そこに上杉謙信の死まで重なったものだから、それこそ絶望の中の絶望である。これで松永久秀が生きているのだから報われないし、備前の宇喜多直家が頼りになればいいが、噂によれば相当な腹黒非道男で、本願寺も歓迎していないらしい。




「私は、本願寺を叩くべきだと思います」



 そんな放っておいても織田有利そうな状況の中、信忠は積極策を口にした。


「どうしてだ」

「本願寺は現在の非勢を悟っており、この場での一挙の逆転を狙って来ると思われます。そこを叩けばもう二度と立ち直れますまい」

「二度と……?」

「僧兵は信仰を矛とし盾としております。しかし織田にはそれは通じませぬ。そうなれば武に頼るほかありませぬ、近々の強力な武に」

「強力な武?雑賀衆とでも言うのか」


 確かに紀州の雑賀衆は強力な傭兵集団であり、本願寺が当てにするのも至極当然である。

「しかし雑賀衆の棟梁が女を買いまくり、敬虔気取りな坊主たちが反発しているとも言うが」

 その棟梁の鈴木重秀は坊主たちに味方する割に好色家で、遊女たちを買いまくっている事は信長も知っている。

 それも間違いなく道楽ではあるが、宗教家の同盟勢力としてはあまり感心できない。




「皆無を一人と言うのは困難ですが、二人を十人と言うのは易い事です。それに鉄砲には鉄砲でございましょう」

「そうか……奇妙、なれば本願寺への出兵はその方に任せる」

「ありがたきお言葉!」


 全てを悟った信長は、信忠に本願寺への出兵を任せる事を決めた。


「ただ、滝川だけでなく筑前を共に連れて行け。古き者たちにはあれが一番効く」




 そんな息子に対する父親からの命令は、ただそれだけだった。




 こうして十七歳の青年は、大軍の主となったのである。

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