本願寺顕如、全てを知る
いよいよ第十章です。
第六次川中島の戦いから二月が経過した八月十六日。
東国にて武田が連戦に疲れ果て領国で刃を休め、また北条も甲州街道の敗戦で威を失いさらに武田との外交関係も自ら破綻させてしまう失態を犯してしまい、破滅的大敗を喫した上杉がかろうじて余喘を保っている中、一人の僧侶がやけに広い堂の中無言でうつむいていた。
「……………………」
中年と言うにはまだ若いその僧こと本願寺顕如は一枚の書状を開くや、深くため息を吐いた。
もう二十回も見ているのに、未だに信じられなかった。
————————————————————武田信玄が足利義昭を殺し、上杉謙信を討ち、さらに信玄の孫が北条をも破ったなど。
(謙信は誰よりも強き御仏の戦士……それがいなくなっては魔王に勝つ事など……それも事もあろうに同士討ちとは……)
信玄は優秀な軍略家であっても、武人ではない。配下には確かに猛将も多いのだが、そんなのは織田の配下で相殺されてしまう。
確かに信長は明智光秀を失ったが、彼は知将ではあっても猛将ではなく、一番酷い言い方をすれば代わりがいる存在だった。
その方向で一番恐ろしいのは、羽柴秀吉。
征夷大将軍さえも服属させた詳しい手はずはわかっていないが、それでも元農民と言う本願寺にとって主力と言うべき層からの大物の登場は単純に痛い。
六道の 権を振るいし 獄卒も せいてんの風 刃眠らす
こんな狂歌まであるらしい。
六道、と言うか地獄を取り仕切る獄卒も、こんな穏やかな「晴天」とそよ風の間ではゆっくり休んでいるだろうと言う、一見実に平和な歌だ。
だがその実は「六」道と「権」と言うのは権六こと柴田勝家であり、せいてんは「晴天」ではなく「斉天大聖」、すなわち「孫悟空」。つまり「猿」である。
秀吉本人が書かせたわけではないだろうが、第六天魔王を名乗る織田信長の配下として振る舞う二人の重臣のうち厳格な勝家との対比で秀吉へのよいしょと言うべき歌が出ること自体が人気の高さを思わせる。
元農民と言うのも、その層を当てにしていた身としてはかなり痛かった。
「しかし……信玄も何て言う事をしてくれたのだ……!」
こうして敵対勢力の人気が高まると言う事は、自分たちの人気が落ちると言う意味でもある。人気など戦で勝ってしまえばそれまでとか言うのは簡単だが、人気がなければ民は懐かないし兵たちの士気も上がらない。不人気な為政者では天下など取れない。
実際信長も庶民にはそれなりに人気だし、その部下たちも信長の方針が行き届いているのか荒っぽい所もあるが野蛮ではなく、京の民もだんだん心を許しつつあった。
……だと言うのに!
(上杉謙信は質実剛健で毘沙門天の生まれ変わりと言う肩書に説得力を持たせるだけのそれがあった。実際、前歴も誠意も幕府の忠臣、混乱を極めた世を治めるにふさわしいほどのそれだった。しかし信玄は……そのせいで北陸でさえも…………!)
甲斐の山猿とまでは言わないが、田舎侍。一応甲斐源氏と言うそれなりの下地はあったが、それでも室町幕府との繋がりで言うと関東管領である上杉謙信よりは遠い。
実際人気と言う点で行けば謙信の方が信玄よりずっと高く、信長に反感を抱いていた勢力の中には謙信の上洛を嘱望する存在も多くいた。真偽定かならぬ話だが、比叡山で炎の中に消えた信徒たちの中に謙信の名を叫びながら入滅した者がいたと言う話まである。
武田家の勢力拡大はまだ許せなくもないが、それが織田や徳川の領国を食ってのそれでないとなると話は違ってくる。
いや今回の戦いで武田が増やした領国は美濃半国程度であり、とても殺した数や敵の質に見合うそれではない。
一方で織田は上杉謙信の死に伴い、拠り所を失った能登の畠山と越中の神保は引き込んでしまった。と言うか加賀の一向宗自体が壊滅して織田領になってしまい、織田は能登・加賀・越中の三ヵ国を手に入れた事になり、下手すると信玄は北西からも攻められる余地を与えてしまった。
————————————————————最悪、織田が上杉を抱き込みにかかるかもしれない。
「景勝に使者を送ったのだろうな」
「それは無論……!」
武田と手を取り合えとは言えるはずもなく、必死に織田と戦えとだけ記しておいた。
上杉景勝は噂によれば叔父同様に気骨ある人物だが、それが武田、できれば北条にも向かないようにするのは本願寺の力では到底無理だった。
「はあ……」
信長と秀吉の人気上昇に伴い、本願寺の信望は薄れて行く。
その信望をつなぎとめるために、僧たちはこれまでと同じように「天罰」の二文字を乱用し、信長になびこうとしている存在の首根っこを掴みにかかる。
だが反応は乏しく、逆に向こうに追いやっているだけと言う意見もたびたび耳にする。
自分では乱用を控えるように申し述べているのだが、自分に近い存在が好んでその二文字を振りまいているため説得力は上がらない。
さらにもう一首、京に立てられていた狂歌の事を思い出す。
四方からの 導き弾く 山が虎は 競食させじと 小虎も牙剥く
川中島で謙信を討ち取ったことまでは許せる。と言うか、許す事にした。
足利義昭を殺したのも、そんな所に無理矢理連れ込んだ織田家のせいにできる。
だが、兼山城東の戦いで勝頼を堂々と犠牲にしたと聞かされた時には立ちくらみを起こしそうになった。最初は信長側からの宣伝だと半分に聞いていたが、話が入れば入るだけ本当に思えて来る。
どんな風に誘われようとも甲斐の虎は二虎競食の計にかかる事はなくあくまでも強くなり続け、小虎こと信勝と共に織田家に牙をむくだろう———————とか言う訳ではない。
四方の「四」は武田「四郎」勝頼であり、その勝頼の導きを無下にして山に住む「餓虎」はあるいは「小虎」こと信勝まで食うかもしれないと言う揶揄を込めた歌である。
「天台座主」の蛮行は、宗教界の地位を低める。
信勝に手をかける物かよとか言われた所で、義信と勝頼を手にかけた信玄ならやりかねないとか言われたら反論はできない。そんなのが頂点に立ちそうなのが果たして真っ当な政権なのか、その不安は比叡山や伊勢長島の焼き討ちを中和させかねない。
「……動くしかないか」
顕如はついに、腰を上げた。
出兵そのものは教如たちから幾度も促されていたが、京に残った兵がとか羽柴秀吉の存在がだのとか、さらに言えば京で行われた明智光秀の葬儀もあって織田軍が京に集結しており、ただでさえ遠征は困難だった。
さらに伊賀の国人衆も潰れており、大和はかつて大仏を焼いた松永久秀の領国で信長の敵にはなっても自分たちの味方には絶対にならない。
丹波や播磨の国人衆を促して後方や側面を突く事も考えたが、彼らとて力のほどは知れている。守りはできても攻めは期待薄だ。さらにその北の若狭武田氏は元から織田寄りだし丹後の一色は弱体すぎて数に入れられない。
そんな現状を説明してなんとか我慢させてきたのはいいが、それでも若い僧たちの暴走を顕如でさえも抑えきれなくなっていた。割と理性的な僧でさえも丸一日堂に籠って教文ではなく織田家への呪詛を唱え続け、休んだと思いきや自分たちの目の前で水ごりをして厳しい顔つきを作り上げ刀装の代わりに棒を振り回すなど、日に日に圧力が強くなっていた。
「雑賀衆は」
「用意は可能との事ですが」
「わかった、期日は九月一日。目標は京の都と皆に伝えよ」
信長は武田に備えるため岐阜城におり、柴田勝家は北陸の処置のため当分動けず、羽柴秀吉は今浜改め長浜の普請中、滝川一益は伊勢・伊賀の統治に専念し、佐久間信盛は相変わらず尾張・三河の守備に務めている。
今京にいるのは池田恒興と斎藤利三ら明智軍の後継と言うべき人間だけ。
あるいは誘っているのかもしれないとわかっているが、都合のいい情報を見つけてはこちらに逐一知らせて来る坊主たちのせいで織田内部の情報は既に把握してしまっていた。
(御仏よ……拙僧は結局殺生からは逃れられぬのでしょうか)
木喰応其でもないが、それなりに節制はして来たつもりだった。だがまだ所詮三十一、小坊主とか言う訳ではないが高徳とか言われるにはまだあまりにも幼すぎると言う自覚はある。
それだと言うのに殺生にばかり手を染め、信仰によって世情を癒せない。
盧舎那仏像の前でひたすら叩頭し教文を唱える僧の姿はどこまでも小さく、そして悲しかった。




